彼女と私

1 ロマンチスト

 裏切り者は誰でしょうか。

 お母さんでしょうか。それともお父さんでしょうか。モカちゃんでしょうか。

 ええ、モカちゃんったらひどい。この間最上階に行ったら、そのクリーム色のしっぽをぶんぶん振って私を迎えてくれたのに、お義母さんが呼ぶとすぐに私を置いていってしまうのだもの。

 でも、モカちゃんからすれば私こそが裏切り者です。もう構ってくれなくなった、もう一緒に遊んでくれなくなった。昔はいつも遊んでくれたのに、もう会いにも来てくれなくなった。もしかすると、チョコくんをどこかに連れていったのは私だと、疑っているかもしれません。

 お義母さんから見ても、私は裏切り者です。今度こそお父さんを幸せにしたい、あの忌々しい先妻のことをキレイサッパリ忘れさせてあげたい。だから、私にお願いをしたのに。お金はたくさん送るから、お願い、本当のお母さんの方に行ってね。

 仕方がありません、ごめんなさい。私から見たら、お母さんが裏切り者なのですから。裁判所で無駄に愛を振りかざすのが最高に醜いです。それでよくあの子もついていったのです。お姉ちゃんは最低だ、お母さんを見捨てるお姉ちゃんは裏切り者だ。

 彼はKと言います。私の実の弟だった人間ですが、もう昔のように私に笑顔を見せなくなりました。これもまた仕方がないのです。彼は生粋のママっ子であり、私は彼の大好きな母親が大嫌いなのですから。

 そのぶんお義母さんに勝手な期待を掛けてしまったのですが、向こうにとってはいい迷惑みたいです。私に冷たく当たりますので、私はすぐに彼女のことが嫌いになりました。しかし、彼女の立場で考えてみれば、裏切り者の私に冷たく当たらない方がおかしいのです。純粋な気持ちで私の期待を裏切った彼女は、私と同じように自分を悪く思っていないのでしょう。

 そう考えていくうちに、裏切り者探しは無駄な行為だと分かってきます。皆裏切り者です。

 これは自然現象です。裏切り者とは、前の状態から変化した人を指す言葉です。生きている限り人間は変化していきます。だから、皆裏切り者です。

 あの夕暮れ時、左手はお母さん、右手はお父さんが繋いでいてくれました。お腹の中には弟がいます。海の中に夕日が音を立てずに沈んでいきました。砂浜が焼けたパンの温かい色に染まっていました。

 あの瞬間、私たちは愛し合ったと思います。素直な気持ちで寄り添っていたのだと思います。永遠がないせいで、それぞれの心が変化していっただけの話です。

 お父さん、聞こえますか? 私は三階にいます。ここであの瞬間に戻ることを待ち望んでいます。私のモカちゃんとチョコくんを返して下さい。私への誕生日プレゼントではなかったのですか?

 憎い、裏切り者が憎い。私を隔離した皆が憎い。私から全てを奪い去った皆が憎い。

 二度と惨めにならないためには、愛しすぎないことが大切です。人を愛する気持ちが生じるのは仕方ない話ですが、愛が深いほど返ってくる仕打ちも大きいです。幸せになればなるほど、より大きな不幸せが訪れます。だから、幸せになりすぎる前に手放す必要があります。

 家族だった人たちはもう取り返しがつかないけれど、それ以外の人間に対しては常にこれを心掛けました。

 同級生たちが平等な量の愛を受け取れるように、一人ひとりに気を配りました。友達が多い人気者とも、寂しそうにしている子とも仲よくします。寂しそうな子には、例えば、体育の授業にペアになってあげたり、他の友達を探す手伝いをしてあげたりしました。そのうち私を離れられるくらいに繋がりを持つようになりますので、私はそこで身を引きます。

 これは私のためにやっていることです。全員に愛を分配することで、誰かを特別に感じることがなくなります。自分をコントロールするためには、身を置く環境をコントロールしなければなりません。

 幸い、私はこの才能に恵まれていました。他人のしてほしいことが手に取るように分かります。結局、人間は本質的に愛を求める傾向がありますので、これを基準に行動と照らし合わせれば、人の求めていることを判断するのは容易です。

 そうするうちに、私は学年の人気者になっていました。正直言って人間に興味はありませんが、なってしまったものはしようがありません。誰かに深く関与することを避けながら、高校までうまくやってきました。


 高校一年生になる始業式の日、人と馴れ合うことなく一人で弁当を食べる少女がいました。同じクラスになるのは初めてですが、噂でその名前を耳にしたことは何度もあります。

 何でも、クールな性格で人を寄せつけないとか。または、笑った顔を見たことがないとか。密かに彼女に憧れている後輩もいました。

 私がクラスの中央で適当な相づちを打ちながら昼ご飯を食べている間、彼女はさっさと食事を終わらせ、カバンの中から雑誌を取り出して読み始めました。広い海が表紙の雑誌。風景の写真集なのでしょうか。

「あの子、かっこいいよね。いつも一人だけどしっかりしているっていうか」

 試しに彼女の話題を振ってみました。もしこれから関わるのなら、事前に情報を集めておく必要があります。

「いつも勉強しているか雑誌を読んでいるかだよね。私は入学したばかりのときお昼に誘ってみたけど、断られちゃった」

 同級生の一人は苦笑いしました。

「あの子、やりそー。一人が好きなんじゃないかな。それができるってすごいよね、憧れる」

 もう一人は顔を輝かせました。他の子たちもうんうんと頷いています。

 どうやら、その冷めた態度が逆に好感を持たれているようです。話したことはありませんが、悪い人ではないでしょう。

「明日お昼に誘ってみようかな」

 私が呟くと、周囲が口を揃えて「無理でしょ」と笑い出しました。確かに、仕方なく一人になっている訳ではない、好んで一人でいるような子は初めてです。

 それでも私はポリシーに従います。彼女が私を友達だと思ってくれるまで、彼女に関わろうと思いました。人間は根っこの部分で、誰かが愛を注いでくれることを望んでいるのです。今まで例外に遭遇したことはありません。

 皆に平等、これで全てがうまくいきます。


「一緒にご飯を食べてもいいかな?」

 次の日、いつも無表情なあの子に話し掛けてみました。こういうときはいい笑顔を見せます。笑顔とは、私はあなたを害するものではありません、と伝えるための動作です。

 彼女は驚いた顔で私を見上げました。いえ、顕著に驚いている訳ではありませんが、感じ取ることはできます。おそらく、今は保身のために罰ゲームの可能性でも考えているのでしょう。突然の出来事に対して、動物はまず自分の身を守ることを考えるのですから。

 しばらくすると、彼女は落ち着きを取り戻した風に返事をしました。

「一人で食べるのが好きだから、ごめんね」

 声は小さくも大きくもない、けれどハキハキとした声質です。抑揚は、あまりつけない方でしょうか。表情は先程からあまり変化がありません。冷たい人間だと思われがちでしょうね。

 拒絶されることは予想通りです。とりあえず、次の手を打ってみます。

「そっか……あまり話したことがなくって、気になっていたの。いつも読んでいる雑誌もすごく綺麗で、読んでみたいなって」

「読みたいの?」

 見事に引っ掛かってくれました。この言い方だと失礼ですね、見事に作戦が成功しました、と言えばいいでしょうか。

 彼女の質問に対して、私は頷きました。すると、彼女はカバンの中から海が表紙の雑誌を取り出して、不機嫌そうに私に渡してきました。

「なら貸すけど」

 貸すけど、もう構ってこないで。そんな続きが聞こえてくるくらい不機嫌そうな顔です。しかめっ面。笑えばきっとかわいいのに、もったいないです。切れ長の目が、敵意むき出しで睨みつけてきます。

 私は有り難く雑誌を受け取りました。彼女の前の席に腰掛けます。まだ、彼女の席で食べるには早すぎるでしょう。急ぎすぎてしまうと、そのまま逃げられてしまいますからね。

 さっさと今朝作った弁当を飲み込んで、彼女が愛読している雑誌を広げました。豪邸を紹介する住居雑誌みたいです。海辺の別荘の特集で、ページをめくるごとに風情溢れる住居が次々と目に入ってきます。説明文がほとんどなく、それぞれの写真が凝っていて、独特な趣があります。波打ち際にまで長く伸びたテラスと、空間を取り囲む柵。果てしない海の側、一人のためだけに作られた鮮やかな照明のプール。皆がファッション誌を読んでいるところ、彼女が選んだのはこれです。

 とんだロマンチストだな、と久しぶりに驚きました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る