第21話 本
*
雨の音が聞こえる。足繫く道を急ぐ人々の足音も、道すがらの壁を傘の枝先が掠める耳障りな音も、全て、こゆる想いの内に吸い込まれていく。濡れた小指に導かれ、彼女がその角を曲がるなら、僕は重たくなった首を持ち上げ、君の笑顔を臨みたい。
忘れていた記憶の中で、幼い僕は待ち続ける。彼は彼女を迎えたか。あの時、確かにこの胸にあった、まだまだ熟れぬ心は、この意識を潜る先にあるような気がするのだ。押し込まれ抑え込まれ、忘れ去られる蓋をした、とこしえに灯るはずのもの。それなのに。頬をくすぐる雫の一筋が、僕を淵から絡みとってしまった。
「おーい。何泣いてんだよぉ。」
「…グレー・トーレンス…」
「グレーで良いってぇ。」
目じりを下げてにやにやと笑う彼が、僕―レイン・フォルディオの顔を覗き込んでいた。ソファに横たわる自らの身体は思いのほか重く、背もたれに両手をかけてよじ登るように起き上がる。全く失せていた警戒心が立ち込めて周囲の観察を促されるが、いずれの視界もグレーのおちょくり顔が邪魔をする。
「おい、邪魔なんだけど。」
「ハハッハ!ごめぇーん。で?なんで泣いてたぁ?」
「泣いて…?いや…なんでだろう…」
頬を拭った袖は、心当たりの無いままに確かに湿った。胸のつっぱりが確かにある。悪い夢でも見ていたのだ。僕はそう結論付けて「知らない」と答えた。
「レインだっけなぁ。さっき、お前にポーションを飲ませた。そのお代は払えるなぁ?」
「え?ポーション?なんで?」
「バカかぁ?あんなに無茶するからだろうがぁ。血反吐はいて床汚しながらぐーすか寝やがってぇ…」
ああ。僕は敗れたのだ。身に覚えのあるこの倦怠感はポーションによるものであるのは間違いない。昨晩にも同じようにポーションを飲ませてくれた双子の幼い獣人の顔が頭に浮かんだ。綿のような灰色の毛並みと、くりんとした真ん円おめめ。それだけに、彼らの口からフィリッツの名前が出たことを、未だに信じられずにいる。
「金はない…ごめん。」
「ハハッハ!ああぁ…そうだよなぁ。なら働いて返せぇ。そうだな…この家の地下室の奴隷たちの面倒を見ろぉ。用役不足になっちまってるからなぁ。丁度いい!」
明るくそう語ったグレーは、窓の外を見ていた。暗いのは、隣り合わせに壁を向ける建物のせいばかりでなく、既に陽が暮れているらしい。言動に反してその横顔は、誰かを惜しむ哀悼の面持ちだった。人不足の理由を聞こうとして、彼らがフィリッツを探す理由を思い出して止めた。
「僕も、フィリッツを探さなきゃいけないんだ。そんなことをしている暇はないよ。」
「んぅ?いやいや。地下室に籠もって奴隷の世話ってわけでもねえよぉ。連れ歩いてほしいのさぁ。運動不足は品質ダウンだからさぁ。お分かり?」
「つまり、外で何をしていようが良いと。」
「奴隷連れて逃げんなよぉ?」
分かったことは、ホテル・リゾートは奴隷売買も行っているということだ。その商売に手を貸すのは、良心が傷むというもの。だが、誰かが世話をするくらいなら僕が心を込めて接する方が、奴隷のためにもなるのではないだろうか。
思考が一巡したところで、彼に頷き返して承諾の意志を伝えた。
段差のある石の階段を十数段降りれば、前へ伸びる一本道の左右に牢をズラリと並べた部屋に通じていた。壁に掛けられたランプから蝋のにおいがただよい、石壁の湿った感触と温度差を感じる。
「今はほとんど売られちまって。アレしか残ってねえのさぁ。」
グレーが指さしたのは、最奥の牢屋の中でひとり力なく座っている女の子だった。歳は僕よりも5つばかり下だろうか。随分とやつれており、伸びたままの髪が不潔な印象を強めている。ひとつ気を引いたのは、彼女は奴隷に珍しく眼鏡をかけているところだ。
「…グレー。その男見ないです。誰です?」
「コイツはレインだ。お前の新しい世話係。」
「あのポンチキは死んだですか?」
「―お前はいつも、自分の目の前から居なくなった人間を死んだと言うな。ああ!死んだよ!今回ばかりは当たりだぁ…ちっ、気分が悪い。おら、レイン、牢の鍵とそいつの生活費だ。あとは頼むぞ。ちゃんとやんなきゃ地の果てまで追って皮剥ぐからなぁ。」
グレーは僕に目線も合わさず、鍵と金貨の入った小袋を握らせて階段を昇っていく。見送りはいらないと語るように足早と去る彼を背に、僕は彼女と牢越しで向き合った。
「名前は?」
「ヌイです。ヌイはグレーを怒らせたですか?」
「いや、元から気が立っていたのさ。気にするなよ。」
「ふーん。まあいいです。ところでお兄さんの剣、随分汚い汚いですね。近づけないでほしいです。」
「え?そうかな…?っていうか、そんな身なりの人に言われたくないんだけど。」
彼女は口と鼻を抑えて僕から距離を取るような仕草をとる。アンデッドを斬った後もしっかりと洗ったはずだが。見たところ目立った汚れもないので、彼女なりのちょっかいであると認識した。
「とりあえず、外に行かないか?その髪も何とかしてあげたいし。」
微妙に身体を左右に揺すっていた彼女は、背筋を伸ばすと同じくぴたりとその動きを止める。余程お気に召す提案だったらしい。目を丸くして口元を僅かに震わせているのは、溢れる笑みを必死にこらえていることに違いない。
「ふほ…ほほん、ど、どういう風の吹き回しですか?怪しいです。実に怪しいです。これは調査が必要です。行くです。すぐ!行くですよ!」
「ははは。じゃあ今、鍵を開けるからね。」
鍵を開けて彼女に手を差し出して牢から引っ張り出す。「あっ」という声を出してしまうくらいに、彼女の身体は軽かった。細い腕は骨と皮だけのようで、力を加えれば簡単に折れてしまいそう。脆い手足で動き歩く姿は、まるで骨格だけの人形を辛うじて立たせることができたみたい。背はグレーほどだが、その見た目が影響してか彼よりもずっと小さく見える。
「ちょっと目が眩むです。うう、急に立ち上がるのは海底からの浮上に同じ、です。」
「あ、ああ。ごめんごめん。大丈夫かな?」
「なんだか嫌に優しいお兄ちゃんですね。下心でもあるですか?」
「ねえよ…」
良心をコケにされた気分になりかけたが、これはおそらく彼女なりの冗談。年上はそれに懲りず、余裕をもって接するが当然である。
「ん。その本は?」
話題のすり替えに相応しく、彼女は表紙の題名すら擦れて読めなくなった本を持っていた。ページは傷み、所々が折れていたり破けていたりしているようで、それがいつも彼女と共に在ってきたような印象を与えて、今の彼女自身をその本が表しているような、一抹の哀愁を汲み取ってしまう。
変わらず虚ろな目で、彼女は本を大切そうに抱えて言った。
「お姉ちゃんの本です。お姉ちゃんが書いてくれたです。本当のことが書かれているです。これを読めば、ヌイはヌイのまま変わらずヌイなのです。」
「……そうなんだ…」
優しくささやく吐息のような口調に、僕は返す言葉に迷った。
それは、彼女のアイデンティティの源泉がそこにあるのだ、と、直感的に聞き取れるほど、彼女のその本に寄せる信頼と想いがその言葉の言葉尻に詰まっていたからだ。それに対し、安易な理解も共感も、彼女に対しては無礼でしかない。
「ええっと。ヌイさん。とりあえず、行こうか。」
「ははあ。お兄ちゃんの顔、今すごく変です。変なこと考えてるですか?さっさと行くです。」
相変わらずのおちょくりっぷりに僕は困惑しながらも、はいはい、と彼女を連れて階段を上がる。とりあえずは、口約束通り彼女の身なりを整えて、それから食事もとらせてあげて。それから、何をすればいいだろう。身体を少し動かせた方が良いだろうか。
フィリッツを探す片手間にできることを考えながら、僕は彼女の手を引いて地下牢を後にした。
*
四角いガラスの中でめらめらと燃える外灯が、道の両端にいくつも並んでいる。レンガの敷き詰められた道と、上品な曲線を意識した三角の屋根を乗せる家々は、豊かさを強調している。俺―ロウ・フォルディオは荒野を抜け、帝都へと戻った。この女、マリー・フォールと共に。
「んで。なんで荒野なんかに居たんだ。マリーさん?」
ハイウェナーの群れをなんとか潜り抜け、俺と彼女は噛まれ痕を『ヒィール』で癒しながら街道を歩く。彼女は毛先のうねりを指でなぞりながら苦笑いを浮かべており、ここに至るまでも終始食えない様子だった。
「あははー。いやさあ。欲しい本がウェスピンに流れた噂を聞いて、帝都からすっ飛んで行ったものの、時既に遅し!翻訳家のおじいさんに買われてて、しかもそのおじいさん火事で亡くなった挙句、本も燃えちゃったんだってさ!」
「はぁ…俺は荒野に居た理由を聞いてんだよ。お前さんの旅の経過じゃなくて。」
「いやいや、話はここからだよ!それで仕方なく馬車で帝都に帰ろうと思ったら…見ちゃったんだよね。」
彼女が俯き立ち止まり、俺も立ち止まる。彼女の肩が上下に揺れ始め、同時に「フェ、フェフェフェ」と、薄気味悪い笑い声を漏らし始めるものだから、俺は足に力をこめて逃げる準備をした。
「…何を見た?」
「もちろん…『レコウル』の反応だよ…!『ハイドゥ』!」
「何ぃ!?」
右の口角を吊り上げ、開きかけた瞳孔で俺を見つめ笑いながら、彼女の姿は消えていく。夜の『ハイドゥ』は闇討ちに使われる魔法の筆頭。『暗いこと』と『光があること』が発動の条件。その身を光の『陰』に隠すもの。
俺は逃げた。地面を強く蹴り飛ばす。あの女は得体が知れない。『ハイドゥ』を知っていることも、あの不快な笑い声も。
「逃がさない!」
「ゲッ」
突如、どこから放られたか横掛けのカバンが俺の足元に絡まった。紛れもなく、あの女のものだった。情けないことに、受け身も最低限しか取れずに、俺はカバンの中に入っていた本と共に地面に転がってしまうではないか。
「いってぇな…ぐぇっ」
何か重いものがうつ伏せの俺の背中に乗っかった。「重い!」と正直な感想を述べると、その何かは「やかましいわ!」と俺の頭を叩いた。
「何しやがる…!」
『ハイドゥ』が切れ、俺の背に跨るマリーの姿が現れる。相変わらずの表情で気色の悪い笑い声を漏らし、俺の頭を指先で突いた。
「なかなかレディの扱い方を分かっているようね…?反撃すらしないなんて。フェフェフェ。」
「街のど真ん中で男に跨っといて何がレディだよ全く…目的はなんだってんだ?」
「『レコウル』を取材させなさい!」
「はっ、そいつはムリな相談…って、ん?取材?」
取材。
口元で何度か呟いてその意味を思い出させる。取材といえば、観察したり質問したり、そんな感じだったはず。
「レコウルの…使い方を教えろ、ではなく?」
「ええ。取材。」
「取材って、見たり聞いたりする?」
「ええ。取材。」
「取材?」
「ええ。取材。」
なんだそれは。しかしそんなことを頼むために『ハイドゥ』まで使って俺を捕まえたのか。この女の思考が知れない。思考の知れない女は散らばった本を拾いながら得意気に話す。
「取材して、本のコラムにする!古代魔法の使い手がどんな人間で、どんな使い方をしているのか。どうやって使い方を知ったのか…とか。すごく楽しいエピソードになるはず!絶対人気出るわ!絶対よ!ぜっ・た・い!」
古代魔法は珍しいのは確かだ。口伝のみで後世に伝わっており、その使い方・概念を文章にするのは難しく、失われたものも数多くあるという。魔法に精通した者ならば誰もが一度は、古代魔法という響きにロマンを感じるものだろう。確かに、使い手の特集は需要があるのかもしれない。
「…やだね。」
「え!?なんでよ!?あ、お金なら出すわよ。純利の5%ぐらいかなーって」
「断る。」
「ああーっ、ごめん!ごめん!10%!いや、15%!」
「金の話じゃねえよ。俺は有名になるわけにはいかねえんだ。」
レインの親父の消息隠しにレコウルを使った経緯もある。何より、『勇者が生きている』という情報だけは勘付かれるわけにはいかないのだ。似顔絵であっても、勇者に似た人間がいる、ということを大勢が認識するのは、怖い。
「うう…なら、匿名ならどう?」
「くどい。こちとら世界を救わなきゃならねえんだよ。」
「…んん?顔がマジだね。ちょっとそれ面白いな。聞かせてもらえる?」
彼女は俺の背からようやく退いて、俺に手を差し出してくる。謝りもしないところがいけ好かないので、手を無視して自分で立とうとすると、彼女は俺の肩を無理やり引っ張り上げて立たせた。気が強いというか、押しつけがましいというか。赤い眼鏡が知的な印象を与えておいて、存外主張がうるさい。
「信じねえだろどうせ。」
「ふっふーん。あたしにとっては、ホントか嘘かよりも面白いかどうかが全てなんだよねぇ。」
「ほお…確かにお前さんはそういうきらいがありそうだ。まあ、いい。なら着いてこい。」
嘘を吐くつもりだ。
詳しくは聞いていないが、話の流れから察するにジャーナリスト。うまく言いくるめて、帝政の不信感を彼女の中に芽吹かせれば上等。そうでなくとも、真実の追及を名目に彼女に帝国の裏を嗅ぎまわってもらえればよい。
思わぬ拾い物をしたのかもしれない。大胆なところもあるが、またそれが打ってつけの役回りではないか。
俺は内心ほくそ笑みながら、レインの屋敷に彼女を案内した。
槍となれ。 殿代 海 @Tonomy
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