三話

 アルテが持つ弓が微かに震え、その両端から月光で編んだような二枚の長い羽衣が生じて宙をたゆたう。

 彼女の腕が、その指が、無駄一つない滑らかな動きで弓に矢をつがえて垂直に構える。

 舞う羽衣は弓をおおう翼と化し、矢には魔力の輪が形成され光を宿した。

 天地をつなぐ一本の線、一点の集中、氷の双眼を細めて狙う矢先は邪竜エルダードラゴン。


 月の弓を持つ美しき狩人――見る者は連想する、その姿は月の女神であると。


 兵士の一人がアルテを指さして月の女神が降臨したと口にした。

 興奮はあっというまに他の者たちに伝染し、兵士たちは持つ弓や槍を歓喜の声と共に天へ掲げ、手を足を激しく打ち鳴らした。

 その音は、城壁の下で不安げに見守っていたエルフの民にも伝わり、彼らは互いの顔を見合わせると次々と手拍子を打ち始めた。

 すべての者が打ち鳴らす原始的な荒々しい音は、やがて一つの曲へと転じる。

 それはまるで月の女神へと捧げる賛美の曲のようであった。

 その歓声の中、幼きリオンはアルテの姿だけを見つめていた。

 天から降り注ぐ淡い月光に照らされて、真っ直ぐと弓を構える彼女は、まさしく月から降り立った穢れなき美しい女神であった。


 エルダードラゴンは周囲の空気に、アルテに、小さき者たちの猛りに驚愕し身じろぎする。

 彼は邪神の眷属として神々の戦いを生き抜いた力もつ邪竜である。

 それが虫けらでしかないはずの存在に危機感を覚えた。

 悠久の昔に自らの額に消えぬ傷を負わした者と同じ重圧においを感じたのだ。


 グギャァァアアアアアアアアアアアアアアアアァァァ!!


 記憶に深く刻まれた屈辱にエルダードラゴンは咆える。

 大きく息を吸うと前脚の爪で大地を抉りながら先ほどよりも強い火球を生み出した。

 その熱量と小神にも匹敵する魔力は、アルテを百回殺しても足りうる炎であった。

 そう、ただの・・・アルテであればだ。

 あるいは彼がそのときに全身全霊をもって攻撃を仕掛けていれば、今のアルテとはいえ殺すことができたのかもしれない。

 しかし、だが、そこまでが邪竜の限界であった。

 害する者が皆無の長い生ゆえに本能の警告には従わず、所詮は虫けらとアルテを侮る泥のような慢心。

 そして自らに傷を負わした者が、月の女神であったことを忘却していた老いがあったのだ。


 エルダードラゴンから放たれる灼熱の火球。


 大地に小さな太陽が生じる。

 夜を昼のごとく赤く染めあげ、離れているリオンたちにまで伝わってくる絶死の炎。

 その熱を目前にしてもアルテはやはり動じない。


「ナム ハチ マン ダイ ボサツ!」


 アルテの口からこぼれる異界の言葉を、女神がつむぐ言霊ウタをすべての生きとし生けるものが聞いた。

 火球が迫る。

 アルテは輝きを増す光の中、氷の双眼をカッと見開き月弓の弦しぼる指を離した。


 リィィィィィィィィィィィィン――!!


 高まる月の音色。

 エルダードラゴンの放った火球とアルテが撃った光の矢は真正面から衝突し、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ拮抗した。


「逃げ足だけは速い臆病な邪竜えものよ、次は逃さぬと私は・・言ったはずだが?」


 弓を構えたままの月の狩人が、物憂げにエルダードラゴンへとささやく。

 全てのものを射抜く、黄金・・の月の瞳で。

 その言葉に竜の若き頃の記憶が甦る。

 そして目の前に立つ存在が何者であるかにようやく気がつき、古竜は久しく忘れていた感情を取り戻した。


 ……彼の感じたそれは紛れもない恐怖であった。


 アルテの矢は火球を貫き崩壊させ、逃げようともがく鈍重なエルダードラゴンの額に直撃する。

 奇しくもそれは神々の戦いの際に月の女神が邪竜に傷をつけた箇所。

 脆くなっていた鱗を砕き、硬い頭蓋すらも貫いて、矢に宿った莫大な月の魔力がエルダードラゴンの逃げ場のない頭部で……開放された。


 ――――!!


 幕引きである。

 月の女神の化身は手を広げ緩やかに何度も回転し、低い姿勢で残心すると大地に弓を置く。

 そのまま膝をついて動きを止めると静かにまぶたを閉じた。

 彼女は美しい舞を踊り終えたのだ。

 頭を吹き飛ばされて重たい地響きをあげながら横倒しになるエルダードラゴンを背に、アルテは戦いの終わりを告げた。



 凄まじい振動と舞いあがる大量の土煙のあと、静寂だけがあった。

 その場にいた者たちは目の前の出来事を信じられず、この光景が幻のごとく消えてしまうのではないかと口を開くどころか身動きすらできない。

 あれほどの恐怖と絶望の地獄をエルフの国で作りだしたエルダードラゴンが、あの恐るべき怪物が、呆気なく大地に倒れ伏しているのだ。

 誰もが息をひそめてダークエルフの女だけを見つめていた。

 幼きリオンも同じである。

 笑うことも叫ぶことも……喜ぶこともできなかった。

 ただ月明かりに照らされた美しい女神に見惚れ、魅了され、夢なら永遠に覚めないでほしいと願った。

 やがて獲物への鎮魂を終えたのかアルテが立ちあがる。

 城壁にいたすべての兵士が彼女の動きに注目した。

 アルテの顔は無表情であった。

 しかし城壁の上から見つめる多くの者の視線に気がつき、わずかな動揺を見せ、そして先ほどまでの超常とした様子が嘘のように、申し訳なさそうに短く声にだした。


「あの、全部・・倒しましたよ?」


 爆発したような大歓声が起こった。



 ◇



 リオンは寝室で目を覚ました。

 それは夢、二百と七十年前に実際起きた出来事を夢として見ていた。


「ふふ、私はあのときから……」


 アルテがエルフの国で倒してくれたのはエルダードラゴンだけではなかった。

 彼女はその前に、周辺諸国の軍隊でさえもが手こずっていた魔界へとつながるゲート……悪魔の目を、周辺の魔物共々一つも残さず破壊して回っていたのだ。

 それを知らされたのは生存は絶望的と思われた街や村の、アルテに命を救われた多くのエルフの民たちから。

 知ったのはアルテがエルフの国を去ったあとである。


「………………」


 リオンがエルフの国の王となり二百と七十年。

 思い出すのはリオンの一度目となった魔王の討伐戦。

 そこで月弓のアルテと再会した。

 アルテはリオンの成長した姿に城壁で出会った幼子とは気がつかなかったようだ。

 再会の感動、リオンは自分の中にあったアルテへの思いを再認識した。

 彼女と共に戦い交友を深めた。

 そのあと反対する家臣たちを押しきり、アルテをエルフの国に招こうとしたが当の彼女に断られてしまう。

 そこで親友のアドバイスに従い、アルテの心象を良くするため贈り物をすることにした。

 それには家臣たちも内心はどうあれ文句を言わなかった。

 本来なら邪竜の亡骸から得た莫大な富はすべて討伐者である彼女のものだから。

 宝石やドレスから始まって武器や防具、アルテが喜び気に入りそうな物ならなんでも。

 近隣だけではなく遠方からも様々な貴重品を取り寄せた。

 しかしどのような贈り物もアルテには断られてしまう……旅には重くなるからと。

 ただ、エルダードラゴンの皮膜で作られたグローブとブーツだけは未だに着けているので、気に入ってもらえたようだが。


 二度目の魔王討伐でも再び一緒のときをすごした。

 魔物どもを片手間で捻りつぶす合間の至福の時間であった。

 そしてつい十数年前の三度目の討伐である……だがそのとき、そのあと彼女は……。


 リオンはアルテの強さに並ぶまではこの気持ちは秘めていようと思っている。

 そう、今はまだそのときではないのだから。


「アルテ、いずれ君を迎えに行くよ……君にはこの国の……いいや、この私の妃になってもらう……ふふ、ふふふふふふ」


 エルフの王リオンは、王の寝室で誰にも聞かれずに呟いたのだ。



 ◇



「く、くしゅんっ!?」


 アルテはくしゃみをした。

 伝説とまでうたわれた英雄にしてはずいぶんと可愛らしいくしゃみである。


「風邪ですかお師匠さま?」


 日もだいぶ落ちた時間、アルテとマオの師弟コンビは深い森の中で野営をしていた。

 防寒も兼ねるマントに包まり、火の番をしていたマオは心配してたずねる。


「分かりません……分かりませんが体がゾクゾクします」


 アルテの体はマオきゅんでいつもムラムラと発情……発熱していたが。


「薬茶でも沸かしますか?」

「あ、あれは苦いのでちょっと……」


 マオはアルテの見た目に似合わぬ幼い発言に微笑んでしまう。

 彼女は子供舌らしく、極端に辛いモノや苦いモノは苦手なのだ。


「でも、風邪は予防が肝心と言いますし」

「う、うーん……あ、そうだっ!!」


 焚き火を挟んでマオの対面に座る美しい養母アルテがニッコリと微笑み、いいアイディアとばかりに手の平を合わせてペチンと打ち鳴らした。

 マオは非常に嫌な予感がした。

 アルテがこのような顔と仕草をするときはマオの男心を打ち砕く無慈悲な提案をするからだ。


「マオ、今夜は私のマントに包まって一緒に寝ることにしましょう」

「え……ええぇぇ!?」


 マオは素っ頓狂な悲鳴をあげた。

 だがアルテは止まらない。


「それにマオの小さい体ではこの寒さはきついでしょう? 私もマオの体温を感じられて嬉し……暖を取れますし一石二鳥です」

「い、いやいや、お師匠さま、それはちょっと不味いというか、その、あの……」

「ほらほら、マオきゅ……マオきなさい、この母の元に。私は無駄に贅肉・・があるから体温だけは高いのですよ?」


 包まっていたマントの前を開いて子供みたいにパタパタするアルテ。

 フクロウ並の夜目を持つマオは、豪快に揺れるアルテの乳肉・・に目を奪われしまう。

 少年の喉がゴクリと鳴る。

 褐色の双丘にうつる炎の照り返しの陰影がなんとも淫靡であった。


 そして……。


「……お師匠さま、今夜はお願いします」

「はーい♡」


 マオ少年は敗北した。

 彼はアルテの熱と張りのある柔らかさを感じながら眠れない夜をすごすのであった。

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ダークエルフの弓使いにショタな弟子ができました あじぽんぽん @AZIPONPON

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