18 テニスサークル

 T大に入学して間もなく、周りの人々に圧倒された。男性が多い。変人が多い。何よりも、天才が多い。

 各所を見て回ったり講義に出たりした結果、お世辞にも意欲があるとは言えない授業態度だが、誰もが才能だけは一流だということに気づく。

 彼女のような天才たちがゴロゴロいて、私のような凡才の方が異常な環境。大学に通い始めて早速、またもや焦りが胸の大部分を占拠してしまった。

「サークルはどうする? 私は今日テニスを見てくるの」

 そんな私の横で、彼女はいかに大学生活を楽しむかで頭を悩ませている。

「テニスって、チャラそうな感じがするけど」

「行ってみないと分からないのよ? 部活だと、本気すぎてついていけなさそうだし」

 不安が心を過ったが、彼女のキャンパスライフに口出しをする権利はない。それに、テニスウェアを着て楽しく遊ぶ彼女の姿を眺めてみたい、という下心も私にはあった。

 分かった、と彼女に答えた。

「だったら、帰りは何時くらいになる?」

「迎えに来てくれるの?」

「うん。だから時間が知りたい」

 私が頷くと、彼女は頬に人差し指を当てて考え込む。そこまで時間を掛けて考えるような質問なのか。立ち止まって彼女を待つ。しばらくすると、彼女はやっと口を開いた。

「六時くらい。そしたら、場所を連絡するから」

 彼女は髪を耳に掛けながら、ありがとう、と言って、てへへとかわいらしい笑みを浮かべる。そんな彼女を見ているだけで、大学でやっていくための元気を分け与えられる。

 サークルか。高校時代は資格目的で英会話部に入っていたから、特に何かに興味を持つことはなかった。だから、運動部の主将を務めていた彼女と違って、人間と関わって場のノリに合わせるサークルは疲れる印象しかない。

 私は彼女さえいれば十分だ。それより早くバイトを探した方がいいだろう。


 下級生が集まっているこのキャンパスの図書館は、かつて彼女と一緒に行ったキャンパスのものよりも近代的な造形をしている。一学生として中に入る。彼女を待つ間、法学の基礎知識を予習しようと目論んだのだ。

 早速法学の本がずしりと並んだ棚を見つける。私が高校時代に研究をしていた憲法学だけでなく、民法や刑法はもちろん、行政法などの書籍も入っている。もしここの本を全冊読破したら、法の専門家に一歩近づけるのかな。なんて、心が小躍りしてしまった。

 天才たちが馴れ合っている間がチャンスだ。私みたいな凡才は、努力でしか天才を追い越せない。ううん、努力したところで追い越せないとしても、せめてその背中には追いつきたい。

 そう、嘘でも世の中に私の優秀さを知らしめなければいけないんだ。生々しい話だが、高い学歴が高い年収に結びつく。しかも、日本では既に弁護士が飽和状態にあり、平均賃金が意外と低い。だから、できれば海外への進学を目指したい。日本からの留学生は他のアジア系よりも少ないから受かりやすいというし、掴める機会は逃したくない。

 そうして、私は強くなって、彼女に海辺の別荘を買ってあげるんだ。

「ここから着手しよう、と」

 手帳のやることリストに新たな項目を書き入れ、優先順位の番号を振り分ける。それから、棚の中から簡単そうな書籍を適当に一冊取り出した。


 六時になっても連絡は来なかった。彼女に電話を掛けても繋がらないし、メッセージを送っても既読がつかない。しばらく図書館で彼女からの連絡を待っていたが、時間だけが流れていくので、椅子を引いて立ち上がった。

 テニスコートを見に行ったが、荒涼としていたそこに人はいなかった。ならば、他の活動場所に当たるしかない。携帯でサークル名を入力すると、すぐに場所の情報を見つけた。入ったことがない校舎の部屋だった。急いで足を動かす。

 到着したとき、部屋から笑い声が時々外に伝わっていた。昔の自分ならば、何秒か勇気を出すための準備時間がなければ入れなかっただろう。が、今の私は思い切りドアを押しのけた。彼女を含めた部屋のメンバーが同時に振り向いて私を見る。

 大学の傾向と同じく、男性が圧倒的に多く、女性は彼女以外に数人しかいない。見た感じ、仲良く談笑していたところのようだ。

「あ、もうこんな時間」

 彼女は動揺もせず私から顔を背けて、サークルのメンバーだと思われる人たちに言う。

「ごめんなさい。同居人を待たせていて、もう帰らないといけないんです。また来ますね」

 ドアの側で黙っている私に歩いてくる。そして、彼女は律儀にお辞儀をして、ありがとうございました、と微笑んだ。やっと部屋を出てくれた彼女の手を、思わず強く握り締めて正門に引っ張っていく。

 何も口を挟まない、いや、口を開くことすらない私の態度に思うことがあるのか、

「怒っているの?」

 と私に引きずられながら質問する彼女。

 私は無言で応じた。そのか細い腕がちぎれそうになるほど力強く引っ張るだけだ。

 私よりも私の変化に敏感な彼女は、連絡をくれなかったことに怒っていると気づかない訳がない。実際に彼女の方に非があるからか、彼女は変に言い訳をしなかった。その代わり、ただ私に従って帰路についた。


 四月の終わり頃、乗り遅れた菜種梅雨がどんよりとした午後の校舎を洗い流していた。水が地面を侵食して黒茶色に染め上げ、何匹かの蟻が列をなして靴の側を通り過ぎていく。不快な土の味を帯びた空気が密に粘着しているようで、胸を圧迫する。

 私は講義を終え、傘を差しながら校舎を背後にした。彼女は今日午後の授業がないので、先に帰っているはずだ。

 テニスコートの横を通って、校門に向かう。

 その後も彼女はテニスサークルに通い続けた。中学時代に部活を優勝に導いた上、愛想がよく容姿も綺麗で、何一つ欠けていない風に見える彼女はもちろん誰にも受け入れてもらえた。

 度々サークル帰りの彼女と待ち合わせをするが、彼女はいつも先輩たちに囲まれていた。特に男性にちやほやされる姿を見て、毎回密かに腹を立ててしまう。何人かの女先輩は私の顔を覚えて、SNSの連絡先を交換しただけでなく、校舎で私を見掛けた際に話し掛けてくるようになった。世間話でテニスサークルの情報が入手できるので、まあまあ有り難い。チャラそうだと言って敬遠していたが、先輩たちの対応が案外優しい上、真面目に活動していると分かって、悪印象を抱いたことが少々申し訳なくなる。

 今日の目的地は、かつて通っていた塾が鎮座する繁華街。というのも、彼女を通して知り合った女先輩が、

「あの子、ネックレスほしいと言っていたよ」

 と言ったときから、ずっとサプライズで彼女にネックレスをプレゼントしようと考えていたのだ。

 彼女が喜んでくれたらいいな、と胸が騒ぐ。少しずつでもいいから、彼女の寂しさを溶かしていきたい。そして、まるごと私のものにしたい。

 傘をしまって、駅に入る。汚れた土色の靴跡に埋め尽くされた床を、雨に濡れた私のスニーカーが踏み締めた。

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