14 ごめんなさい

 朝日がカーテンの隙間から差し込み、黄色い光がダブルベッドの上で揺らいでいる。

 目を擦りながらとなりを見てみると、ワンピース姿の彼女がすやすやと寝息を立てていた。枕に纏わりつく滑らかな黒髪と、無防備な寝顔。開いた襟から肩をちらりと覗かせて、無垢でありながらも色っぽい雰囲気を漂わせていた。

 片手でナイトテーブルに放置された携帯を拾い、電源を入れる。今日は土曜日みたいだ。画面の下方に目を移すと、通知が怒涛のように押し寄せる。何十件ものメッセージが来ており、送信元は全て母だった。

「これはまずいな……」

 メッセージに向き合う勇気もなければ、謝罪の言葉も見つからない。客観的に言えば、家を飛び出して恋人の住んでいる場所に泊まる自分が悪いのだろう。しかも、当日中に清白な関係を断って、いわゆる離れ難き仲の範疇に足を踏み込んでしまった。高校一年生の頃からつき合っているため時間としては順当だが、きちんと彼女のことを背負って世間に向き合えるようにならなければ。

 きゅっと顎を引き、背筋を伸ばしてみる。彼女に海辺の別荘を買ってあげられるくらいに強くなりたい。そのためにはT大に合格しないといけない。

 彼女の方が私よりも確実に合格しそうだが。

 いや、今は彼女に劣っていることに落胆していられやしない。母にはできる限り誠実に謝罪しよう。そして帰ったらまた問題集に取り組もう。T大にさえ入れば私の価値を証明できる。そして世の中は価値ある人間にだけ自由を与えるんだ。

 思索に耽っていると、ふと、腕を軽く引っ張られる。

「おはよぉ」

 眠そうに小さなあくびをしてから、彼女は潤んだ瞳を擦る。これから困難に直面する私の憂鬱な気分が一気に吹き飛んだ。彼女のどんな仕草もかわいくて綺麗で、本人が意図していなくても扇情的で、見ているだけで熱に浮かされた気分になる。

「おはよう。あの、体とか平気? ココア入れてこようか?」

 こういうときは女の子の体に配慮するのが定石だという。それに無理させてしまったのかも気になる。しかし、私の質問に対して彼女はおかしそうに笑った。

「平気に決っているじゃない」

 この言葉を聞いてやっと、平気ではなくなるようなことはできないと気づく。

 それでも昨夜のこと抜きで彼女に何かしたいし、泊めてもらっている身なので、私が朝食を作ることにした。

 ベッドから下りて、キッチンに入る。作るのは初心者の頃に練習していた蓮根とキノコのマリネ。酢を多めに入れているからか、彼女がいつも作っているのよりも酸っぱめだ。食欲をそそる匂いを嗅ぐと、お腹が空いているのを実感する。

 あとは冷蔵庫にある材料で簡単なスープを作って、ご飯に添えよう。

 キッチンで鍋にお湯を沸かしていると、彼女が起き上がって私の様子を見に来たようだ。

「スープ作っているの?」

 そう言って、彼女はおたまを握る私の手に繊細な手を重ねて、側に立っていてくれた。

 ひんやりしていて、気持ちいいな。まるで、軽く舌に触れたミントみたいだ。

 二人でスープをかき混ぜている間、彼女の腕と自分の腕が時々当たっては離れる。そうするたび、冷えた肌の感触にドキリとしてしまう。永遠に彼女との時間が続いたらいいのに、とぼんやり考えていたら、旨味を感じさせる香りと共にスープが完成して、彼女と盛りつけをしてから食卓に運んだ。

 手を合わせて、いただきます。

 食卓に置かれているのはシンプルな献立。それでも、この瞬間はきっと人生で一番幸せな瞬間なんだろう、と思った。

「ねぇ、またうちに来てよ。たくさん」

 彼女は箸を取り、こちらを細めた目で見定めながら薄い笑みを浮かべた。その声はハチミツだ。そんな艶めいた声を前にすると、自分は抗えなくて何でも頷いてしまいそうになる。私は彼女と一緒にいるだけで、酔って、恍惚としてしまう。それが病みつきになりそうだけれど、不思議なことに拒もうとも思わない。

 同じく、いつもどこか寂しげな彼女の色に陽光が宿るとき、私は他の誰よりも満足してしまう。ずっとそんな笑顔をしていてほしい。彼女を傷つけるような人が許せないし、私はそんな人たちから彼女を守りたい。彼女はずっと私のもので、誰にも渡したくない。

 こんなに強く思うのはきっと、私がそれだけ彼女を愛しているということなんだろう。

 だから私はずっと彼女の側について、歩道橋の日が二度と訪れないようにしなくては。

「うん。また来させて。たくさん」

 箸でマリネを取ってぱくりと口に収めた彼女は、私の言葉を聞いて、純朴な笑顔を咲かせた。


 家の空気は天井に圧迫されていた。どんよりとしていて、湿度が高い。今までの軽やかな気分があくまで一時的なものだと思い知らされる。

「ただいま」

 非常に小さな声で挨拶してみた。もちろん返事はない。返事がないのはいつも通りだが、今の自分には母の機嫌が恐ろしくて、どうしても悪い方向に思考を持っていってしまう。

 リビングに入って、人の姿を見つけた。父と母だ。玄関では気配を感じなかったのに、二人して食卓で私を待ち構えていた。

「ごめんなさい」

 とりあえず謝っておく。確かに家を飛び出したのは私が悪かったし、両親に心配を掛けてしまったかもしれない。

 静寂が続いた。

 父は私から目を逸らし、パソコンを取り出してキーボードを打ち始める。一方母は硬直したまま私を見ていた。釘づけになって私を見る。その気持ちが窺い知れず、私は立ち尽くすほかなかった。

 突然、母が泣き始めた。

 目の周りがどんどん赤に染まっていき、ハンカチで拭っても拭い切れないほどに涙が溢れていく。その様子をぼうと見つめていたが、これではいけないと思い、慌てて言葉を掛ける。

「本当にごめんなさい、やけになって飛び出してしまって」

 そう口を開いた私を、母は力いっぱいに睨みつけた。その表情に必死さを感じる。

「飛び出してごめんなさいって? 模試であんな最悪の成績を取って、もっと問題集をやりなさいと言っただけで家を出て、しかも友達と仲よく遊ぶなんて。昨日だけで何ページもできたのに、その時間を無駄にして遊ぶとか反省していないんじゃないの」

 掠れた声音で長々と私を責めてから、「T大に行けなかったらどうしよう、お義母さんに顔向けできない」とこぼしながらまた泣き出した。父は席を立ち上がる。母の方まで歩いていき、俯く姿勢で曲がった背中を静かに撫でた。

 私はそれほど親不孝なことをしたのか?

 二人の深刻な雰囲気に唖然として、反省どころかそんな疑問までが頭に浮かび上がる。反省しなければいけないと言われても、自分には家が息苦しいだけだ。拳を握り締めて、親指の爪を人差し指に突き立てる。相変わらず痛覚でしか心理的な苦しみを乗り越えられない自分にも呆れてくる。

「勉強、してくる」

 親に目を合わせず床に向かって呟いてみたが、何の返事も来ないので、そのまま部屋へと身を翻した。

 参考書が昨日のまま机に散らかっている。薄暗い部屋のてっぺんで質素な電球がぼんやりと光を漂わせ、何の変哲もない白い壁に囲まれた空間は味気ない。

 私はまた、ここに戻ってきたんだな。

 ドアを閉めて、ロックを掛ける。その瞬間、すっと力が足から抜けて、涙がこぼれてしまった。

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