第12話デモンストレーション
ゆっくりとした歩みで、ツキはリビングルームに入ってきた。
膝頭が破れたジーンズに、グレーのタンクトップという、五分で素早く支度したラフなスタイルだ。
女性の着替えでこれほど待たされなかったのは、僕の長い人生の中でも初めてだった。
仕事で某国海軍に同行したときの女性軍人以来の、大幅な記録更新と言える。尤も、彼女はそのまま敵と戦闘行為を行えるよう、持ち得る全ての装備を着込んでいた。
それと比べるには、ツキは髪さえ乾ききってはいない。臨戦態勢が整ったとは、言いづらいだろう。口一杯に頬張っても、飲み込むまでは早食い選手権チャンピオンとはいかないのだ。
余裕と落ち着きを感じさせる歩調で、ツキは僕の横を通り過ぎた。それから、部屋唯一のソファーに優雅に腰を下ろした。
唯一の、だ。家主の分しか無く、僕の椅子はない。
結果として、彼女とローテーブルを挟んだ向かい側。テーブルとテレビとの隙間の床に、僕は座らされていた。
勿論、正座だった。日本風『僕は反省しています』表現の、家の中シリーズである。
「……それで?」
その言葉を聞いた時点で、僕は判断ミスに気付いた。
やはり、記録は大幅更新だ。彼女は既に――臨戦態勢だ。
長い足を組み、ソファーに深く腰掛けて、まだ湿っている金髪の先を指で軽く弄る様はまるで、独裁的な女王様のよう。
真っ青な瞳が僕を見下ろしている。さてどうやって処刑しようかしらと、赤の女王が迷い込んだ少女を見るような眼で。
女王は口を開いた、僕は背筋を伸ばした。
「何がどうしたらこうなるのかしら、
「こうなる、と言いますと?」
敬語である。
古今東西、怒れる女性を前に男の舌が紡げるのは、結局のところそれだけだ。
そして多くの場合と同じく、それは意味をなさなかった。
「悪夢から目覚めて気分を変えようとシャワーを浴びてはぁさっぱりと振り返ったら昨日会ったばかりの男がバスタブから顔を出した時のことよ!」
「あー……それに関しては、その……」
「いい、何も言わなくて良いわ特級調査員。何だっけ? 各国の法律を超越している? あぁなるほど、だとすると私はアンタに裸を見られても泣き寝入りするしかないって訳?!」
「言わせていただければ、その、タオルでほとんど見えなかったよ、ほとんど」
ツキの眼が……僕を見た。「……すみませんでした」
僕は仮面を撫で、それから、腹を撫でた。
耳元を掠めた銃弾の感覚と同時に、胃がひっくり返るほどの吐き気が、プロボクサーばりのお見事なボディブローの映像と共に、鮮明に甦ってくる。
痛みは最上の教師とは、良く言ったものだ。
僕はこの出世欲の塊みたいな若い女性警官に、丸っきり頭が上がらないだろう――この幻覚が居座る限り。
まあ、彼女の艶姿も同じくらい鮮明に、残ってはいるのだが。
「……『どうなれば』の方を説明、あー、させてもらえないかな。勿論その……君が良ければ、なんだけどね」
自分の中の、一人でありながら全く異なる二つの顔を持つ幻覚を追いやるために、僕は話を変えた。
幸いにも、ツキは乗ってきた。
「アンタが不法侵入してきた件ね」
「せめて
そっちでも間違いではあるが、現象としては近くなる――いや、結果としては同じなんだけれども。「僕は魔術師だという点について、信用してくれている、という前提で話すけれど」
「信用は、してあげても良い」
ツキは形の良い眉をくいっと上げた。「理解できないだけよ」
これは、チャンスかもしれない。
上手くすれば話を変えるどころか、彼女の僕に対する認識を変えられるかもしれない。
誰にも見られない笑みを、僕は仮面に刻み込んだ。さあ、ショータイムだ。
「では前提を確立しようか」
「先ずはコップに一杯、水をくれるかな?」
「上品なお申し出ね」
テーブルにコップを置くと、ツキは両手を広げた。「他に必要な物は? 魔方陣や人の脂で作った蝋燭は要らないの?」
「僕は省エネ派なんだよ。最早世界語だと思ったけどね、『もったいない』ってやつだ」
「魔法使いもずいぶんと所帯染みたわね」
僕は笑いながらコップを受け取った。
言ってしまえば昔から、そんなものは必要無かった――観客に納得させるために怪しい空気を醸し出すための、小規模な舞台装置だ。
それなりに力のある魔術師にとっては、雰囲気作りの小道具に過ぎなかったのだ。
そして僕は、本当に力のある魔術師だ。そんなものは必要ない。
「さてさて、取り出したるはこちら、安物のコップ」
「煩いわね」
「中身はただの水だ。種も仕掛けも無い」
僕は右手の人差し指を水に浸けた。
それから、左手を月に翳した。ひらひら、ゆらゆらと、開いた手を揺らす。
ツキは鼻を鳴らした。
「それの種は調べてないわね」
「調べたいならご自由に。けど、気を付けた方が良い」
「?」
「痺れちまうぜ?」
僕は、片手を軽く屈伸させた。
そして――世界を変えた。
僕の手のひらから小規模の雷が迸ったのだ――まるで人形遣いの糸のように、それぞれの指先から細く、折れ曲がった光の筋。
空気の焦げる臭いをさせながら雷の糸はより固まり、一つの球体を創り上げた。
輝く球は、僕の手元でパチパチと火花を散らしながら、ゆっくりと回転している。
「……厳密には、僕のは呪術と呼ばれるらしいんだがね」
言葉もなく呆然と球を見詰めるツキが、僕の言葉に顔を上げた。
彼女の視線を追うように、僕は左手を動かした。光球もそれに続く。
「魔術は、まあ簡単に言えば魔力を用いて現象を起こす技術だが、呪術は少し違う」
「違う?」
「呪術の本質は、変換だ。こうして雷の球を生み出すことが出来るが……代償が必要だ」
左手の周りに球を纏わせながら、僕は右手を示した。
指を浸していたコップは――滴の一滴も残さず空になっている。
水が尽きたことで、光球は徐々に小さくなっていき、やがて消えた。
線香花火のように、寂しげな消え方だった。
「水だ。水が、僕の全て。僕は水を消費することで、およそ何でも出来るのさ」
「……信じられない……」
「理解は、してくれたかな?」
僕はコップを人差し指で傾けて、中が空であることを見せ付ける。「世の中には、君が知らないことが沢山あるんだよ」
「……だから、今回の事件にアンタが関わってきたわけ?」
おっと。
なかなか立ち直りが早い。ツキの瞳に鋭さが戻る様子に、僕は舌を巻いた。
「水を使うってことは、もし足りなければ体内の水分を使うことになるんじゃないの? スポンジをぎゅっと絞るように、身体から水がなくなって、そして……喉が乾くんじゃないの、死ぬまで水を飲みたくなるくらいに?」
「……ご明察だよ」
その辺りの種明かしは、もう少し劇的なタイミングで行いたかったのだが。「僕が期待していたのはそういうことだ。彼らが何らかの要因で、僕のようになったのではないかと予測した」
「アンタも、ああなるかもしれないってわけ?」
「僕はまあ、付き合いが長いからね。どのくらい水が奪われたら不味いのかは把握しているが――素人では、そうはいかないだろう」
僕は力を、先祖伝来の遺産として受け取ったのだ。当然扱い方は知らされているし、訓練も積んでいた。
そう、受け取ったのだ。
この力は、とある存在から分け与えられることが可能なのである。彼らのような素人でも、僕の時と同じように力を得ることはできる。
「おめでとう貴方にレーシングカーが当たりました、ってわけさ。キーを捻ってエンジンをかけることはできるだろうけれど、まともに運用することは不可能だ――ガソリンが尽きるまで走り続けるか、途中で事故るか二つに一つというところだろうね」
「最悪な贈り物ね、まるでテロリストだわ……あぁ、そういうこと?」
ツキの瞳に、理解の星が瞬いた。「アンタの狙いは、そっちってわけね?」
「本当に鋭いね、君は」
いっそ呆れながら、僕は頷いた。
「さっきも言ったけど、この力は効果の割りに条件が易しすぎる――完璧に操るのはともかく、自爆覚悟の刹那的な運用なら、特別な素質も必要ない。ただ、彼女に会えれば良いだけだ」
「それが【人魚】ってわけね」
「そういうこと」
勿論、僕の知る【人魚】と、彼らが出会ったかもしれない【人魚】とは、別個体だろうとは思っていたけれど。
そうではないかもしれない。
【人魚】の血肉で不老不死になるのなら、【人魚】だって、不老不死かもしれないじゃないか。
「……アンタの服がいきなり乾いてたのは、そういうわけ?」
何気ない風を装って、僕は答えた。「ん、まあそういうことだね。僕は凄いからね、わざわざ飲まずとも、肌に触れた部分から水分を取り込むことが出来るんだ」
ツキは、勿論見抜いた。「詰まり、それだけ喉が乾いてたってわけね」
降参するしかなさそうだ。
白旗もないし、僕は両手を高く挙げた。
「誰かに追われてたってことね? それだけ切羽詰まって、全力を出さないといけないような相手に」
「全力、とまでは言わないけど。それほどの相手って訳じゃないさ」
「はいはい、すごいすごい」
「冗談な訳じゃないんだけどね。僕の全力は、人間一人に向けて良いような、安い代物じゃあないんだぜ?」
「けど、必死にはなったんでしょ?」
「……多少ね」
「誰にやられたわけ? 何でも出来るすごい魔術師様を、それも、SDS会の特級調査員をぼこぼこにするなんて、何者なのかしら?」
ぼこぼこにされた訳じゃないと、言おうかと思ったがしかし、止めておく。
むきになっていると思われたくは、ない。
代わりに、少し踏み込んだ説明をすることにした。
本来なら現地協力者程度に教えるべきことではないが、仕方がない。僕が捕捉された以上、彼女も巻き込まれたと思うべきだろう。
「……僕たちは、魔術とか神秘とか、そういう『現在の社会を崩壊させる可能性のある技術』を厳しく監視している。SDS会の目的は、根本的には現代文明の維持だからね。中でも、急激な変化ってやつはけして、けして認めないんだ」
コップを下げて、代わりにツキはマグカップを二つ運んできた。
揃いのカップをちらりと見ながら、僕は受け取ったコーヒーに、砂糖を三杯ぶちこんだ。
更にミルクも入れる僕を嫌そうに見てから、ツキはソファーに座り直した。
「じゃあ敵は、それを認める相手ってわけ?」
「そういう相手も勿論いるよ。現在の世界は歪んだままで大きくなり過ぎてしまったから、変革のために一度解体するしかないって考えるような、安直な思考回路の集団は多いんだ。だが……」
「今回の相手は違うってわけね」
「あぁ。彼らは、この世界の維持に興味がない。壊れようが維持されようが、究極的にはどうでも良いんだ――この国さえ維持できればね」
「それって、まさか……」
ツキの顔に、初めて不安の色が浮かんだ。
本当に、勘の良い子だ。危険を察知できる能力というのは、単純な運動神経よりも貴重な才能だと、僕は常々思っている。
解っているのなら、話は早い。僕は簡単に頷いた。
「いわゆる【
合衆国全体だ」
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