15 薬物を売ってくれ

「最近よくホワイトモカ飲むね」

 彼女の柔らかくて甘ったるい声音が耳の側で響いた。

 広く明るいリビングで、彼女をぎゅっと腕の中に固定しながら片手にドリンクを握る。彼女もほしいと言うので、飲ませてあげる。間接キスだ、と胸の中で小躍りしてしまった。ホワイトチョコレートの甘い味と彼女の甘い香り。心は落ち着いているかもしれないし、蕩けているかもしれない。

 私は彼女を離さないまま、最後の一滴を飲み干した。

「何で飲むんだろう……お酒みたいな感じ?」

「ええっ、また何で?」

「甘すぎると痺れるからね。舌が」

 あれからほとんど毎日、放課後になると彼女の家に来るようになった。

 彼女は嫌な顔をせず快く迎え入れてくれて、私も何かしら彼女に貢献するために、夕食を手伝ったり家中を掃除したりした。二人で受験勉強をしたあと、休憩して夕食をとる。その後に私が塾に出発し、塾帰りにやっとあの家に戻る。毎日塾があるのをいいことに、自習室で勉強すると嘘をついて彼女の家に来ているのだ。これが今のところ続いている生活サイクル。

 ホワイトモカの容器をキッチンで洗ってから捨て、リビングに戻る。ソファに腰掛ける彼女は遠目に見ても綺麗だ。艷やかな黒髪が白いワンピースにこぼれて、遠くにいても驚嘆するほどの瑞々しい白雪の肌が目を引きつけてやまない。上品な佇まい、清純な雰囲気に反して、いや、だからこそ、無垢な彼女に手を加えるよう人を誘惑する。

 ぐっと唾を飲み込んで、となりに座る。冷えた柔らかな体を再び抱き寄せた。

「触ってもいい?」

 いつもの合図を受け取って、彼女はこくりと頷いた。その体に確かな温度を流し込むように、私は彼女の首に口づけて、軽く歯を立てた。


 夏休みという解放感溢れるはずのイベントも、受験生にとってみればただの苦痛でしかない。案の定夏休みは塾漬けになり、毎日夏期講習に参加し、夜の十時くらいまでひたすら受験勉強に駆られた。

 しかし、私はこの生活が嫌いではなかった。まず、長時間の勉強によって文系科目の成績が跳ね上がった。特に覚えるのが面倒な世界史は、掛けた時間に比例するように偏差値がぐっとよくなった。その上、数学が得意な彼女と一緒に勉強していたことが功を奏して、数学も少しずつ挽回していった。彼女にはまだ遠く及ばないが、数学的なセンスが身についてきたと実感する。

 何よりも、あの息苦しい家にいなくて済むことが助かった。きちんと和解しようと、何度か親に話し掛けてみたけれど。

 全部、不安がられて、怒鳴られて、泣かれて、終わり。

 あちらからすれば、きちんと成績を維持できなかった私に非があるのだろう。確かに、私が悪かったかもしれない。親が私の受験を心配するのも、それだけ私に期待しているということだ。頭では分かっている。頭では。

 それでも、足りない自分に向き合えと押しつけられるのが怖かった。お前は足りないんだと言われるのが怖かった。

 私は人に好かれるような人間ではないし、実際に人に好かれたこともほとんどない。だから、褒めてもらうことでしか「自分は愛されている、大切な存在である」という感覚を得られない。そんな自分がもし足りないならば、もう誰からも必要とされないのではないか。

 完璧な人間なんてバカバカしいと思う。私は私の意思で生きていくべきだと考えている。でも私は捨て切れない。まるで、人間がダイビングをしたところで、海には帰れないように。

 この思考で苦しむたびに、私は「彼女のために生きている」と自分の意味を定める。彼女は私の北極星だ、と言って。彼女以外の全てを切り捨てることで、私は他人からの評価を気にせずに済む。なぜなら世界には彼女しかいないから。

 せめて、理論ではこんな風に自分を説得したかった。

 何で、理にかなっているはずなのに、私はまだ苦しいんだろう。

 頭をぶんぶん振った。

 やめだ。さっさと勉強しよう。こんなことですり減っているようでは、T大には受からない。私は私だ、彼女のために生きる私。T大に入って優秀になってお金持ちになって彼女にかっこいいとこを見せたい、そんな楽しい理由でいいじゃないか。

 そうだ、塾が終わったらまたホワイトモカを買おう。私は甘すぎるのが好きなんだ。


「何だか、疲れているみたいだね」

 塾帰りに彼女の家に上がって、一身の疲労をぶつけるように玄関の彼女に抱きついた。彼女はどっしりとした私の身体を受け止めて、私の背中を撫でながら苦笑する。せっかくの癒しだ、発言する間も惜しんでただ彼女をぎゅっと抱き締めた。

「家族には来るって言った?」

 首を横に振る。

「そんなんじゃ、彼氏でもできたのかって怪しまれちゃうよ。ほら、塾って他校の生徒もいるからね」

「あとで連絡入れる」

「そういう問題じゃないのー。でも連絡は入れてね」

 てへへとえくぼのあるかわいい笑顔を私に見せて、私の腕からするりと抜ける。

 彼女の部屋から自分のTシャツを取り、先にシャワーを浴びに行った。彼女にはああ言ったけれど、親に連絡を入れる気力すらない。もうどうにもなれ。できれば彼女に甘えて、寝て、明日には今日の私が家に帰らなかったことを親にキレイさっぱり忘れてもらいたい。

 無機質な蛇口からこぼれ落ちる水玉たちに打たれてから、さっさとシャワールームを出る。

 彼女はいつものようにソファで九十年代のポップスに耳を傾けていた。そのとなりに腰掛けて、強引に彼女を背後から膝の上に抱き上げた。彼女はぴくりとしたが、素直に私の上に乗せられる。

 何か思うことがあるのか、しばらく顔を仰向けにして私を見上げる。突如、彼女は私に問い掛けた。

「太宰治の『人間失格』って読んだことある?」

「一応」

「だったら伝わるかな。めっちゃ失礼なこと言っていい?」

「どうぞ」

「あなた最近、あれの主人公に似ているよ」

 上の空だった意識が掴まれて、瞬時に引き戻されたような気がした。確かにかなり失礼なことを言われたが、彼女があえて口にするのはきっと何かしらの理由がある。

「何が言いたいの?」

「本当に失礼だけどあえて言うよ。うちに泊まりに来るのは、薬物を売ってくれってせがむのと同じでしょう?」

 彼女は私の膝から立ち上がって、くるりと私の方に回転した。髪が揺れる。見上げても綺麗だ。

 ぼうと見惚れてしまった私とは対照的に、彼女はこの上ない真剣な顔つきだった。眉をひそめて、鋭い視線を突き刺してくる。

「家族と何かあったみたいだけど、自分をへし折ってでも謝るべきだよ。この際どっちが正しいかは置いといて」

 言い終わると、真顔こそ変わらないが、揺らぎ始めた彼女の瞳が微かに伏せられる。

 やはり彼女は察していたようだ。そりゃそうだろう、できるだけ家を離れて彼女の家に来ているのだから、知られても仕方がない。

 しかし、ここは触れてほしくないところだった。

「らしくもない忠告をしちゃったね。何であなたにこんなこと言うのか分からないけれど……」

「私だってできることならどうにかしたいよ」

 彼女の言葉を遮って冷めた声音を出してしまった。我に返る。唖然とした彼女の表情から、耐え難い沈黙が訪れる予感がした。

 どうしよう、自分の不機嫌を彼女に吐き出してしまった。素の自分を完全にさらけ出してしまった。

 彼女にだけは嫌われたくなくて、思わず表に出た苦渋の色を慌てて作り笑いで隠す。

「ごめん、違うんだ。そこまで険悪な訳じゃなくて、ただ受験が近づいているから私も家族も焦っているだけなんだよ。だからここに来るのはただの私のわがままで、それにほら? 君に会いたいし」

 さらりと口にしてから、ごまかすつもりで彼女の腕を引っ張って、再びその華奢な身体を胸に埋める。彼女は私の手を解く素振りを見せたが、抗う気がないと分かるほどの弱い力だった。当然私が勝り、ぽふっと彼女が腕の中に収まる。使い果てたエネルギーを補給したくて、その肩に顔を乗っける。

「そう、なんだ。うん、そうね。そう。あなたは、あまり無理しちゃダメだよ」

 彼女は何度か虚ろな同意を繰り返したあと、子どもをあやすように、私の耳元で囁いた。髪から広がる花蜜の甘い香り。安心する。この体勢のまま目をつぶった。

 冷たくて柔らかい手が頬に当てられ、ゆっくりと動いていく。まるで、雪が肌を流れ落ちるように。優しい撫で方だった。そんな風にされると、全てを忘れて今に生きようと変にポジティブになれるものだ。

「触ってもいい?」

 荒波の中でただ一つの浮木に縋りつく遭難者のように、私も何かから目を背けるために彼女に没頭していく。彼女の言わんとしたことは、太宰治を精読したことのない私でも大体予想はつくよ。

 こんな才能は現代文でもっと活かせればよいものを、と心の中で自嘲する。

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