4 惨めな願い

 ざらざらした紅葉の絨毯が道路に敷かれた十月の頃、Kから一通のメッセージを受信しました。

『来週水曜の夜、チョコが病院で検査を受けるけど、母さんたちが仕事、俺は模試でどうしても行けないから、病院まで迎えに行ってもらえる? あとで三階に行くから』

 要するに、犬をしばらく預かっとけという話でした。もちろん喜んで引き受けます。と、いうより。

「やったー!」

 一人暮らしなのをいいことに、天井に腕を伸ばして思い切り叫んじゃいました。

 だって、もう三年近くチョコくんに会えていないのだもの。出会った頃こそ子犬でも、ずいぶんと時間が経ってしまったのですから、もしかすると次に会うのはお葬式かもしれないと不安に思っていたのです。

 まさか、来週に会えるだなんて! どうしよう、今からドッグフードを買いに行く? 私のこと覚えているかな。私と一緒に遊んでくれるかな。わあ、どうしよう! もう、食卓ごと移動させてリビングを走り回れるようにした方がいいのかな!

「こほん」

 落ち着きましょう。とりあえず、スケジュール帳に入力しておきましょう。来週の話ですから、ドッグフードは明日にでも買いに行けばよいです。食卓を移動させるのも当日で構いません。水曜日には簡単な料理を作って、チョコくんに会わせてくれたお礼としてご馳走しましょう。最上階と交渉して、モカちゃんも連れてきましょう。これで、二人、いえ二匹はきっと犬生で最も感動的な再会を遂げることができます。

 深呼吸をしてから、返信を打ちます。

『では、迎えに行きます。久しぶりにチョコくんに会えて、こちらも嬉しい限りです』

 意図的に距離感のある文を打って、送信。これで楽しみにできることが一つ増えました。

 ルンルン気分でソファに横たわると、突如、私は自分に思慕を寄せる彼女のことを思い出しました。もし彼氏がいる風に見せ掛けたならば、きっぱりと私のことを諦めるのでしょうか。彼女の気持ちはたったそれだけで、簡単に消え失せるものなのでしょうか。

 私は、携帯の画面をしばらく眺めました。どこまで主体的に動くべきか、今こそ今後の基準を決めるときだと思いました。彼女は私を憎むようになるでしょう。私を、裏切り者だと言って。

 それは何一つ間違いではありません。十人十色と言いますが、私の行為に対しては誰もが批判するのでしょう。それで問題ありません。

『Kくんが行きたいところならどこでもいいよ』

 デートの約束っぽく書きました。宛先を彼女にして、送信します。

 ごめんなさい、K。名前を借りちゃいました。これで万が一のことがあったら、弟だと説明して責任から逃れることができます。彼女が他人にメッセージのことを話さない保証がありませんから。

 我ながら、最低の行為です。しかし、こちらがきっと私たちのためになります。

 私は、人から特殊な好意を向けられるのだけは、どうしても受け入れることができないのです。


 いよいよ水曜日がやってきました。チョコくんに会いに行く日です。

 私のメッセージに言及せず、彼女はただの友達として振る舞ってくれました。昼休みに同じ机で弁当を広げ、放課後には共に下校する、ただの友達です。その態度は、私の勘違いではなかったのかと思ってしまうくらい淡白です。

 これが真実だったらよかったのに。

 残念ながら、私と目が合うと顔を背けたり、恋バナに対して動揺したりするあたり、やはり私のことが気になるみたいです。立ち回ることだけは上手なのですから、そうやって好意を持たれてしまいがちですが、私は恋の対象に最もふさわしくない人間です。今までの行いから既に明らかなことですが。こんな私に惹かれる彼女は、既に不幸なのだと思いました。

 放課後、チョコくんを迎えるため、彼女の部活を待たずにカバンを片づけていたときでした。

 夕日に照らされているこちらの窓側席とは対照的に、暗闇の膜が掛かったような教室の扉がガラリと開けられました。彼女が一人教室に入ってきます。

「あんた、もう帰るの?」

 不思議そうに聞かれました。私がいつもと異なった行動をしているからでしょう。素直に答えます。

「うん、人と約束をしているの。だから、今日は早く行かなくちゃ」

「それって彼氏?」

 すかさず、問い詰めてくる彼女。こう来たか、と、少し驚きました。ずっと触れないようにしていた彼女が、今この問題を引っ張り出してくるなんて。やはり、メッセージを受信した日から不審に思っていたのでしょうか。自分はそのつもりで発言した訳ではなかったのですが。

 彼女は辛そうに私から目を逸らしました。俯いて、机をじっと見つめています。初めてこれほど弱々しい彼女を目の当たりにしました。恋って怖いですね。改めてこんなありきたりな感想を抱くくらいには、目の前の彼女が少女らしい表情をしています。

 薄めの唇を軽く噛み締めて、途方に暮れた女の子みたいに背を丸め、机の上を凝視しています。

 今が彼女の答えを聞くチャンスだと思いました。あなたは、どこまで許せて、どうすればこの感情を手放すのでしょうか。

「そうだと言ったら、どうする?」

 私が言い放つと、彼女はふいと顔を上げました。

 その顔は、ずるかったです。

 どうして今日の彼女は、今まで見せてくれたことのない表情を私に押しつけてくるのでしょうか。私を責めるような顔ではありません、ただ切なく瞳が揺らいでいます。彼女は一度口を開こうとしては、すぐに閉じました。ただの友達として最適の言葉を探しているかもしれません。しかし、ひどく混乱していて、掛けるべき言葉が出てこない模様です。

 私は彼女を傷つけたと実感しました。

 人を傷つけると、心が痛くなります。同時に、そんな風に幼く縮こまられては、まるであの頃の私を再演しているようで、不快感を覚えます。仕方のないことです。自分から裏切り者になるのは、往々にして辛いことなのです。

 静寂が続く中、彼女は意を決したように唾を飲み込みました。そして、わざとらしい無表情で問い掛けてきます。

「彼氏か、そうじゃないのか。どっちなの?」

 口に出してしまったものはしようがないから、真実だけは導き出そう、といった具合でしょうか。

 私は心掛けていた作り笑いを顔から剥がしました。追い打ちを掛けるなら今です。今こそ、彼女にその恋がいかに無力なのか知らしめるべきなんです。

「もし、彼氏だとしたら、あなたはどうするの?」

 あなたはどうしようもないでしょう?

 早く、私への興味をなくすべきです。私を嫌いになってくれれば、私は期待せずに済みます。永遠に変わらない愛など、決して期待してはいけません。早く、ここで諦めてください。そうしたら、私も諦められます。

 いいえ、違います。誤解を招く言い方をしました。私は何も諦めるべきものがありません。私は決して、「彼氏がいても好きだ」という返答を望んでいません。

 そうですよね、早くトドメを刺さなければ。

「あなたが恋人だったらよかったのにね」

 あなたが恋人だったらよかったのにね。でも、あなたには今の状況を変えようとするほどの気持ちがある?

 作り笑いだけは大の得意です。私はにっこりと微笑んで、彼女の肩に一瞬手を置きました。彼女が身を引っ込めようとしたとき、私は既に教室を出ていきました。そこまで反応が鈍かったのは、きっと考え事をしていたからでしょう。

 味気ない廊下を素早く通り、校舎の外に出ます。

 私が歩もうとしている道は正しいはずです。私は決して、決して不変の愛を望んでなんかいません。私は誰の愛をも信じません。信じてはいけません。

 ダメ、気持ちが動揺している。

 どうやら私にはけじめが必要みたいです。何かしらの行動で、芯にある脆い私を説得しなければなりません。

 いいことを思いつきました。明日は学校を休みましょう。それで、彼女が会いに来てくれるか試してみましょう。もし来てくれなかったら、私はきっとそんな馬鹿な願いを捨ててしまえるはずです。

 永遠に続く愛がほしい、なんて惨めな願いを。

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