19 白百合

 空からポタポタと涙が降ってきました。せっかくの初デートは、雨の中で執り行われることになりました。

 ビニール傘越しに見るもや掛かった雲。隙間にくすんだ水色の光がじんわりと広がって、複雑な波紋を空に作り出しています。駅の出口に立って、せわしなく通り過ぎていく人影をぼんやり眺めていると、背後から先輩の声が聞こえました。振り返れば、にこにこした笑顔が既に私を捉えています。

「ワンピース、かわいいね」

 世のカップルとはこんなものなのか、と妙に納得しました。彼がテンプレートの台詞を極めて正確に話しますので、私もテンプレート通りに礼を述べます。そして、慣れた動きで手を引かれ、駅に接するショッピングモールの中に入っていきました。

 さすが若い女性からの支持が厚い売り場、流行に乗った洋服が各有名ブランドのショーケースにずらりと並べられていました。客に商品を印象づけるための照明が無感情に光を押しつけてきて、目がチカチカします。店と店の間隔は非常に狭いです。場所を有効利用するという角度から考えれば、効率性に優れた配置の仕方ではありますが、何だか密閉空間に閉じ込められているような息苦しさを覚えます。

「好きなお店とかある? 白い服が好きなんだよね?」

 入り口に設置されている店舗一覧の看板を見て、先輩は優しげな口調で尋ねてきました。

「うん。派手すぎるのはちょっと苦手だけど、かわいいワンピースが好き。白も好き」

 黒なんて、着こなせる気がしません。だから、私は小さな嘘をつきました。最初から彼を欺いているのにも関わらず、今更罪悪感が胸に沸くのはなぜでしょう。かわいいワンピースも白い洋服も、先輩ではなく、彼女に見せるためのものだからでしょうか。手放すことができないくらいに、裏切らざるを得ないくらいに愛しているからでしょうか。

 しかし、私は裏切りを重ねすぎました。ジャムのようにべたりと顔面に塗られた笑みは拭い去られません。

 切望するものを手に入れるためには切り捨てる必要があり、現に先輩の気持ちは切り捨てられています。他者を切り捨てるほどの望みだからこそ、私は誰からも赦されないとしても、やすやすと周囲を裏切っていくのです。

 展示物を置き去りにしていきながら、先輩から顔を逸らして質問しました。

「私たちのことは、サークルの皆さんにも知られていますか?」

「ああ、うん。聞かれたからつい。まずかったのか?」

「ううん。大丈夫ですよ。それがいいです」

 泳ぐ視線が最終的に落とされたのは床でした。床を見ていると、裏切りを正当化することで身を守る汚い自分を、知らなくて済むような気がします。

 しばらくは二人でショッピングモールを漫歩していましたが、ネックレスの店が目に止まった先輩は急に、

「買ってあげるよ」

 と言い出しました。心臓が一瞬跳ね上がります。どこかで同じ不意打ちを食らったことがあるのでしょうか、その瞬間だけ先輩の瞳が私の過去に重なりました。私は彼に対して鼓動を感じたのではなく、思い出に対してです。いいえ、思い出よりも本質的な部分で、私の欲した温もりに触れたのかもしれません。

「そんな、悪いですよ」

 もちろん、難色を示して断りました。それでも、かっこいいところを見せたい先輩は引きません。

「この間ネックレスがほしいと言っていたんだろう?」

「だからって、買ってもらっちゃ先輩に悪いです」

「いいの、いいの。俺から言わないと、ほしいものを教えてくれなさそうだからさ。いい子だな」

 いい子。冗談っぽく白い歯を見せる先輩ですが、私は固まりました。瞬時に今までの行いが胸から体中へ蔓延していき、とうとう脳に這い上ったときは、私が何をしているのか、自認しなければいけなくなったのです。何でもない、現実の私は二股を掛けています。この事実には度重なる言い訳をつけてきましたが、私が並べ立てた理論によって事実が捻じ曲げられることは決してありやしないのです。

 私は目の前の彼と、私の全てである彼女を、裏切っている。私は今すぐ全てをやめて、逃げ出すべきだ。

 空調から澱んだ空気が際限なく吹き出されて、頭上に降り掛かります。ただ体が凍てついて、足がモールの床に吸いついています。

 動け。ありやしないものを手に入れるためには事実さえも切り捨てる妄執が必要だ。ここで立ち止まってしまえば、どんな私であっても彼女は愛してくれることを証明できない。人の気持ちは簡単に離れる。私は一度全てを悟らせられた。私はそんな世の摂理に反抗したい。永遠などない、不変の愛などないという摂理に。

 ――何で誰もいないの。何で誰も側にいてくれないの。何で誰も私を愛してくれないの。何で私を置いていくの。

 だって永遠がないから、不変の愛がないから。とっくの昔から知っている。それでも彼女となら私はずっと幸せに生きていける。彼女は決して私を拒絶しない。じゃないと、私はどうして生きている?

「どうした?」

 はっとして、横の先輩が黙り込んだ私を心配そうに見つめていることに気づきました。私はどう応じるべきか分かりません。だから、笑顔を見せました。笑顔とは、私はあなたを害するものではありません、と伝えるための動作です。そして、裏切り者が裏切りを隠すための動作でもあるのです。

「ネックレスを見ていたの。この金色のもの、かわいいと思って」

 先輩は理解した風に頷きました。彼はごく自然に、金色のネックレスをレジまで持っていきます。

 ここも、彼女と同じですね。とっさに一番安いものを選んでおいてよかったです。

 帰ってきた先輩は、早速ビニール袋を開けて、ネックレスを取り出しました。最初は手に持ったまま私の首を恥ずかしそうに眺めていましたが、結局、私に手渡して、

「今掛けてよ。絶対似合うから」

 と不器用な照れ笑いをしました。私は彼の指示に従って、全く好みではないネックレスを首に嵌めます。


 その後、私と先輩はショッピングモール内のカフェで休憩をしました。店員は微笑ましそうに私たちの注文を聞いて、二つのカップにハートを描きました。先輩は季節限定のラテで、私はホワイトモカ。カップルだらけの店内に一般的なカップルとして溶け込むこの感覚は、生まれて初めてです。

 なんて居心地よいんだろう。

 今年の冬、合格祈願のために彼女と神社へ出掛けました。そのときに、彼女は繋げようとした私の手を拒絶しました。周囲の評価を気にする彼女ですから、当たり前です。それでも、普通のものとしてあり得たかもしれない幸せが眩く感じられます。

 窓側席に座って、静かにドリンクを啜りました。彼の色鮮やかなラテに対して、私のホワイトモカは温かい白色をしています。

「先輩、一口交換してもいいでしょうか?」

 私はホワイトモカを先輩に差し出しました。先輩はじろじろとストローの先を観察してから、何事もなかったように口に含みます。私も同様な行為をしました。

 既成事実を作り上げたあと、携帯を取り出して、彼に見えないようテニスサークルの女先輩にメッセージを送りました。

『実は、今日キスまで行きました! 自分からあの子に言うのは恥ずかしいから、つき合っていることを先輩から言ってもらえると助かるなー、なんて』

 吐き気を催す文面を再度確認してから、私は携帯をバッグに入れました。キスではなく間接キスですが、彼女を刺激できればそれでいいのです。周りをどれほどボロボロに傷つけてもなお、ずっと、がほしい。そしたら、私は裏切り者をやめられる。私は彼女との未来を迎える。私はやっと本当に幸せになれる。

 ショッピングモールの外は赤い世界でした。午後の雨が、泣き腫らした粒子となって、激しく肩に打ち落とされます。


 幸せな夢を見ました。

 白百合の咲く草原を、穏やかな海風が撫ぜました。手を引かれて一歩一歩踏み締めた先、そこは視界を埋め尽くす大海原です。原石の蒼。ひんやりとした塩味の空気。白い風車のそばから、鈴が鳴りました。岸に止まっていたカモメは、一斉に飛び散ります。

 羽根の舞い落ちる天空へ、摘み取った白百合を差し出しました。強い風に揺るがされ、花弁がパラパラと虚空に吸われていきます。私の手向けは海の反照を寄せ集めて、緩やかな光を放ちました。薄く伸びた雲の先まで、純白の蝶となって飛んでいくのです。

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