3 恋する人間

 私が目論んだ通りにはなかなか行きませんでした。

 私は根本的な部分を間違えてしまったのです。今まで助けてきた子たちは、誰もがクラスに溶け込めないことで思い悩む人間でした。しかし、あの子の抱える事情は違いました。

 彼女は私に笑ってくれた日以降でも、だからといって私に興味を示しません。夏休み中、自分からメッセージや電話をくれることが一回もありません。最初はころりと落ちてくれたかと思っていましたが、彼女はあくまでも受動的です。あんたが近づくのは許す、でも私からは行かない、もし離れるのならそれで終わり、といった具合です。

 私でさえもあの頑固な姿勢をただすことができないのですから、このままでは私の関与が何の意味をもなしません。今彼女を離れたところで、彼女は絶対に一人寂しくご飯を食べます。孤独が好きなら別の話ですが、彼女は人に好かれたいと打ち明けてくれているのです。

 これでは彼女に十分な愛が分配されません。それは、私が困ります。皆を等しく好きでいることは、言い換えれば皆が自分にとって等しくたったそれだけであることです。人に裏切られた際のダメージを軽減するために、誰をも愛しすぎないことが大切です。

 そうですよね。皆に平等、これで全てがうまくいきます。


 始業式の翌週の金曜日。彼女の態度を変える方法で頭を悩ませていた私は、学校の外が土砂降りであることに気がつきました。

 雨を眺めていると、突如ヒントが浮かんできます。私がもっと彼女と距離を詰めれば、友達とは楽しいものだと気づいてもらえるかもしれません。いえ、別に友達のどこが楽しいのか私にも分かりませんが、世間では友達とはいいものだと口を揃えて言うのではありませんか。

 私は彼女が傘を持っているか確認しました。私同様、持っていないと言います。これがチャンスです。家に招き入れて、雨で疲れたところを色々サービスしてあげましょう。そして女子高生っぽくおやつでも食べながら、お泊まり会をしてみましょう。彼女が友達のよさに気づくための第一歩です。

「私は一人暮らしなの」

 私の中で越えてはいけないラインに触れない程度で、私の情報を与えました。彼女は当然、驚きます。しかしやはり顔の変化が乏しいのか、そこまで驚いている風には見えません。夏休みに遊んだり学校で話したりするとき、彼女が感情をあまり顔に表さないことに気づきました。私のようにコントロールしている訳ではなく、ただうまく表現できないだけだと思います。

 二人はその後、土砂降りの中を突っ走りました。思い切り雨に降られるとなぜか気分が高揚してしまい、思わず転びそうになりました。シャワーを浴びれば雨なんてどうと言うことはないのですが、変ですよね。ええ、私は決して日常に非日常が割り込むことで興奮などしていません。してはいけません。

 そんなんじゃまるで、私の機械的な作業が本心みたいではありませんか。


 扉を開けて、彼女を玄関に入れました。

 二人とも白いシャツが透けていて、肌まで露わになっています。彼女は水を乗せた革靴から足を抜き、肌に密着した長い靴下を脱ぐために前かがみになりました。外の温く湿っぽい空気が土の匂いと共に玄関に運ばれ、全速力で走った際の疲労がどっと押し寄せてきます。

 丈ぴったりで折られていないスカートから、彼女の痩せたももが覗きます。皮膚に吸いついた水滴が、揺らされて、靴下の中にこぼれ落ちます。やっと脱ぎ終わりました。立ち上がった彼女の背丈は私より少し大きいです。相変わらず冷淡な顔で、なぜか私を何秒か見下ろしたあと、ぷいと振り向いてしまいました。

 無口な人って、雨で髪を濡らされると色っぽく見えるな。と、妙な感想を抱きます。

 私たちは交互にシャワーを浴びました。彼女がTシャツとショートパンツの格好で出てきたときは、思わず笑ってしまいました。超絶、似合いません。いや、素性さえ知らなければとても似合うのですが、あの性格でこれは面白いです。

 でも、中途半端に髪を乾かしているせいで、やはり黒髪が少し湿っています。先程抱いた感想を思い出してしまいました。ラフな格好で気づきませんでしたが、髪が濡れている姿が、何と言いますか、ええ、似合うと思います。彼女に憧れるという後輩の気持ちがちょっと分かります。ほんの少しだけです。

 ソファに座って、音楽を流すことにしました。聴きたい音楽のジャンルは「別に何でもいい」とのことなので、自分用に作ったプレイリストを流してみました。懐メロばかりですが、趣味なので仕方がありません。人間は幼少期に聴いた音楽を好む傾向があるらしいのですが、残念ながら、あの女はこればかり流していたのですから。

 あの膝の上で寝ながら、車の中で聴いたっけ。

 いけません。今はそこに触れてはいけません。

 勝手に沈んでいく気持ちを追い払うために、私は慌てて彼女に学校の噂話や恋バナを教えてあげました。女子中高一貫校ですが、男子校の生徒とつき合っている人は少なからずいます。

「へえ」

 彼女は興味なさそうな返事をしつつも、時々質問をくれます。この手の会話が成り立つのは意外でした。てっきり「どうでもいい」とそっぽ向いてしまうのかと思いましたから。

 彼女が会話してくれることが嬉しくて、いや、彼女を外の世界に引きずり出すため、私は饒舌になってしまいました。そのせいで、話せるネタがどんどん減っていきます。

「好きな曲とか、ない?」

 ネタを提供するためと個人的な興味で質問してみたら、彼女はロックバラードやアコースティックなラブソングを携帯で流してくれました。洋楽が多めです。しかも聴いたことがないマイナーなものばかりです。つくづく凝った趣味だなあ、と感心しました。

 それも聴き終わりそうになった頃、窓の外を見てみました。まだ大雨です。泊まってくれればいいのですが、彼女の家族は許してくれるのでしょうか。できれば夜遅くまで粘って、泊まるしかないよね、という流れを作りたかったのですが。

 私は起き上がって、彼女に聞きました。

「そういえば、ピアノ弾ける?」

 ピアノをネタにしてみようと思いました。もし弾けるなら、あと三十分は楽しく過ごせるでしょう、彼女が。

「小さい頃に習った程度だよ。あんたは弾けるの? あ、置いてあるから弾けるか」

「私も子どものときに習ったくらいだよ」

 嘘ではありません。あの人たちが離婚してから、レッスンに通う気力もなくなりました。通いたいと言えば、金だけは出してくれると思いますが。

 軽やかにソファを下りて、私はピアノの蓋を開けてから椅子に腰を下ろしました。彼女は側に立ってピアノの姿をじっくり観察しています。そのうち私がかつて獲得した賞状を見つけて、彼女にしては大げさに驚きました。彼女は他者からの評価を重く受け止めがちです。そのため、私の成績や受賞歴にばかり目が行ってしまい、私の人間性自体に興味を持ちません。

 まあ、こちらの都合上その性質は助かりますが。

 私は試しに曲を一つ弾いてあげようと考えました。できれば、明るいものがいいでしょう。子犬のワルツ、はどうでしょうか。モカちゃんとチョコくんを思い出しますので、やはりやめた方がよさそうです。

 様々なアイデアが思い浮かぶ中、私は突然ある明るいメロディを思い出しました。幻想的で、澄んでいて、綺麗なメロディです。私が好んで弾いていたのもあって、うまくできる自信はあります。綺麗なものに弱い彼女は、きっとこれも好きになってくれるはずです。これにしましょう。

 私は鍵盤を押さえました。そして指をこまめに動かして、演奏を開始しました。最初のうちは慣れ親しんだメロディを再現するだけの話なので、私は楽々と音を紡ぎ出しました。しかし、途中まで来て、私はやっとこの曲が本来何であったか思い出したのです。あえて記憶を避けることは、時々その記憶を爆弾として埋めることと同等の意味をなします。そして今の私はまさに、埋められた記憶に足を突っ込んだのです。


「お母さんと一緒に暮らさない?」

 女が涙を浮かべて、ドアの側に立っていた。既に小犬たちは離れ離れになってしまったあと。残りの課題はどう私を処理するかだった。

 私はレッスンで習った最後の曲――ノクターン第二十番を演奏する真っ最中だった。ショパンの遺作。活気のある朗らかなパートが切ない主旋律に挟まれると余計に儚く感じられるため、私はあえて明るいパートだけを抜き出して演奏するのが好きだった。

 手続きや後処理に追われたあの頃は、子犬たちさえもが奪われて、縋りつく対象がピアノくらいしかなかった。

 私は残酷な仕返しをしたと思う。お母さんと自称するあの女に対して、演奏しながら、

「あなたはもう私のお母さんではないでしょう?」

 と言い放った。

 泣き声が更に煩わしくなる。うるさい。うるさい。黙れ。私たちを裏切った裏切り者が。

 耐え切れず、鍵盤に手を叩きつけて立ち上がった。瞬間、汚れた大音量の不調和音が暴力的に響いた。

 私に裏切りの瞬間を見せつけた。私が皆を離れ離れにしなければいけなかったんだ。その気持ちをお前が知る訳などない。

 そう。確かに私も裏切り者だね。ごめんね、モカちゃん、チョコくん。私が真実をお父さんに告げなければ何も起こらなかったもの。そしたらあの子だって、きっと笑ってくれていたのに。きっと私を裏切り者呼ばわりしなかったのにね。


「夜想曲」

 憤慨した声が私に放たれ、やっと意識が現在に引きずり下ろされる。

「ショパンの遺作でしょ? 何で始まりを飛ばしたの」

 彼女の声です。そういえば、私は彼女に聴かせるためにノクターンを弾いたのでした。私は、彼女を平等に愛するため、具体的な行動として彼女をクラスに馴染ませるため、彼女を平等に友達として扱うために弾いたのです。

 いけません、踏み違えました。今すぐ笑わなきゃ。早く、私の脆い中身を暴露する前に。

 ダメ、涙が収まってくれそうにない。どうしよう。

 どうすればいいの。

 図らず他人に弱い自分を見せることは本当に恐ろしいです。彼女は戸惑っているのでしょうか。そうして私の中に踏み込んでくるのでしょうか。

 絶対にダメだ。でも、早く彼女に何か言わなければ踏み込まれてしまう。

 私は振り向いて、立ったままの彼女を見上げました。ぼやけた視界、しかし、それでも彼女の変化は気づくに足るほど明らかだったのです。私は、本当に踏み違えました。悪夢なのでしょうか。私はこれを最も憎悪しているのに、彼女をそんな顔にさせてしまうなんて。

 何度も他人に向けられることがある表情。一番この表情をしてはいけないこの子が、私に、まさに恍惚とした表情を向けています。

 彼女まで踏み違えました。ただでさえ、私たちは女性同士なのに。しかし、残念ながらそれよりもタチが悪いことがあるのです。

 私は彼女の愛がどれだけ早く萎えてしまうのか知りたくなりました。彼女に愛がどれだけ容易に変質するものなのか見せつけたくなりました。何よりも、私自身に不変の愛を信じることの愚かさを叩き込みたくなったのです。

 ずっと続く愛など存在しません。それなのに人は恋を崇めます。これだから、私は恋をする人間が一番嫌いなんです。

 簡単に裏切るくせに。

「ねぇ、今日は泊まってよ」

 彼女に深入りしないという予定は変更になりました。私は彼女に恋とはどれほど脆いものなのか、悟らせることにします。これは彼女のためでもあるのです。早いうちに、人間の気持ちとは容易く変質するものであると理解すべきですから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る