16 無条件の愛

 一年が去った。街中お祭り気分だが、あいにく受験生にはきちんとお正月を過ごす余裕がない。なぜなら、いよいよセンター試験が目前に迫ってきたからだ。

 それでも、近くの神社は学生たちで溢れ返っている。できる限りのことを終え、残りは神頼みをするしかないという人たちだ。現に、私と彼女も人混みの中で参拝したばかりだった。

「そういえば、何てお願いした?」

 機嫌よく九十年代のポップスを口ずさんでいた彼女は、思い出したように横に立つ私を見上げた。出会った頃に比べ、容姿の美しさは全く減衰していないが、顔立ちが若干大人びた印象を受ける。かわいらしい少女の面影が残りつつも、あでやかでどこか官能的だ。穢れを知らない白百合を自分だけの箱に保存したい、永遠に我が物として愛でていたい。そんな独占欲と恍惚感が交えた黒い感情を心に秘めながら、しかし、私はそっけない返事をした。

「そりゃ、T大に受かりますように、でしょう」

「それだけ?」

 彼女はにやりと不敵な笑みを口元に浮かべた。やはり彼女には敵わない。あたかも悪企みをしているような顔から目を逸らしつつ、小声で答える。

「毎朝君にみそ汁作ってもらえますように、とか」

「わあ、それってすごくプロポーズっぽいね」

「違うから! そういうのはちゃんと雰囲気のある場所で言うから」

 私の言葉を聞くと、彼女は嬉しそうに両手で私の腕をぎゅっと掴んだ。純潔な彼女には絶対に他意など存在しないが、私は彼女のように綺麗ではない。柔らかいものが腕を包み込んできて、彼女の動きに合わせて弾む。私は慌ててその女の子らしい感触から逃げた。彼女は不満げに口を小さく尖らせたが、私だって不本意だ。それに、人前では彼女との接触を控えるのも、彼女が他人に傷つけられないようにするための配慮だ。まだ神社には人がいっぱいいるので、知人が通り掛かったら見られる可能性もある。

 特に、親が来ていないという保証がない。

 キョロキョロと周囲を見回した。幸い知り合いが一人もおらず、胸を撫で下ろす。となりの彼女は好奇心たっぷりの表情で私を観察していた。人目を気にする私を、彼女はどんな風に思うのだろう。余計なお世話なのかな。

 不安になった私の腕を軽く叩いて、彼女は降り積もった雪よりも無垢な笑顔を輝かせた。

「これからケーキでも食べに行く?」

「ああ、いいよ」

「やった。結構大事な話があるの」

 屈託のない明るい笑い方なのに、彼女は何度も「大事」と念を押した。受験前の落ち着かない心の上に、黒い薄膜を張られた気がする。

 別れ話、ではないよね。

 彼女に手を引っ張られながら話の内容を予想してみるが、見当がつかない。いや、彼女の態度からして、きっと喜ばしい話だ。そう信じよう。

 がらん、と神社どなりのケーキ屋の扉を開けて、二人は向かい合わせの席に腰掛けた。


「大学生になったら、一緒に住まない?」

 ケーキが出されたとたんに、彼女は誘いを口にする。

 ホワイトチョコのミルクレープを切り分けようとナイフを持ち上げた私の手が固まった。

「実は、大学生になったら今とは別のところに家をもらうことになって」

 うすうす勘づいていたが、やはり金持ちの家庭はやることが変わっている。まさかまるごと家を渡すことはないだろう、と確認してみたが、彼女は困った笑顔で頷いた。

「本当にそのまま全部渡される感じなの。T大に割と近いから、通学は便利だと思うよ。もしよかったら、一緒に住んでくれると嬉しいなって」

「でも、家族……家をくれる方たちは、それでいいのか?」

 彼女は眉をひそめて、私の言葉の意味を飲み込もうとしているようだ。しばらくするとやっと、家族と不和になっていたはずの彼女が家を引き継ぐ理由を説明していないと気づき、私に苦笑した。

「要するに、不動産はやったからそれ以上求めるな、ってことだよ。縁を切る条件みたいなものなの」

 笑顔を崩さないまま、冷静なトーンで彼女は続ける。しかし、ミルクレープの乗った皿を、赤くなった指を押し潰すくらいに力強く握っている。やはり彼女は私と同じように、他の感覚で辛さを紛らわすタイプの人間だ。

「お義母さんもこれで納得したみたい。こちらだって、あそこを離れるのは望むところだよ。しかもおまけにおうち一個ゲット、すごくお得でしょ? あ、ごめんね、こう言うと反応しづらいよね」

「いや、私にも分かるよ。私もできれば君と一緒に住みたい」

 今度こそナイフでケーキを思い切り切った。生クリームとホワイトチョコから砂糖の匂いが一気に放たれる。悔しいが、これを買う金も親がくれたお小遣いだ。こんなんじゃまるで飼われているようだ、金を払ってもらっている分際で親に反抗する自分がどう転んでも悪いことになる。

 唇を噛み締めてから、口を開いた。

「ただ、家族に伝えるのは合格発表後でいい? ダメと言われても家を飛び出して行くけど」

「いいけど、発表前に相談すると何かまずいの?」

「真面目に勉強しないで浮かれているって、即座に拒絶されそうな気がする」

 ぱくりとミルクレープの一切れを口の中に入れた。牛乳とチョコレートの濃厚な味わいが滑らかに織り交ぜられて、贅沢な香りが広がる。感動するおいしさだ。早くバイトを始めて、自分が稼いだ金で買いたいと願わずにはいられなかった。

 店を出て彼女と別れ、家にまっすぐ帰る。

 部屋のドアを開けると、天井は相変わらず空間にある全ての空気を私の背中に押しつけようとしていた。耳鳴りがしそうなほどに狭い場所。残り少しの時間をほんのちょっとでも有効利用したくて、勉強机に向かって復習を始める。もしT大に入ったら、家族はもう今までのように私に口出しできない。彼女との同棲を認めざるを得ないだろう。

 だったら、祖父母の期待に応えるための餌として利用されてやろうじゃないか。

 目を閉じて、彼女との生活を脳内で思い描く。同じ大学に通い、毎日一緒に楽しく登下校し、毎朝彼女の作ったみそ汁を飲み、自由に金を使って彼女とデートできる――こんな現実味のない空想は、T大にさえ入れば叶うんだ。

「頑張ろう」

 そう呟いて、次の問題に着手した。


 一月の下旬になり、センター試験の点数も明らかになった。

 可も不可もない、といったところか。マーク模試の結果と大差なく、上位層には届かないものの、これだけで落とされることもないだろう。もちろん彼女には遥か及ばなかったが、今更気にすることでもない。私と彼女は常にそれだけ距離があって、彼女は私が一生を掛けても届かないくらいに優れている。そんな完全な存在なのだ。

 だからこそ、憧れに近づくために努力を重ねなければならない。

 張り詰めた空気が日常になり、あんなに遠くて大きかった受験も、手を伸ばせば届くくらいすぐ近くにある。今の私はまるで岩に押し潰されたこんにゃくみたいだ。少し突っつかれただけならば弾き返せたけれど、大きな流れに逆らう気力も勇気もなかった。やる気という概念自体が当てはまらない状況に身を置くと、ただ作業として勉強するのみだ。

 勉強して勉強して勉強して、私は努力する。努力して、彼女を背負えるまでに強くならなければならない。


 一月三十日は高校最後の登校日だった。卒業式でもないのに、同級生たちは抱き合って泣いていた。泣く気分でもなければ、彼女以外に興味のある人もいない。私は感傷的な同級生たちの姿をよそ目に見ながら、ぼうと最後の授業を受けていた。

 放課後。黙って席でカバンを片づけていたら、腕をちょこんと突かれる。

「皆、連絡先を交換しているよ」

 真上にある彼女の笑顔は、陰鬱な世界に一糸の光を差し込んでくれる。ボロボロの私と違って、彼女は完璧で綺麗。きっとT大にだって容易く受かるだろう。受験で思い悩む彼女を一度も見たことがない。

「君の連絡先以外はいらないよ」

 私も笑顔を見せた。ちょっと硬い。彼女といる時間が急激に減っていたので、久しぶりに顔の筋肉を動かした気がする。

 彼女は椅子を引いて、私の向かい側に座った。

「もし気が変わったら、私に聞けば皆の連絡先を教えてあげるから」

「気が変わることはない」

 カバンを机に置いたまま、もっと長く彼女と一緒にいたくて、私も席に着く。連日過去問を解いて疲れた目を休めるために、うつ伏せになった。彼女がとなりで見守ってくれているからか、今ならぐっすりと眠れそうだ。目を閉じる。世界が暗闇に切り替わった。しかし、微かに彼女の甘い香りがして、安心する。

 揺りかごで規律正しく揺らされる心地。どれほど大きなものに立ち向かおうとしていても、今なら何でも忘れられると思う。気持ちが緩んだのか、視界を閉ざしたまま、思わず口から質問が転がり落ちた。

「もし私がどんな大学にも入れないような落ちこぼれで、世界で一番優秀じゃない人間でも、私を好きでいられる?」

 この問い掛けにどんな感情が込められているのか、自分にさえ分からない。どうして質問をしたのかも分からない。何となく、聞きたかっただけなのかもしれない。

 ひんやりとした感触。包み込むように頭を撫でられながら、澄み通った声音を流し込まれる。

「いつもそんなことで悩んでいるところも、私は全部大好きだよ」

「全部?」

 顔を上げて、聞き返した。慈愛に満ちた目が私に向けられている。まるで、本当は何もできない私でも、愛してくれると言っているように。

「そう。あなたが好きなの。いつも頑張っているのを私は知っているよ。頑張りたくないのも知っている。頑張っていても、頑張っていなくても、結果が出ても、出なくても、私は全部大好きだよ」

 彼女は首を傾げて、にっこりと微笑んだ。優しすぎる彼女の言葉を受けて、心臓が震え出した気がする。

 なぜだか、彼女の首を掴んで引き連れて死ねればいいのに、と思った。そうすれば一番幸せに死ねるかもしれない。もちろん、そんなことは絶対にしない。しないけれど、彼女を繋ぎ止めるためならば死んだって構わない。彼女は、何の飾りもない私でも生きていていいと許可してくれた。私を見てくれるのは彼女しかいない。

「そう」

 激しく燃え上がる感情に反して、私は小声で返したのみだった。

 学校で泣いたのはこの日っきり。他人に素顔をさらけて泣き出すくらいに、私も無条件の愛がほしかったのかもしれない。

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