二話

 エルフの森の千年樹の木々すらも超える、巨大なエルダードラゴンであった。

 かつて、神代の神々の戦いにおいて邪神の先兵として猛威を振るった邪竜。

 そして、この世界においてもっとも神に近いとされる古種。

 幼きリオンは声をあげ膝をついた。

 予見の力があるゆえに視えてしまったのだ。

 怪物に焼かれて無残に折られる世界樹……放浪の民となり、安住の地を見いだせずやせ細り、魔物に襲われて失意のうちに滅びを迎えるエルフたちの過酷な定めを。

 それは今まで魔王の台頭を邪魔してきたエルフ族に対しての邪神の報復……あれはエルフを滅ぼすためだけに遣わされた邪悪な神の眷属であると。

 その神の意思に、気まぐれな悪意に、力なき幼い決意は呆気なく砕かれる。

 リオンは自らの無力さを、勝てぬと分かっていてなおも戦いにおもむいた王たる父の思いと覚悟に、ただただ涙することしかできなかった。


 漆黒のエルダードラゴンが咆える。

 その体から神の力が灼熱の蒸気となってあふれだす。

 大樹のように太い脚が一歩踏みだすたびに周囲の草木が瞬時に枯れ、大地が砕け陥没する。

 すべてを思うままに蹂躙して破壊して食らい尽くす邪悪な生命体。

 哄笑する、ただ無力な者を嘲るように哄笑する。

 それは、その場にいる者、誰もかもが明確に分かる敗北、そして終焉であった。

 絶対の死と滅びを前にして、一人、また一人、リオンと同じように絶望して膝をついた。


 ――リィィン……。


 だがそのとき、リオンの長い耳が微かな音を……月の音色をたしかに捉えた。


 城壁に詰めていた兵士たちから大きな騒めきが起こった。

 焦土と化した大地に降りた者がいたのだ。

 その者は高い城壁から難なく飛び降りて、まるで散歩でもするかのように邪悪なエルダードラゴンの正面へと歩みでる。

 それは正気の沙汰ではないと子供でも分かることだ。

 呆然としていたリオンは我にかえり、慌てて城壁に取りついて兵士たちが指さす方に視線を向けた。


 そこに見えたのは女……極少の鎧を着けた裸に近い褐色の体と、ねじれた木の弓を持つ女であった。


 リオンは彼女を知っていた。

 つい先ほど、エルフ種族のために一番最後にやって来た者だ。

 自分たちと似ている身姿なのにまったく違う、野を駆ける獣のしなやかさと夜の精霊のような神秘的な美しさを持ちあわせた女であった。

 彼女は、エルフが崇める神と争っていたとされる月の女神の眷属。

 エルフと同じ神の直系で、エルフ以上に弓を使うとされる狩猟の一族。

 その豊満な体をわずかに隠す鎧は防具としてほぼ意味をなしていない。

 それは『如何なる者も我らに触れること叶わず』という彼女たちの傲慢な自信の現れだという。


 彼女はここに現れたときから言葉多くなかった。

 家臣たちに罵られ敵意を向けられたときでさえも表情をまったく変えず、様々な男たちの求婚を無下にしてきた処女神の眷属に相応しい気高さと孤高さでたたずんでいた。

 その彼女の態度に敬意を覚え、そして種族の滅びを迎えるかもしれないときでさえ古き確執に囚われ、彼女を追い返そうとする家臣たちにリオンは呆れ、咎めた。

 それからリオンは彼女の助力に礼を言った。

 万人が分かる負け戦に参加してくれる彼女に、申し訳なさと共に感謝の言葉を伝えたのだ。

 すると今まで無言だった彼女が微かに笑みを浮かべて自らの名前を名乗った。


 ――私はダークエルフのアルテ、と。


 リオンは再びアルテを見る。

 やはりなにも語らぬ後ろ姿だ。

 しかし幼きリオンの胸は熱くなった。

 例え無謀や愚かしいと評されたとしても、自分を含めてすべての者たちが諦める中で、ただ一人、ただ一人だけでもエルフのために邪竜と対峙する勇者がいたのだから。


 アルテは竜の前で止まると矢を一本だけ抜き矢筒を地面に落とした。


 あの距離だ、放てる矢はおそらく一度だけ。

 その思い切りの良さに兵士たちからは感嘆の声があがる。

 アルテは長い剥きだしの脚を肩幅ほどに広げて構えた。

 弓と矢を持つ手は下がったままである。だが彼女は確かに構えを作ったのだ。


 立っている……それだけのなにげない姿。


 だからこそリオンは息を飲んだ。

 いやリオンだけではない、優れた弓の使い手であるエルフたち、そして武に欠片でも関わったことのある者たちは例外なく息を止めた。

 それほどにアルテの立ち姿は美しく完成されていた。

 彼らは見ただけで悟る。

 厳しい修練を行い時間を費やせば得られる類のものではない。

 武神に愛された才ある者たちの中でも、さらに一部の選ばれた者だけが辿りつける境地であると。


 その姿にリオンは、アルテはまるで天と地をつなぐ世界樹のようだと思えた。


 だが力なき者だけが理解する感動など、生まれつきの強者である邪竜には無縁のものであった。

 エルダードラゴンはアルテの姿を認識したと同時に無造作に火球を放った。

 彼にとってアルテも、自らに五月蠅くたかる虫となんら変わることのない有象無象であったから。

 火球は外れることなく真っすぐに直撃する。

 美しきダークエルフの女は炎につつまれて一瞬で燃えあがった。

 エルダードラゴンの炎はアルテごと大地を舐め尽くし地獄のような光景を作りだした。

 微かに灯ったエルフたちの希望は儚くも消されてしまう。

 幼きリオンは口を手で押さえて悲鳴をあげ、兵士たちはうつむき目を逸らし、悲痛な嘆きが一斉にこぼれた。


 だが、


 リ――ンっ。


 だが、音がした。


 リ――ンっ。

 

 風が爆発した!!


 次の瞬間、清浄な風が吹き荒れて炎はわずかな欠片も残らずに消え去った。

 兵士たちは目を見張る。

 そして暴風の中央に立つ者に目を向ける。

 それはダークエルフのアルテの仕業。

 どのようにしてかは不明だが、彼女はあれほどの炎を矢の一振りでかき消してしまったのだ。


 さらにアルテは、ねじれた弓を天にかざす。


 月光のように澄んだ声が広く広く響きわたる。

 途端に空間が震え、小さな体と透明な羽もつ風の精霊が次々と虚空から姿を現す。

 リオンと兵士たちはその神秘的な光景に茫然と、ただ魅了される。

 千を超える精霊の風羽が光り、夜の闇を、大地を星々のように瞬く照らしだしたのだ。

 アルテは城壁の前で、エルフの王が使役できる数以上の精霊を召喚した。

 呼びだされた精霊たちは軽やかに踊り舞い、笑いながらエルダードラゴンの横をすり抜けて、エルフの森を焼き尽くそうとする業火をその風羽で吹き消しあっという間に鎮火してしまう。


 役目を終え消えていく精霊たちを見送り、再びアルテが矢を振るう。


 すると空の暗雲が一片も残らずに消え、煌く星と美しい満月がその姿を現した。

 信じられない奇跡に見守っている者たちから大きなどよめきがあがる。

 偉業を成し遂げたアルテはやはり無言で、火球を受ける前となんら変らぬ体で立っていた。


 そして彼らが見る真の奇跡はこれからであった。

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