19 私のもの

 橙色のショーケースに、宝石を嵌めたネックレスが丁寧に配置されていた。雨で汚れた外とは対照的に、店内は清潔感に溢れている。瞬時、豪華絢爛な空間にめまいがした。ざっと眺めるだけでも、質量が伝わるほど大きなダイヤモンドがいくつも目に入る。大学帰りのカジュアルな格好で来た私はひどく場違いだった。

 焦って、財布の中身をもう一度確認する。お札をできるだけ多く持ってきたものの、学生の限界は突破できない。金銭的な制約の中でとびっきりのものを見つけなければ。

「何かお手伝いできることはありますか?」

 初めて贈り物としてネックレスを買うので迷っていると、店員が親切な笑顔で私に声を掛けてくれた。慌てて用意したセリフを口にする。

「男友達に女性が好みそうなネックレスを買うように頼まれて、それでいいものを探しているんです」

 我ながら練りに練った回答だ。これで恋人向けのものを堂々と買える。

「彼女さんへのプレゼントですか?」

「はい、できれば恋愛関係でいい感じの意味のがあれば」

「でしたら、ムーンストーンやガーネットなどが人気ですね。ご予算にもよりますが、ダイヤモンドも純愛や純潔といった意味があって、おすすめですよ」

 店員に続いてショーケースの端の方に歩くと、途中でひときわ綺麗に磨かれた水色の石に目を奪われた。私は立ち止まってそれを凝視した。紹介プレートには、アクアマリン。

「こちらもとても綺麗ですよね」

 店員はすかさず私に売り込んだ。

「アクアマリンは、海、幸福、愛情などの石言葉を持っており、恋愛面でも幸せな結婚という意味がありますよ」

 爽やかな笑顔。これこそがビジネススマイルの極致だろう。

 それにしても、幸せな結婚、か。私たちには無理なのに、皮肉なことに、とても眩しく見える。そんな幸せな未来を夢見てしまう。海辺の別荘、そして彼女との幸せ、末永く幸せであることが叶うような未来を。

 ――海は好き?

 ふと、彼女がよくこの質問を私に投げ掛けたことを思い出した。そりゃ、好きに決まっている。海の側でずっとずっと彼女に寄り添っていたい。私は彼女を幸せにして、永遠に一緒にいたい。そのためには何だってする。彼女は何よりも大切なんだ。

 だから、私は海色の宝石に強く惹かれたのだと思う。

「これを下さい」

 値札を見ないまま、私は店員に初めてからっと笑った。


 傘を差して、帰路についた。雨はどんどん強くなっていくが、私は浮かれ気分で紙袋を握りながら駅に向かった。途中で通り掛かったコーヒーショップに立ち寄って、ホットのホワイトモカを買う。少しずつ啜り、べったりと甘い味で冷めた身体を温めた。

 甘すぎるけれど、これくらいがちょうどいい。これからの未来もこんなに甘いのがいい。私は彼女のためなら何でも捨てられる。何よりも綺麗な彼女を手に入れて幸せにすることが、私本人の願いなのだから。

 灰色の建築物が並び立つ街に、不機嫌そうな顔で歩行者はそれぞれの道を伝って潜り込む。大音量の広告が流され、その音の隙間が自動車の走ったり止まったりする摩擦音で埋められる。傘で防ぎ切れないほどに雨の勢いが強まってきた。靄が掛かった前方に、工事が未完のままになっている駅が現れた。

 やっと地下鉄に乗れたときは、放心状態になって端っこに座った。そして、彼女が家にいるか確認するためにバッグから携帯を取り出す。すると、SNSに何件かのメッセージが来ていたので、クリックする。彼女が入っているテニスサークルの女先輩からだ。珍しいと思いながら、吹き出しの内容に目を通した。


『ここだけの話、今日はまさか彼氏とキスまで行ったんだって! わたしの分もあの子におめでとうって言ってあげてね』


 頭の中が真っ白になった。

 思考が追いつかないまま返信をした。私の返信に対して、また一つの吹き出しが増える。


『そうそう、あいつ以外彼氏って誰だよ。サークル入ってからすぐにつき合うってやるよね! 今までどんだけ男捕まえてきたのって思ったー』


 電源を切らないまま携帯をバッグの中に放り投げた。

 触られたのか。裏切られたのか。

 いや、あれは私のものだ。

 あの夜の光景が鮮明に思い出される。冷たい空気に手足が震える感覚、灰色の歩道橋に立っていた、そうやって彼女が知らない男に唇を当てるんだと知って、私を始めから騙していたことをやっと知った。

 乱暴にあの夜の光景が目の前で再生される。気持ち悪い。男といる彼女を見ている私自身が気持ち悪い。切り捨てられるのが怖い。必要とされないのが怖い。私には彼女しかいないのに。頭が痛い。そして息が苦しい。うまく吸えない。

 彼女は優しく男の顎を持って頬にキスをしていた。

 あくまでも正常な男性の顔で、どこにでもあるような男性の顔だ。

 一度私の方に振り向いたが私に気づかずに遠ざかっていった。

 何としてもそれを手に入れなければいけない。

 じゃなきゃ私は何のために生きている?

 そうよね、私は彼女を自分のものにしたいよね。そのために生きているんだよね。彼女のためなら家族も名声もプライドも皆捨てられるはずだよね。

 怖い、あの光景が脳に取り憑いて離れない。

 それ以上に息が苦しい。肺が揺れ動いている。もうこれ以上吐き出すものがないのに咳が止まらない。

 気づけば私は外の世界に晒されていた。雨が冷たい。あの夜も冷たかった。全身が冷たい。息が切れそう。でも足が止まらない。ここで倒れ込んで泣き出したい。でもそれよりも急がなければ。

 咳から血の味がした。でも赤いものがちっとも見当たらないから、きっと大丈夫だ。

 滑って、地面に膝をつく。水たまりに足が埋もれて、雨水が服と紙袋をくすんだ色に染めた。

 そう、だ。彼女は不変の愛がほしいと言う。だからきっと、私は試されているだけだ。私は、それでも彼女を愛せると言わなきゃ。私なら、きっと彼女の期待に応えられるよね。騙されてきた私なら、きっと彼女をそれでも受け入れられるよね。

 しかし、私であるだけで愛してくれる、その言葉が始めから嘘だったならば?

 ゾッとして、立ち上がった。スニーカーが氷漬けになったかのように冷たい。身につけているもの全てが肌に密着している。

 目の前でビルが揺らいだ。灰色の雲が重なるビルだ。昔にも見たような気がする。あのときの気持ちはきっともう思い出せない。私は何で彼女が好きなんだろう。それも思い出せないけれど、愛しているんだ。そうじゃなきゃおかしい。私が私じゃなくなる。

 扉が私の道を遮った。水だらけのバッグを模索しても鍵が出てこない。息が苦しい。喉が冷気を肺から追い出すことに懸命になって、咳が止まらない。やっと、異様に固い金属に触れた。取り出す。指も爪も紫になっている。鍵穴に入れて回して、顔に当たるくらい粗暴に開けた。

 彼女は素知らぬ顔で玄関に座っていた。首に、廉価そうな金色のネックレスを掛けている。

「おかえり」

 その笑顔を見た瞬間、私は彼女の腕を掴み、身体を引き寄せて、そして――。


 私は忘れた。もう思い出せない。

 ただ白い。白くて、私が私じゃなくなるような快感が一気に脳に昇って、全身に電気ショックが与えられたかのように身が震え出して、私は膝から崩れて、麻薬を使わなくても頭がこんなに回らなくなることを知った。

 思えば私は自分のことが嫌いだったんだ。私は何でもできて誰からも愛される彼女がいつも羨ましかったんだ。羨ましかったぶん綺麗だと崇拝した。私が汚いから綺麗な彼女が何倍も綺麗に見えた。だから私が私じゃなくなれば、そのぶん楽になったのかもしれない。

 壊れた檻。蝶の破片。散らかる空。綺麗なものが壊される瞬間ってすごく気持ちいい。優れているものが壊される瞬間ってすごく気持ちいい。

 私にとって何よりも大切なものを自分から壊す瞬間、背負うべきものがなくなってすごく気持ちいい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る