第18話祭りの後で
「ミスター・バース!」
「……あぁ、どうもミスター・チュンバース」
何処と無く不快さを感じさせる顔立ちに、私は慎重に笑みを取り繕った。「ボストンの新聞王にお越しいただき、全く光栄ですよ」
簡単な世辞に、チュンバースは過敏に反応した。「いやあ、私としても、同郷の活躍は喜ばしい限りですからな」
私は曖昧に笑った。
BB社社長のバートン・バースがボストン出身だという噂は、非常に真実味のある情報として、世間一般で囁かれている――それが全くの事実無根であるとも知らずに。
自分の出身地に関して、「あぁそうなんですね、ところでそれはどこ?」とか、「綴りは?」とか、自分が分厚い紙の束だと思われるのは、けして愉快な経験ではない。だったら、勝手に知っていると思われる方がよほど楽だ。
それに、
とはいえ、仮にも情報を扱う職に就いている者の発言としては、正しく程度が知れる、というものだが。
「……そちらは、ボストンビールですかな?」
「えぇ、勿論! あぁ、その件に関してもお礼を言わなくてはなりませんね。こうした場で故郷の味わいを頂ける機会は、そう多くありませんからね」
「いえいえ、それはそれは。私としても、喜んでいただけて、心から嬉しいですよ」
あぁ、全く。
さらりと周囲を見渡せば、来客の二割ほどがシャンパングラスではなく、ごつごつとしたジョッキを傾けていた。
自分の采配は、上手く嵌まったようだ。生まれた土地の味というのは、それが遠退けば遠退くほど、甘美に感じられるものだ。
少し離れたところで、多少の科学知識を持つ連中の相手をしていたリー博士と目が合う。
彼は冷静だった――東洋人の顔は、彼らが作る人形のように不変だった。
わかっているとも。
彼の静けさが発する問い掛けに、私は心の中で頷いた。全ては、ここからだ。
「ところで、先程の……【
「あぁ」
目の前の人物がジャーナリストであることを今更に思い出して、私は微笑んだ。「お楽しみいただけましたか?」
「それはもう!」
男は大きく顎を震わせた。「……あれは、その……余興か何かで?」
「……と、仰いますと?」
探るような目付きに、私はわざとらしく首を傾げてみせた。
釣りとも言えないような手軽さで、チュンバース氏は引っ掛かった。
「詰まりですな、先程のは何らかの……トリックですか? 貴方の持論に説得力を持たせるための、単なる舞台装置の一つに過ぎないのですか?」
「これはまた、異なことを仰いますな」
私は微笑んだ。「そんな安っぽいやり方で、いったいどのような説得力が生まれるというのです?」
「それはまあ、そうですが……しかしだとすれば……」
「だとすれば、なんです? 輝かしい未来への、第一歩に過ぎませんよ。ただ単に――水の中で息が出来るようになるだけです」
そう、それだけ。
彼女はまだまだ第一歩だ――そしてだからこそ、誰でも直ぐに追い付ける。
そう、誰でも。
「どうやら、気になっておられるようですね。チュンバース氏も、それに他の方々も」
私は部屋中に響くよう、大きな声で呼び掛けた。
節度を守り、好奇心を必死に覆い隠そうとしていた彼らは、その言葉でたがが外れた。
ギラギラと目を輝かせ、数歩、私の方へと歩み寄る人さえいた。何者をも見逃さないよう目を見開き、耳を研ぎ澄ませ、猫のように飛び掛かる準備をしているようだった。
「ご安心を、皆様」
私は、相棒に目配せをした。視線に気付いたリー博士が、良しと言うように頷き返す。「直ぐに、皆様にもお分かりいただけるでしょう」
ビルを出て、階段を降りながら、私は自分の靴にイライラと舌打ちした。
「……歩きづらいわね」
「だからタクシーを呼ぶと言ったじゃないか、ツキ」
私のぼやきに、レンは呆れた様子で私の足元を指し示した。「ハイヒールに慣れるような生活をしてはいないだろう?」
「どうせ私は安月給よ、アンタとは違ってね」
「僕も似たようなものだよ。ハイヒールに関してはね」
差し出されたレンの手。
思わず固まった私の躊躇いを、レンはくすり、軽く笑い飛ばした。
「おやおや。ウブなのか、それとも同居人に遠慮でもしているのかい?」
「……その辺の野暮も、Wikipediaに書いてあったの?」
「揃いのコップ、予想される君の収入と見合わない規模の部屋、家具……観察すれば、灰色の脳細胞が無くたって自ずと解るよ」
レンは手を引っ込めた。「恋人かい?」
「まあ、ね」
「羨ましいことだ、まあ、別に驚かないが」
「……どうかしら?」
私の事情を聞いて、驚かなかった男はこれまでいなかったけれど。
あの寛大なノアでさえ、数回咳き込んだほどだ。それから軽く眉を寄せて、顔をしかめ、ようやく絞り出すような低い声で一言、神の名前を呟いた。
「それはそうだろう?」
レンは、私の言葉を別な意味だと受け取ったようだ。「人は誰もが、恋を糧に生きる獣さ。君が例外だとは思えない」
「イタリアの血でも混じってる訳?」
「生命の目的は、究極的には存続だ。動物はその手段として、異なる欠片を組み合わせることを選んだわけだが――人はそこにスプーン一杯、もう一味を加えた」
いつの間にかレンはペットボトルを取り出した。透明なそれを一振りすると、中身は真っ黒に染まった。
キャップを捻ると、ぷしゅっ、と炭酸が吹き出すような音がして、少しこぼれた。
「愛情は甘い」
ぐいっと勢い良く煽り、レンは僅かに咳き込んだ。「そして恋は刺激的だ」
「……コーク?」
「単純な営みに、味わいを持たせたのさ。ただ男女が出会えば良いだけの生命に、時には、胃もたれするほど濃厚な味を。それは、実に悪くない試みだよ。どんなことでも、楽しむ、というのはね」
「そう、かもしれない、わね」
「なんだい、自信を持ちたまえよ。君は魅力的だし、それがもたらした出会いを楽しむ資格は充分にある」
こういうとき、仮面は全く羨ましい個性だ。
聞いてるこっちが耳まで真っ赤になるような文言を、顔色一つ変えずに言えるのだから。
「さて、それでは、ヴァンの店でのディナーはキャンセルかな?」
「まさか。あんまり食べられなかったし、せめて奢ってもらわないとね」
私は、照れた顔を誤魔化すように勢い良くため息を吐いた。「友達と夕食くらい、パートナーがいてもやるでしょう? まして、奢りならなおさらね」
「現金だなあ」
苦笑するレンを、私は大股で追い越した。そもそも歩くのに、他人の手など借りてたまるものか。
それが誰であれ、友人であるからこそ、私は一人で歩きたい。
そうして直ぐに、足を捻った。
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