第19話決別。
「いらっしゃ……あら?」
「まだ開いてる?」
半開きのドアから中を覗き込んで、私はリズに尋ねた。「閉店時間、ぎりぎりかしら」
「ぎりぎりファールね。けどまあ、片付けしながらなら相手してあげるわよ……むっ」
リズの笑みが、私の背後に向くと同時にしかめ面へと変わった。「お連れ様もいたのね。それなら、考え直そうかな」
本気の気配が染みた冗談に苦笑しながら、私は店内に入る。
照明に照らし出された私の全身、高級なドレス姿に、リズは唇を綻ばせた。
「まあ、貴女の格好に免じて、許可してあげましょう。中々素敵よ、ツキ」
「そうだろう? 僕の見立てだ」
「…………へえ?」
リズが笑みを一瞬で凍らせて、ぎょろり、不用意な発言をしたレンの仮面を睨み付けた。「それは、そう、良い趣味をお持ちね、意外にも」
「ははは、そうでもない。これほどの素材であれば、何を着させても様になるというものだが……ふむ」
「何よ」
顎の辺りに片手を当てて、さも何事か考えています、という風体のレンは、私の姿を上から下まで順繰りに眺め、それからリズの方を同じように見た。
ふむ、ふむ、と何度か繰り返してから、それから一つ、納得するように頷いた。
「いや、成る程、と思ってね。確かに彼女相手では分が悪い」
「……そう、それで? そうだとしたら何か、ご感想は?」
私は、リズの前に立ちはだかる。彼女を、或いは目には見えない何かを庇うように。
私の目付きは、さぞかし悪くなっているだろう。この手の話題は大体の場合、私たちにとって不愉快な結末に向かう。
止めろ、と言いたげに肘に触れたリズの指先を軽く払って、レンを睨み付けた。
「さあね」
レンは肩を竦めた。「見映えは悪くないと思うよ」
それより、スコッチだ。
そう言って、レンはカウンターに腰を下ろした。背の高い椅子の上でぶらぶらと足を揺らしながら、私たちを眺める。
仮面には何の感情も浮かんでいない。本当に気にしていないのか、声からも動揺は感じられなかった――少なくとも、私たちを見た誰もが浮かべるような動揺は。
「……変なやつね」
そっと囁くと、リズは私とレンとを交互にみてから、呆れた様子で首を振った。
「そんなの、見れば解るわ」
スコッチソーダとエールのグラスをぶつけ合うと、レンはさて、と口を開く。
「今夜の話を聞く限りでは、彼は概ねクロだね」
「概ね?」
私は唇を歪めた。「随分、好意的な見方に聞こえるけど?」
レンは差し出された小皿からパンを取り上げ、マッシュポテトを塗る。「そうかな」
「そうよ。動機に手段、彼は今夜、全部見せてくれたわ。これ以上、何がいるって言うの?」
「証拠さ」
パンを口に運びながら、レンは言う。
「彼が手段を手に入れた、その確固たる証拠さ。恐らくは何か薬なんだろうけど、それがきちんと存在するという証拠が欲しい」
「……何を考えてるの、レン?」
「方法や、手段さ。計画を立てるための、計画だよ」
「……何だか、悠長ね」
「何が言いたいんだ、ツキ?」
「私が言いたいことくらい、アンタなら解ってるでしょ」
レンは、グラスに視線を向けたままでため息を吐いた。
「……前にも言ったかもしれないが、僕たちの目的は、現状の人間社会の維持だ。科学万能、神秘よさらば。一歩抜き出た天才程度ならばともかく、傑出した異才などは必要ない。そんなのは、社会を乱すだけのものだ」
「あなたたち?」
「世界よ、平凡であれ。ただただ連綿と現在が続いてくれれば良い、そういうことだ」
「あなたたちはね?」
「もちろん、必要な技術を出しはする。現状維持というのは、下手をすると先細りだ。文明社会というのは消費社会だ。ただ漫然と続けていては、資源はどんどん減っていく。そうならないよう、適切に技術を小出しにして、文明社会を先に進めていかなくてはならないからね。だから――」
「だから?」
私はその、淡々と続く話を遮った。「私が聞きたいのはそんな政治的な事情じゃないわ、レン。アンタの事情よ」
「………………」
レンの仮面は、グラスとパンの間を行ったり来たりしている。
たっぷり数秒、迷うような沈黙の末に、レンは静かに口を開いた。
「……僕の目的は、今も昔もただ一つ。【人魚】だ」
「えぇ、ところで。BB社は、人魚を造り出したみたいね?」
私はグラスを口に運んだ。「手に入れるの?」
「別に、【人魚】収集が目的な訳じゃないさ」
レンは淡々と言う。「……君の考えている通りだよ、ツキ。彼らと僕の目的は、今のところけして競合するものじゃない」
私の心に、静かに、理解が染み込んでくる。
黒い粘土が一滴、どろり。
「僕の目的は【人魚】だ。僕は【人魚】に借りがあってね。だからこそ、【人魚】にとって住み良い世界にしたい」
「……世界を、海にでも沈めるっていうの?」
「それも一つだが。なあ、天才の住みやすい世界って、どんな世界だと思う?」
「え?」
「天才をちやほやする世界か? 天才のために色々と世話を焼く、そんな世界だろうか? 僕は、違うと思う」
レンは相変わらず静かに、しかしどこか、不気味な熱を感じさせる口振りで言った。「天才にとって最高の世界とはね、ツキ。天才が天才でない世界さ」
レンは、今やしっかりと私の方を見ている。
仮面の奥で、彼の瞳が冷たく瞬いた。
「ヒトとは何か。ヒト科の内、最も一般的な種族のことさ。僕の目的はね、ツキ。【人魚】をヒトにすることさ。【人魚】が【人魚】であるがまま、特別でも特殊でもない世界。そのためには――【人魚】に多数派になってもらう必要がある。彼らの実験は、その助けになるかもしれない」
「……そう、なるほど、ね」
「解ってもらえたかな」
「えぇ。解ったわ、よおくね」
私の心は、不思議と落ち着いていた。
燃え盛るような怒りも、嫌悪も、敵意も浮かんでは来なかった。これまで私を失望させたあらゆる男に感じてきた、どんな種類の感情も、そこには存在していない。
ただ、ひどく冷たかった。
赤く熱した鉄を叩いて鍛えて、そして冷やすように。
生きるために纏ってきた固い心の殻が、再び私の心を包んでいた。
「……馬鹿みたい。そうよね、そんなものだわ、結局。解ってた筈なのに、理解していた筈なのに。アンタは違うんじゃないかとか、勝手に思ってた」
「ツキ、それは……」
「良いの、黙って。これ以上、何も聞きたいことはないわ」
私は勢い良くグラスを干すと、立ち上がった。
コートを羽織り、それから、カウンターの影に手を回して【荷物】をポケットに突っ込む。
「……アンタはそこで、世界の終わりをじっと待ってればいい。高い酒でも飲んでね。私は、正義を為す」
かつかつと甲高くヒールを鳴らして、店を出る――寸前、肩越しにレンの仮面を睨み付けた。
「覚えておきなさい、着たくもないヤツに水着を着せるようなヤツを、変態と呼ぶのよ」
返事を待たず、私は店を出る。
勢い良く閉まったドア、身を切るような寒さ。ようこそと私に呼び掛ける。
これが私。ここが私の世界だ。
必ず、守る。
SDSーfile レライエ @relajie-grimoire
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