6 あなたのそばに

「珍しいわね。考え事?」


 背後から声を掛けられて廉司はウィスキーのグラスから視線を上げた。

 間接照明で演出された薄暗い店内。

 それでもはっきり美人だと分かるスタイルのいい女が、廉司の隣のカウンター席に腰かけた。


美咲みさき。お前まだ店に立ってんのか?」

「あら。私はここのオーナーだもの。居ても不思議じゃないでしょう?」

「……夏目は何も言わねぇのか。籍まで入れたのに」


 廉司が纏める飛廉会が縄張りとしている繁華街の一つ、入相町いりあいまち。夜に営業する飲食店が立ち並ぶエリアの一角に、この店――クラブ「フルール」がある。

 もともと入相町は組長に就く前の廉司の父、司郎が若頭時代に治めていた縄張り《シマ》だ。

 幼いころから司郎に連れられて夜の街を歩いていた廉司は、特にこの店の先代のママに気に入られていた。

 高校に上がる頃には後輩である夏目を連れて、ママに酒の味を教わった。ちょうどその頃、ホステスとして働いていたのが美咲である。


「大丈夫よ。今夜はたまたま。だって裏で仕事してたら、クルミちゃんが大騒ぎで戻ってきたんだもの。『廉司さんが上の空だー!』って」

「……ホステスが客相手にキレてんじゃねぇよ」

「何言ってるの。面白がってるのよ。だから私も思わず見に来ちゃった」


 リップの映える厚い唇が弧を描く。女に熟れていると自称する程度の男なら一発で気持ちを持っていかれてしまう、この笑み。惜しげもなく乱用する美咲が、実は計算高い女であることを知っている男は、きっと廉司と夏目ぐらいだろう。


 美咲に聞こえないように溜息をつきながらカウンターに向き直る。

 狙った獲物を逃さない術を知る女は彼の腕にさりげなく手を伸ばしてくる。抵抗するだけ無駄だから、そのままにしてグラスに口をつけた。


「何考えてたの?」

「別に」

「あ、その反応。仕事のトラブルではなさそうね。そうよね、廉司がその程度のことで上の空になったりしないものね」

「さあな」

「もしかして……女の子?」

「……」

「男の子?」

「殺すぞ」

「えっ、嘘! 初めてじゃない、廉司に女の子なんて。どこの子?どんな子?私の知ってる子?」

「うるせぇよ、お前は。いい加減裏に引っ込めよ。こっちは静かに飲んでんだ。俺と話してるなんて気づかれたら営業に支障が出るんじゃねぇのか?」

「スミレちゃーん。今夜はもう閉めちゃってー。他のお客さん、帰ってもらってー」


 お詫びにお菓子でも包んであげてね、とウィンクする美咲にバーテンのスミレが「はーい」と間延びした返事を返す。

 これ以上長居したら、本当に営業を切り上げるだろう。

 グラスの中のウィスキーはまだ三分の一ほど残っていたが、飲み足りない気持ちを抑えて廉司はカウンターの上の煙草とジッポライターを回収した。


「じゃあ俺もそろそろ」

「ダメ。廉司は私とお話するの」

「……あのなぁ」

「お願い。ね?廉司が高校生の頃から知ってるけど、今まで決まった子なんて一人も居なかったじゃない。ねぇ、気になるの。心配なの。だから、ね?」


 立ち上がりかけた廉司の腕に絡みつく。布越しでも分かるほど豊かな胸が押し当てられて、今度は盛大に溜息を洩らした。

 廉司が椅子に座り直したのを確認すると、美咲はスミレに明るい声で自分の分の水割りを作らせた。


「ダンナに殴られろ」

「あら。恭介はそんなことしないわよ。大丈夫。誰にも言わないから。絶対。約束」


(その『誰にも』の中に夏目は入ってないんだろ?)

 そう確認したかったが、やめた。

 差し出された水割りを口に運び、理由の分からない笑みを浮かべる美咲を見て、今夜この店に来た自分を悔やむことしかできない。


「ね、どんな子?」


 店内に流れていたジャズが“The nearness of you”に変わった。

 ネイルを施した美咲の細い手がカウンターにグラスを置く。その僅かな振動で廉司のグラスに入った丸い氷がクルリと回った。


「……さあな。よく知らねぇ」

「出会ったばかりなのね。可愛い?」


 チラと店内を見渡す。

 色鮮やかなドレスを身に纏い、華やかに髪をセットした女達があちこちで客の話に耳を傾けている。


ココの女みたいなタイプとは違うな」

「そう。次はいつ会うの?」

「もう無いだろうな」

「えっ?」


 美咲が驚きの声を上げる。

 思わず睨みつけたが、この女には効果がないのを再確認しただけに終わる。

 諦めて懐にいったん仕舞った煙草を取り出し、火を点ける。既に目の前の灰皿は新しいものに取り替えられていた。


「連絡先、聞いてないの?」

「聞いてない。思いつきもしなかった。名前だけ聞き出して満足した」


(その時はな)

 本心を言う代わりに紫煙を宙に吐き出したが、


「馬鹿ね。今になって未練が出るくらい本気なのに」


 ズバリと言い当てられて、我が事ながら苦笑した。

「笑い事じゃないわよ」と肩を揺すられる。美咲に叱られているという状況が更におかしかった。

 距離を詰める彼女の長い髪が揺れる。優しいコロンの香りが鼻腔をくすぐる。


「名前が分かったなら何とかならないの?恭介に調べさせるとか」

「お前、自分のダンナを道具みたいに」

「だって、このままじゃ――」

「いいんだ」


 あっさりと言い切った廉司に美咲は目を丸くする。


「きっと向こうは、俺と再会することなんか望んでねぇよ」


 コンビニに居たら、いきなりヤクザに声を掛けられて車に連れ込まれたのだ。

 すぐに解放されたとはいえ、交通事故にでも遭ったような気分だっただろう。カタギの人間なら尚更だ。平然とはしていたけれど、きっと怖かったに違いない。

 フィルターに口をつける。火がジジッと音を立てたような気がした。


 森の中で静かに息づく花の美しさに気づいたのなら、触れずにいてやるべきだ。

 無理矢理摘んで持って帰っても、花の寿命を縮めるだけなのだから。


「もういいんだ」


 ぼんやりした頭で己に言い聞かせる。


 自分のしたことは正しい。間違ってない。

 こんな宙ぶらりんな気持ちも、いつか晴れる。元に戻れる。

 彼女の存在を知らず、いつも何か物足りなさを感じていた毎日に。

 今までは気にも留めなかった道端の花を見ても、何も感じなくなるだろう。


 見かけよりしっかりした肩。凛とした横顔。絹糸のような黒髪。

 不意によみがえる彼女の記憶に胸が詰まることも、いずれは。


 氷が溶け、ほとんど水のような味しかしないウィスキーを飲み干す。

 美味さを感じなくなったことに表情を曇らせたつもりだったのだが。


「……ちっともよくないじゃない」


 そう言って、美咲は廉司の肩にそっと頭を乗せた。

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