其之八 風なき荊州

 荊南が鎮まった建安七(二〇二)年、秋――――。

 かつて洛陽に存在した太学たいがく(国立大学)の代理機関を目指して設立された荊州学府は開学五周年を迎え、その評判から荊州からだけでなく、近隣の州からも留学生が集まってきており、繁栄の様相を呈していた。

 とりわけ宋忠そうちゅう綦毋闓きぶがい隗禧かいき潁容えいようら全国に名が聞こえる名儒たちが教える古文学クラスは人気で、荊南出身の藩濬はんしゅん劉巴りゅうは、益州出身の尹黙いんもく李仁りじん、司隷出身の魚豢ぎょかん司馬芝しばしなどがその存在を光らせていた。中でも、兗州出身の王粲おうさんは教授も兼ねる秀才だ。

 彼らは後年の仕官先は分かれるものの、それぞれ歴史に名を刻む人物たちだ。

 張仲景ちょうちゅうけいが教える医療クラスでも、杜度とど衛汛えいじんなど後の名医たちが今は学生として、『黄帝内経こうていだいけい』のテキストと彼の医術を学んでいる最中だった。

『黄帝内経』は中国最古の医学書で、張仲景も学んだ。

 その医療クラスの学舎のかたわらで張仲景と話し込んでいるのは、孔明と荊南から戻ってきた徐庶じょしょである。

「まだ漢升かんしょうが長沙にいるから、疫病が収まったことは聞いて知っていた。反乱も鎮まったのなら、病人も怪我けが人も出なくなる。何よりの吉報だ。越人堂が機能していないというのは、少々無念だが」

 徐庶から長沙の様子を聞いた張仲景が医者の立場で答えた。

 漢升とは、黄承彦こうしょうげんの親戚で、長沙で孔明たちを出迎えた老武官、黄忠こうちゅうのことである。張仲景が長沙太守だった頃は上司と部下の関係だった。

 黄忠は孔明らと別れてからずっと予章郡との郡境に近いゆう県の守備に就いていて、劉備りゅうび軍とは直接争ってはいない。

伯緒はくしょの処遇はどうなった? 張羨ちょうせんを助けていたらしいが」

 張仲景が気にかけたのは桓階かんかいのことである。彼も元部下で、張仲景が長沙太守を解任した劉表りゅうひょうの処置に不満を募らせていて、それが張羨の叛旗はんき幇助ほうじょする形となって表れた。

「はっきりしたことは分かりませんが、張懌ちょうえきと共に逃げ出したのではないでしょうか。左将軍は誰も処断していないようですし……」

「そうか。安心した。有能な男だ。こんなことで死んでほしくない」

 徐庶の言葉に張仲景も胸をで下ろした。

 孔明も叔父が張仲景の治療を受けた五年前のことを思い出しながら話を聞いていたが、ふと我に返るように思考を今現在に引き戻して口を開いた。

 大切なのは今だ。治療を要すのは過去の叔父ではなく、今現在の月英げつえいである。

「仲景先生、桂花湯けいかとうのことですが、このまま続けてもよろしいですか?」

「うむ。彼女の様子は承彦殿から聞いている。あまり薬効は出ていないようだな。だが、彼女の心が晴れやかであるなら、それに越したことはない。ああ、そうだ。一つ良い薬を作った。血行促進に効果がある。作り方を教えるから、今度彼女に飲ませてみてくれ」

「はい、分かりました」

 それから孔明はその薬の作り方をつぶさに聞くと、それを頭にしっかりと記憶させた。

 

 医療クラスの学舎を離れた孔明と徐庶は文通亭へ向かった。池の中央に渡された廊下を歩きながら、孔明は徐庶の話を聞いていた。劉備の長沙鎮定の経緯いきさつである。

 徐庶は劉備の長沙逗留とうりゅうがしばらくかかりそうだということで、劉備の勧めもあって、襄陽に戻ってきていた。

「……それで、俺たちは行き詰ったんだ。見えない熱波の壁にはばまれているようだった」

「何だか廬江ろこうの時の雨と大雪を思い出すよ。あの時はそれが敵の火計から廬江を守ってくれたんだ。もしかしたら、長沙にもあったんじゃないかな。劉荊州の派遣した軍が何年も討伐できなかったんだから」

「神器の加護ってやつか? 張羨が神器を持っていて、あの熱波の壁はその霊力が形として表れたものということか。なるほど」

 歩きながら徐庶がうなった。数年前なら、「何を馬鹿なことを」と一蹴したかもしれない話が、仙珠神器の存在を知った今では現実味を帯びて聞こえる。

「それで、どうやってその壁を突破したんだい?」

「ああ、それなんだが、俺にもよく分からない。関羽かんう将軍が言ったんだ。武器を捨てたら、熱を感じないってな……」

「武器を捨てたら?」

「ああ。とにかく左将軍の命令で、俺たちはみんな武器をその場に置いて、川を渡った。渡れたんだよ、これが。熱波の壁をすり抜ける感じで。正直、まだ熱さは感じたんだが、耐えられないほどじゃなくなった」

「ふ~ん……。戦意に反応するんだろうか?」

 孔明は歩みを止め、廬江での出来事を思い出して記憶を探ってみたが、直接それに結び付く答えは見出せなかった。徐庶が話を続けた。

「川を渡っている途中で、不思議なことがあった。左将軍が何かに驚いてな、声を上げたんだ。その直後、熱さを感じなくなって……。何だろうな、熱波の壁が突然消滅したような感じだった」

 それを聞いた孔明は首をひねった。推測することしかできないが、

「どういうことだろう? 廬江の大雪が収まったのは、陸太守が亡くなられた時だった。張懌が神器を譲り受けたとして、城から逃げ出したのが、その時だったんだろうか?」

「分からないことだらけだな。臨湘りんしょうに入城した後、左将軍は城内をくまなく調べたけど、神器の存在もそれに関する証拠も見つからなかったからな」

 二人がそこまで話した時、ちょうど池に架けられた水上廊を渡り終えた。

 文通亭がある竹林に入ると、学友たちの聞きなれた声が耳に入ってきた。

 文通亭に一番乗りをしていた習禎しゅうていが遅れてやってきた先輩たちに尋ねた。

「書の展示会をやっていましたが、もうご覧になりましたか?」

「ああ、見てきた。どれも見事だったが、一番光っていたのは韋仲将いちゅうしょうの書だな」

 ちょうど書道クラスの学生たちの作品がコンテスト形式で学府内に大大的に展示されていて、孔明たちも文通亭に来る途中でそれを展覧・品評して見て回ってきたばかりだった。

 崔州平さいしゅへいが褒めた作品は司隷京兆けいちょう出身の韋誕いたんあざなは仲将という若者のもので、草書体の流れるような筆跡が大きな木版に書されていて、印象的だった。

「まだ無駄な力が籠っている感じがするが、筆跡に勢いがあった。迷いがない証拠だ。さすがは〝草聖そうせい〟張君の弟子といったところだな」

 崔州平は書法に関しては少々うるさかった。名書家だった崔瑗さいえん崔寔さいしょく親子は崔州平の祖先で、崔瑗は草書の達人として〝草賢そうけん〟の美名があり、崔寔もまた父の技法を受け継いで名書家として名を残した。崔氏は代々、文人と書家の家柄である。

〝草聖〟とは、張芝ちょうしの美称である。張芝も草書に特に優れており、崔瑗・崔寔亡き後の草書における第一人者であったが、彼もまた十年前に世を去っていた。

 韋誕は師を失ったのをきっかけに荊州へ遊学に来ていた。

「確かに子礼しれい先生も褒めていました」

 それを見てきたのか、習禎が言った。韋誕は邯鄲淳かんたんじゅんのクラスによく顔を出している。邯鄲淳、あざなは子礼。予州潁川えいせんの人で、篆書てんしょが随一と評判の老書家である。

 書道クラスは邯鄲淳のほかに梁鵠りょうこくが教授しており、こちらも全ての書法に通じる名書家であった。全国に名をとどろかす両名が教えるのだから、当然書道クラスもすこぶる評判が高い。

 梁鵠、あざな孟黄もうこう。涼州安定烏氏うしの名族出身で、かつてまだ無名だった二十歳はたち曹操そうそうを洛陽北部尉ほくぶい(北区警察長)に抜擢ばってきした人物としても知られている。

 晋代の名書家、衛恒えいこうあらわした書論『四体書勢したいしょせい』では、邯鄲淳は繊細な文字、梁鵠は雄大な文字を書くのに秀逸だったと述べている。

 ちょうど後漢後期から末期にかけての時期は書法界において発展が著しい時代であり、多くの能書家が誕生した最も華やいだ時代でもあった。

 同じ漢字といっても、時代によってその書体は同じではない。数百年も経てば、何事も変わっていくのは当たり前で、時代が変遷するのとともに漢字の書体も変わってきた。

 漢代における文書の公式書体は隷書れいしょである。秦代の隷書(秦隷)から発展した隷書体で、〝漢隷〟として区別される。

 また、この時期に隆盛を極めたのが〝八分隷はっぷんれい〟である。漢字の最も優美だとされる八対十の方正に整備された横長の漢隷であり、〝八分書はっぷんしょ〟とも称された。特徴は〝波磔はたく〟という技法である。八の字のように左右に払った筆先が、波の形になることからいう。この時代の能書家のほとんどが八分書の奥義に暁通ぎょうつうしていた。

 そして、後漢期に隷書体を簡素化して生まれたのが楷書かいしょ体であり、以来、八分書に加え、楷書も公式に使用されるようになった。

 他にも八分書や楷書をさらに速記そっき用に崩したものが草書、行書ぎょうしょとして成立するのだが、これらも後漢期に誕生したものである。

〝漢の字〟と表すように日本に漢字が伝来したのは漢代の頃だとされる。それに合わせて書体も伝わった。そして、後年、草書体をさらに崩して平仮名ひらがなが、楷書体の一部を記号化したものが片仮名かたかなとして誕生するのだ。

「聞いた話だが、あの曹操がしきりに孟黄先生の書を褒め称えているそうだ。曹操は荊州との和議を結ぶ条件に孟黄先生を求めたというから、書を見る目もあるのだろうな」

「和議の条件が一人の書家ですか?」

 石韜せきとうの話に習禎は信じられないといった感じで目を丸くした。

「ああ。孟黄先生の方が断ったというが。まぁ、どこまで本当か分からない。あくまでもそんな噂があるというだけだ」

「いや、十分考えられるね」

 孟建もうけんの言葉に孔明が真面目な顔をして呟いた。

「言葉に人を引き付けて従わせる力、人を動かす力があるように文字にも力がある」

 孔明の言葉に習禎はピンと来ていない様子だ。孔明が捕捉して言った。

「例えば、同じ指示をするにしても、下手くそな読みづらい文字で書かれた文書より、美しく方正な文字で書かれた文書の方が従いやすいだろう。だから、文字はある意味で権力の象徴ともなる。曹操はそれを分かっているんじゃないかな」

「なるほど。考えたこともありませんでした。では、劉荊州はそういうことも考えて荊州学府を作ったのでしょうか?」

「昔、先帝は書を愛し、鴻都門こうともん学を設置していた。荊州学府で書法の講義があるのも、そういう事情を考慮してのことだろう。確か孟黄先生は鴻都門学の出身だ」

 習禎の問いに崔州平が答えて説明した。鴻都門学というのは、かつて洛陽の宮城の鴻都門外に設立されていた芸術学校である。全国から選抜された学生がそこで書や絵画などを学んでいた。もちろん、洛陽が灰となった今、存在しない。

「どうした? 一言もしゃべらないじゃないか。今日は居眠り睡虎すいこの方か?」

 崔州平が珍しく沈黙を貫く徐庶に話しかけた。

「いえ……孔明の話を聞いたら、何だか急に恥ずかしくなってきました。私の字は上手とはいえないので……」

「確かに剣ばかり振ってきたその手では、筆を取るには不都合かもしれないな」

 自らは書に長じる崔州平が言って笑った。


 建安八(二〇三)年を迎えた。いつものように薬草を届けに黄承彦邸を訪問した孔明が冬の寒さに身を丸めていると、月英が温かな料理を持って現れた。

「寒いのにいつもご苦労様です。これを飲んで温まって行ってください」

 出された碗の中にあったのは孔明が張仲景に作り方を教わった〝袪寒嬌耳湯きょかんきょうじとう〟だった。

 張仲景はある時、冬の厳しさで耳に凍傷を負って苦しんでいる農夫たちを見て、彼らのために薬を作ることを決意、その開発に着手した。そして、弟子たちと思考錯誤の末、ついに出来上がったのが袪寒嬌耳湯である。

 羊肉と唐辛子、血行促進に効果のある薬草を入れて煮込み、取り出したそれらを細かく切って面皮に包んで耳状にし、それを「嬌耳」と呼んで、一碗の薬湯に嬌耳二つを入れたものである。これを彼らに飲ませてみたところ、すぐに耳が温まり、飲み続けることで凍傷の症状が回復する者も現れた。

 孔明が張仲景に教わったそのレシピを月英に伝えたところ、彼女は袪寒嬌耳湯を自身で作るようになった。それも独自にアレンジを加え、今日の袪寒嬌耳湯は桂花のスープに孔明が龐徳公ほうとくこう邸でもらってきた野菜まで入っている。薬というよりは立派な料理である。それを食した孔明はそのおいしさに思わず、褒めずにはいられなかった。

「こんなにおいしい料理は初めてです。月英殿の料理の才能は荊州一かもしれませんね」

「まぁ、孔明様はお口が上手ですね」

 手料理を褒められてうれしくない女性はいない。月英の笑顔は本物だった。

 月英がアレンジしたように体を温める薬でもあり、おいしい料理にもなる袪寒嬌耳湯はすぐに人々の間に伝播でんぱしていった。特に寒さが厳しくなる年初に飲まれるようになって、嬌耳はいつしか「餃子ぎょうざ」と呼ばれるようになる。

 以来、餃子は中国の代表的な料理として長く親しまれることになるのである。

「孔明様とお会いして以来、私は随分と心安らかになった気がします」

「月英殿も口がお上手だ」

「本当のことですよ」

「そうですか。では、有り難いことです」

 孔明は微笑んでまた桂花のスープをすすった。ほのかな香り。優しい味わい。心が温まる。

「荊州に来て、私もようやく心安らぐ生活ができるようになりました」

 徐州の惨劇の光景は未だ孔明の脳裏に刻みつけられていた。孔明はそれを忘れ去るため、心の平静を保つ修行を兼ねて、隆中りゅうちゅうの田舎に隠棲いんせいした。しかし、鍛錬たんれんの成果と心身の成長のおかげか、以前のような激しい発作ほっさはもう起きない。

「でも、孔明様もいつか荊州を離れてしまうのでしょう?」

「えっ?」

鳳雛ほうすう未だ羽生えず、梧桐ごとうの上に霊気おおう。稚龍ちりゅう今なお雲を得ず、茗渓めいけいのほとりに紫雲しうん立つ。図南ずなんの翼打ち張りて、いづれの日にか昇るべき……」

 月英がそらんじたそれは『荘子』の中の一節だ。

 おおとりひなはまだ羽も生えそろっていない。梧桐あおぎりの上には霊気が漂っている。龍の子供もまた飛び立つための雲を得ておらず、名のある渓流のほとりには紫色の雲がたなびいている。しかし、雄飛の翼を思い切り広げて、いつかは必ず天に昇ってゆくだろう。

「父が言っていました。荊州は龍のつい棲家すみかではない。今は飛び立つ風と宿るべき雲がないだけで、一度ひとたび風雲を得れば、龍は天を目指すだろうと……」

「そうですか。承彦先生も買いかぶり過ぎだ……。でも、たとえそうなるとしても、それはまだまだ先の話です。私は今の生活が気に入っています」

 のどかな隆中に居を構え、時々襄陽に出ては友と交流する。龐徳公・司馬徽しばき・張仲景・黄承彦などの師に教えを請い、薬草を月英の元に届ける。この生活に不満はない。だが、彼らは自分を龍だと評す。天翔あまかける龍だと。

 それを想像した時、避けられない敵がいる。天下をべようとする奸雄・曹操。

 曹操は新たな時代を創造しようとする英雄であることは違いない。

 しかし、孔明にとって、曹操は故郷に地獄を創出した許されざる男である。今は冀州を戦火に包んでいる。いつかは荊州にその破壊の火をもたらすだろう。

 せっかく手に入れた平穏な日々を、新しい故郷を、大切な人たちが暮らすこの土地を、また破壊され、蹂躙じゅうりんされるのか。私があの男の野望を阻止できるのか――――そんな思いが頭をよぎることがある。しかし、何の力も持たない飛べない龍の自分が天下を動かす英雄と対抗できるはずもない。その思いは現実味を持たない単なる妄想だ。

「この先どうなるかなど誰にも分かりませんよ」

 孔明はまた桂花のスープをすすり、その味わいを堪能して微笑んだ。

「そうですね」

 月英も微笑んで返した。戸惑いが入り混じった微笑。月英には予感していることがある。この人は父が言うとおり、いつかは飛び立ってしまうと……。

 月英も残り少なくなったスープをすすって心と体を温めると、一時の幸せの味を噛みしめた。

 

 建安八(二〇三)年、春。曹操は北伐を開始した。袁氏が支配する河北かほく(黄河の北)、冀州・幷州・幽州・青州の四州にまたがる一大掃討作戦である。

 袁紹えんしょうの長子は袁譚えんたんといい、三男は袁尚えんしょうという。この二人は曹操の見立てどおり、父の死後、後継の座を巡って争いを始めた。そこに付け入る形で曹操が介入し、袁譚の後押しをした。まずは袁氏同士で争わせ、勢力を分断し、その力を削ろうというのである。

 袁兄弟は曹操の思惑どおり、骨肉の争いを激化させ、自滅の道を歩んでいく。

 崔州平ら学友たちが北の動静に耳目を傾けている中、相変わらず南を向いている者がいた。龐統ほうとうである。魚梁洲ぎょりょうしゅうの姉の家を訪れた孔明を話し相手にぽつりと呟く。

「父のかたきとはいえ、あそこまでこだわるものかな?」

 この春、江東の孫権そんけんが再び江夏を攻めた。兄・孫策そんさくの喪が明けてすぐの行動だった。孫権の父・孫堅そんけんは江夏太守・黄祖こうその軍に殺されていたので、孫兄弟は黄祖を不倶戴天ふぐたいてんの敵として憎んでいた。父の仇を討つことは、儒教では孝行の一つとして認知されている。

「江夏太守が他の誰であっても、攻めてくるんじゃないかな。揚北ようほくを抑える曹操と戦える力はないから、荊州へ進出したいというのが本音だろうね」

 袁術の死後、江水(長江)を隔てて、揚州北部は曹操の支配下に入った。

 現揚州刺史は曹操に派遣された劉馥りゅうふくである。あざな元潁げんえいといい、予州はいしょう県の人である。劉馥は巣湖そうこの北、合肥がっぴに州府を設置し、山賊と化して各地を荒らし回っていた袁術軍の残党をなだめて収めると、その労力を城壁の修繕しゅうぜん屯田とんでん灌漑かんがい工事に振り向けた。巣湖周辺はもともと豊かな土地であったので、一旦争いがなくなると、合肥が米を備蓄できるようになるまで、数年もかからなかった。それはすぐに知られることとなり、江水を渡って揚州南部からも続々と流民るみんが押し寄せてきた。

 劉馥は彼らを受け入れると、学校を設立して民衆を教化した。このような劉馥の良政のお陰で、荒れ果てて空城となっていた合肥は今や数万の人口を持つ揚州一の拠点都市へと急速に変貌中である。

 孔明は疎開の旅の途中で、巣湖周辺の豊かさを目にしていた。もちろん、今の状況は知るよしもない。納得がいっていない様子の龐統に孔明が聞いた。

「何か引っかかることでもあるのかい?」

「確かに江夏は荊揚を繋ぐかなめの土地だが、荊州進出を狙うなら、長沙に出なかったのはどうしてだ? 裏で張羨と結んでいたのかもしれないが、長沙は亡父が太守を務めた土地だ。江夏より先に手を伸ばしたくなるものだと思うが」

「それもそうだ」

 孔明は叔父や姉たちと予章から長沙に向かった山越えの逃避行を思い出して呟いた。揚州西部の予章郡と荊州長沙郡は陸路で繋がっている。予章からの侵攻に備えて、州境に近い長沙ゆう県の守備に就いているのが黄忠だが、それだけで長沙ルートを選択しないという理由にはならない。反対に孫権側の予章西部都尉として長沙からの侵攻に備えているのが、かつて孔明たちを護衛した太史慈たいしじだった。

 劉表の甥の劉磐りゅうばんは勇猛な武将で、張羨討伐に加わった後、劉表の命で長沙に残った。そして、孫策への牽制を兼ねて度々予章への侵攻を繰り返した。この劉磐対策として、孫策が起用したのが驍将ぎょうしょうの太史慈だったのである。

 それからというもの、劉磐の予章侵攻はことごとく太史慈に撃退されて、ついには劉磐も諦めて侵攻しなくなった。

 太史慈の故郷である青州を支配下においたばかりの曹操が太史慈の噂を聞きつけ、〝当帰とうき〟という薬草を彼のもとに贈り、好条件で誘った。

まさに帰るべし〟という意味で、私の下に来いという暗示である。

 が、太史慈はそれをきっぱり拒絶したという。

 予章太守は孫賁そんふんといい、孫権の従兄弟いとこである。劉備に敗れた夏侯惇かこうとんは劉備を牽制けんせいさせるために孫賁に書簡を送って、長沙を攻めるように促した。対して劉備は孫氏の進出に不満を抱いていた異民族である山越さんえつ族たちを扇動して蜂起させ、孫賁の動きを封じ込めた。

「今は左将軍がいる」

 孔明も徐庶のように劉備を「左将軍」と呼んだ。孫権軍は江夏に黄祖を打ち破ったが、援軍として駆け付けた劉備軍を見て引き上げた。

禰正平でいせいへいの言葉がまだ引っかかっている」

 龐統がまたぽつりと言った。それは孔明たちを蝌蚪かと(おたまじゃくし)と一蹴した弁舌家の名だ。毒舌と幽霊。強烈な印象が頭に残っている。

「実は私もどうして禰正平が亡霊として見えたのか疑問に思っていた」

 禰衡でいこうは江夏で黄祖に殺された。その後、彼の幽霊が荊州学府に現れて孔明らと言葉を交わし、あまつさえ無知無能のやからだと中傷したのだ。死者の魂が幽霊となって見え、生者と会話するというのは超常現象であることに変わりないが、袁術の亡霊は黒水珠の霊力の仕業しわざだと納得している。だが、禰衡については納得できる理由はないままだ。

「江夏に下ってみようと思う」

「唐突だね。禰正平の足跡を追うのかい?」

「私なりの遊学と言っておこう。襄陽に生まれ、襄陽しか知らないのでは、私こそ井の中のかわずだ。従父おじ上も水鏡すいきょう先生も引っ越されたことだし、ちょうど良い機会だと思う」

 隠者の龐徳公は漢水の東、蘇岭山それいざん鹿門山ろくもんざん)の麓に再び居を移した。半月ほど前のことだ。それに伴い、孔明や龐統の師である水鏡こと司馬徽しばきも、

「――――もうそなたたちに何も教えることはないかな」

 と、言い残して、襄陽の南百里(約四十キロメートル)の南漳なんしょう県郊外に移住した。魚梁洲ぎょりょうしゅうの龐徳公の屋敷は子の龐山民ほうさんみんが引き継いで、孔明の姉のれいと暮らしている。龐山民と孔明の姉の玲が結婚したのは四年前のことだが、まだ子供を授かっていない。

 陰陽五行説では、水の気は生殖器に良い影響を与えるという。そんな張仲景のアドバイスに従ったのだ。龐徳公は一時期の間だが、黒水珠を魚梁洲の屋敷に保管していたことがあるし、孔明は黒水珠の霊力がまだ屋敷に残存していて、それが子宝という形で姉の体に天命を宿してくれたら――――と願った。

 と、孔明のそんな思いまでは知らない玲がいつものように畑でとれた野菜を見つくろってかごに入れ、弟のもとへ持ってきた。玲は自身に子ができないことに落ち込んだ様子もなく、いつものように弟たちの心配をする。

「今年はいい出来だわ。阿参は今食べざかりなんだから、ちゃんと食べさせなさいよ。それから、あんたは阿羞あしゅうちゃんをいつまでも待たせないこと」

「分かっていますよ、姉上。薬を受け取ったら、すぐに行きます」

「全然分かってないじゃない。学問はできても、これなんだから……」

 玲は賢弟の愚鈍さにあきれながら、薬草を手渡した。そして、

「それと、士元しげんさんにはこれ」

 そう言って、龐統に差し出したのは薬草を練って作った傷薬(軟膏なんこう)入りの小箱だった。玲も葛玄かつげんや義父、夫から薬草の基礎知識は学んでいる。

 きょとんとする龐統に、

「長旅に怪我けがは付き物でしょ。何かあったら使って。よくくから」

「これは有り難く」

 それを丁寧に受け取る龐統を見て、孔明は苦笑した。

 龐統は旅に出ることを従兄あにに伝えに来たのだろう。姉はそれを聞いて、頼まれてもいないのに薬を用意したに違いない。

 玲のお節介癖せっかいぐせは変わらない。しかし、それが妙に安心できるのだった。


 孔明から龐統遊学の話を聞いた孟建と石韜は驚き半分、不快さ半分、

「士元の奴、我等には何の挨拶もなしか?」

「全くだ。一言くらいあっていいものを」

 少々立腹気味に言った。龐統は孔明と話してから間もなく旅立ってしまった。

「まぁまぁ、おおとりは本来自由ですから。それに龐公先生も水鏡先生も引っ越されて、我々が一同につどう機会が減ってきましたからね」

 孔明が代わりにそう釈明してやった。正式に荊州学府のクラスに参加しているわけではない彼らがこうして文通亭に集うのは、月初めの月旦評げったんひょうのほか、実は半月に一度程度でしかない。その上、近頃は全員がそろわないことも珍しくない。

 今日も最年長の崔州平と最年少の習禎が来ていない。司馬徽の私塾が全員が定期的に顔を合わせる唯一の場所だったのだが、それがなくなってしまって、足並みは多少乱れてきている。

「水鏡先生も何でまた南漳なんかに移ってしまわれたんだろう。もっと近いところなら、通うことができるのに」

「私たちから距離を置こうとしているのではないでしょうか?」

「どういう意味だ、孔明?」

「私たちは図らずも、仙珠や神器といったずっと秘密にされてきた歴史の真実に関わってしまいました。それは同時にそれらの争奪戦や群雄たちの権力闘争に関わってしまったということです。劉荊州にも仕えなかった両先生からずれば、それは避けるべきことで、私たちはもう純粋な学生とは呼べないのかもしれません。新しく学生を教えるにしても、私たちの存在はかえって邪魔になるでしょうし……」

「我等が邪魔者になってしまったのか。何だか切ないなぁ……」

 それを聞いた石韜が嘆息して天を仰いだ。孟建が隣で黙している徐庶に聞いた。

「どうした睡虎すいこ?」

「いや、孔明の言うとおりだと思ってな……。あの仙珠を手に入れて以来、俺たちは変わった。今なら禰正平の言っていた井の中のかわずという意味が理解できる……」

 彼らはまさにこの荊州学府の文通亭で禰正平にその浅学非才せんがくひさいを指摘されたのだ。

「世界は広い。真実は深い。荊州にいるだけでは、本当の景色は見えてこない。……俺は左将軍に付いていくことを決めた。左将軍が荊州を離れる時は俺も離れるつもりだ」

 徐庶は熱い気持ちで学友たちに自らの決意を表明した。なかば劉備に仕えている徐庶である。孔明たちもそれには驚かなかった。ただ無言で頷いて、仲間の決断を称えるのだった。

「士元も言っていたな。何事もいつまでも同じではないと……」

「ああ、確かに。いつのことだったか……」

 孟建も石韜も龐統の話題から、また昔日を回顧した。

「先生方も士元も元直殿も、まだ皆荊州にいるのですから、また会える機会はありますよ」

 出会いと別れを誰よりも知る孔明はそう言って、迫り来る別れに沈みそうになる雰囲気を打ち消すとともに、自らをも慰めた。

 故郷の徐州瑯琊ろうやを去って十年。あの時、親戚たちともまたすぐに会えると信じていた。兄の諸葛瑾しょかつきんと別れて九年。まだ再会の時は訪れていない。それどころか、音信も途絶えたままだ。烏有うゆう先生こと葛玄と離れては、七年の歳月が流れている。

 自分はまだ飛び立てない。風のない荊州にしながら、ただ天を見つめている。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る