20 不幸せがやってくる前に

 目を覚ましたとき、私はソファに横たわっていました。窓の外は、雨にまみれて鈍い呼吸をする都市です。見下ろす限り構造物が立ち並び、ビルとビルの隙間を縫っておもちゃの車たちが走り去っていきます。太陽の残照が日常風景を照らしていました。寝ぼけ眼を擦ると、味気ない光景が明確になっていきます。

 習慣的に携帯を拾い上げました。無機質な画面は、何の変哲もありません。

 彼女はまだ知らされていないのでしょうか。帰ってきた頃には、再びあの大きな優しさに向き合わなければならないのでしょうか。彼女は暖炉です。炎を灯して、私を照らし続けます。私は笑顔になれるのでしょうか。裏切り者だというのに?

 いいえ、全ては必要なのです。私が過去を清算して、彼女との永遠を受け入れるためには必要なのです。

 大丈夫。彼女はきっとなお私を愛してくれます。私は彼女を信じています。全てを掛けて信じています。彼女は、何があっても私を愛すると言ってくれました。彼女が私を愛さなくなることはあってはなりません。そして、彼女も私も変わりやしません。全ては不変です。終わりは訪れません。

 私は立ち上がって、キッチンの中に入りました。白いマグカップと、黒いマグカップ。私はいつものように白を取ろうとしましたが、やはり今日ばかりはやめて、黒の方に手を伸ばしました。質素だけれども、かわいらしい。ココアを入れてから、お湯を注ぎ込みました。独特な甘い匂いが空気中に溶けていきます。カカオの芳香を深く吸い込むと、気持ちが安らいできました。

 このとき、リビングに設置されたインターホンから、彼女の帰宅を知らせる音声が鳴りました。一口だけホットココアを飲んだあと、黒い容器を食卓に置きます。私はすぐに玄関へ歩いていき、ドアの真正面に腰を下ろしました。胸がバクバクしています。緊張と同時に、期待にも満ちているのです。

 傷つけてごめんなさい。あなたはいずれ知る運命にあります。涙をこぼすかもしれません。裏切りによって心を引き裂かれるかもしれません。私同様に変化を恐れるようになるかもしれません。しかし、何よりも大切なあなたとずっと一緒にいるために、どうか臆病な私の心に力をください。そうすれば、きっと私は摂理というくだらない枷を破り捨て、前に向いて堂々と歩んでいけるはずです。

 ほんの少しだけでいい。私をそれでも愛して、大事にしてくれると言ってほしい。愛は変わらないものだと教えてほしい。

 ドアが震え出しました。ガラガラと、私の心臓を揺す振ります。音がどんどん大きくなっていきます。私は足を揃えて、顔の筋肉を動かしてみました。玄関の青白い光が、揺れて見えます。そして、ドアが開きます。

 ずぶ濡れの彼女。雨水によって光沢ができた黒いオーバーコート。咳混じりの息。洗われて束状になった黒髪。

「おかえり」

 笑顔で迎えました。彼女は近づいてきます。床に水をこぼしながら。全身に染み込ませながら。

 突然腕を掴まれ、私の身体が虚空に浮かびます。


 素早く振り上げられた彼女の手は、私の頬を叩いた。


 重心を失い、腰に激痛が走る。鈍物が床にぶつけられた瞬間、重たい打撃音が玄関で響き渡った。

 冷えた床。固まったスニーカー。水を吸った裾。震える青紫色の膝。か細い体躯。振動の速まる首。これ以上、視線を動かすことができない。私には、無理。背負い切れない。

 知りたくない。

 たくさんの過去が再映される。お母さん。お父さん。弟。モカちゃん。チョコくん。そして、彼女。家族と一緒に砂浜で夕暮れを眺めた日。小犬を贈られた誕生日。ピアノのコンクール。全てが消え去ったあと、独りぼっちのリビングから私を外へ連れ出してくれた日。

 初めて言葉を交わし、雑誌を渡されたこと。一緒にきらきら星を弾いたこと。あなただけに泣いてしまったこと。冬に、ケーキで汚れた私の口元を拭いてくれたこと。展望台で自由な海を見下ろしたこと。初めて本当の私を打ち明けたこと。そのときに、私をぎゅっと抱き締めてくれたこと。星空の下で、裏切り者の私を愛すると言ってくれたこと。桜に隠れておでこにキスしてくれたこと。白と黒のマグカップでココアを飲んだこと。優しい抱擁を交わしたこと。神社にお参りしてきたこと。私にだけ涙を見せて、私だけを愛してくれたこと。

 嘘つきの私と同じように、あなたも嘘をついていたのですか?

 ああ、何だか笑いがこみ上げてきた。それもそんなはずだった。彼女に見せてきた私の愛だって頼りないものだった。私はそれ以上に彼女を裏切ってきた。これは、裏切り者の私にとって当たり前の結末だ。

 私は自然と笑顔になっているはず。おかしくてたまらない。今なら彼女をちゃんと見られる。私は何でもできる気がする。

 彼女は立ち尽くしていた。どんなものでも乗せてきた背中から、今までの全てがあっけなく落ちていく。我を失った表情だ。白い。何の感情も込められていない。何の感情も漏れていない。

 彼女の口が歪に動いた。

「愛、して」

 愛してください。愛して損した。愛している。どれでも、さほど変わらない。

 ふらりと傾いた身体は、空気が抜けた人形のように床に座り込んだ。終わりが訪れた劇場特有の、焦燥感が一切消え失せた心地よい空気。天井は白熱灯の虚ろな光を発している。私はただ、この三年間の足掻きで三年前の結論にたどり着いたことがおかしくてたまらなくて、笑いが止まりそうにない。

 あれほど自分を戒めたのに、私は何一つ分かっていなかった。きっと今も分かっていないだろう。私は、何も分かっていないのだ。海辺の別荘なんて、始めからありやしない。ここにはなくて、海の更なる向こう側にもない。私が嘘つきであるように、彼女も優しい嘘つきだった。私が裏切り者であるように、彼女も優しい裏切り者だった。

 全ては仕方がないことだった。永遠なんてないことは、周知の事実だというのに。

 私がどんな仕打ちで彼女を痛めつけてもなお彼女は変わらずに愛してくれるなんて、これ以上ない愚かな妄想だと知っていたのに。

 弱まった蒼白な手が、私に伸ばされる。彼女は私の肩を掴む。小刻みに震える指が、まるで海に飲まれようとする遭難者のように力強く私に縋りついている。目元に涙はない。私よりも、彼女は強いみたい。

 呆然とした表情とは逆に、咳と言葉が連続して彼女の喉から絞り出された。

「私は何でも聞く、何でも。死んでもいいよ。ほら、君がいなきゃ、何で生きているんだろう。何で私なんだろう。何で私は馬鹿なんだろう。許さなくていいよ。もうだめだよ。すごく気持ちよかった。私がもう私をやらなくていいのが気持ちよかった。私はずっと君を愛しているよ。だけど私って何だろう。私が消えたら、もう君を愛していることにはならないのかな」

 彼女はふらりと立ち上がった。短い髪はゆらゆらと動きながら、廊下の奥に積まれたダンボール箱に向かって歩いていく。その上には赤いカッターナイフが置いてあった。彼女はそれを取り上げようとする。


 その瞬間、私は飛び上がって彼女に抱きつきました。


 私と共に尻もちをつき、彼女はダンボールから引き離されました。カッターナイフが軽い音を立てて、凍てついた床に落ちます。

 私は不器用です。自分を欺くことに向いていません。私のせいで根本から崩れた彼女を見て、笑える訳などありません。泣きたいときの笑顔はいつだって、他人に見せるためのものです。たった一人、彼女といるとき、私は笑わなくて済みます。だって、泣き顔とは、痛みを率直に伝えるための動作なのですから。

 私は思ってみてもいませんでした。誰よりも私を大切にしてくれた彼女が、容易く私を傷つけることができるということを。今の彼女は、過去の集大成としての彼女でしょう。彼女はいつでも今の彼女になれたかもしれません。歯車は既に外れていたかもしれません。掛かっていた鍵はとっくの昔から解かれていたかもしれません。

 それでも手放せない、たとえ永遠なんてなくても私は彼女を手放さない。私は彼女とずっとずっと幸せに生きていきたい。たとえ、私の最後の足掻きが否定され、誰よりも私を大切にしてくれたあなたさえも不変ではないとしても。

「私はそれでもあなたのことが好き」

 こうして初めて、彼女はただの温もりではなく、彼女でなければいけないのだと実感しました。恋い焦がれているのだと知りました。私は彼女が大好きで大好きで大好きで、彼女が離れていくのが怖いだけです。幸せを追い求める行為が自己目的化して、今ある幸せを大事にすることを忘れていました。私は、結局、彼女を一度も大事にしたことがなかったのです。

 三年前の結論にたどり着いたっていい。この三年間、私は強がらなくていいということを学びました。彼女は、どんなに弱い私でも受け入れてくれました。

 確かに不変の愛なんてなかった。永遠なんてなかった。しかしそれでも、つかの間の幸せを手にすることは誰にも許されます。私はつかの間の幸せをいっぱいに受け取りました。私は彼女といられて、とても幸せになりました。愛がいずれ滅ぶとしても、私たちは一秒一秒の幸せを噛み締めていけるのです。幸せは、瞬間に埋め込まれています。たとえいつか終わりが来るとしても、今の私たちは幸せになれるはずです。

 永遠のない世界で、永遠の代わりに時間を求めるか。それとも、無理やり永遠を作り上げる代わりに、時間を犠牲にするか。

 きっと、私は怖くて怖くて、泣いてしまうでしょう。しかし、私の中には選択肢が明示されています。私の愛も、私の恐怖も、私の歩むべき道も。皆、今なら分かります。

「私のお願いを聞いてくれる?」

 もしかすると私のそれよりも脆い彼女の背中に、汚れた熱い頬をくっつけました。彼女の腰にがっしりと固定した私の手に、一粒の水滴が落ちて、そして、ポロポロとたくさん落ちていきます。


 カーテンの表面から静かに紅が引いていきました。ゆるりと、青褐色に変化します。目を閉じて、華奢な彼女の肩に顔を預けました。きっと私は夢を見ているのでしょう。海辺の別荘を夢見ているのでしょう。大丈夫です。目が覚めたとき、私は執拗に追い求めてきた永遠のことをきちんと忘れます。きちんと、ピンで瞬間を留める勇気を出します。

 再び世界が瞳に舞い戻った頃、暗闇がリビングに落とされていました。夜の帳が掛かって、彼女の表情がうまく読み取れません。しかし、目覚める前からずっと肩を貸してくれているのが分かります。私は、頭を彼女の肩から離しました。その温かな、少女の手に手を乗せて。


 永遠なんて存在しないならば、刹那に生きればいいと思いませんか?


「私は、愛が減るのが耐えられない。幸せがなくなることが耐えられない。ずっとずっと二人でいたい。だから、不幸せがやってくる前に、あなたと一緒に死にたい」

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Euphoria K @KKKK2727

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