第20話 魔獣

  *


 ああ、決まったな。

 周囲の男たちの誰もがそう見做した。グレー・トーレンスの肘は伸びきっていたからだ。拳は肉と臓器を圧縮すべく、重い拳圧を僕―レイン・フォルディオの鳩尾に送り込んだ。体内のあらゆる血管が血液を逆流させたかと思う程に、衝撃の余波が全身を駆け巡る。その余韻の最中で身体をよじらせることもままならないほどに真芯をとらえていたのである。

 温かい感覚と冷たい感覚が指先から交錯して。せり上がる胃の内容物を押しとどめるには吸う息も吐く息も見当たらない。両手が足元の床に立とうとも、その床の擦れた木目の感触すらも遅れてやってくるほどに、全身は混乱するのだ。


「おい。いくらなんでもぉ。そりゃあないでしょおぉー?何に自信があってここまで来たぁ!?何がしたくてここまで来たぁ!?ぼっちゃぁーん、レインぼっちゃぁーん。お帰れよ。お帰れ!!」


目を見開いてそう叫んだグレーは舌を出して腹からの大笑いだ。周囲の男たちも呆れたふうに乾いた嘲笑を僕に浴びせる。それに応えるように咳込む僕も、なんと情けないことか―灸を据えるべきである。無論、僕の単純な弱さに。


「つう…かく。しゃだん」

「あ?なんだって?」


既にある痛みからは逃れられないが。せめて、これから起こる無理をツケにして、彼に僕を認めさせたくなったのだ。ホテル・リゾートの協力を得たいからではなく。そうすることでしか、僕の『男』というやつは、一生陰で寝ているだけだ。


「うおお」

「まだやれんのか!無理無理ぃー!ほれっ」


視界が無理やりに左へ飛ばされる。右の頬を潰す衝撃は、左へ逃げるイメージだ。これがココロ魔導書の極意。反発を殺し、全てを時の経つ前の自分へ置き去りにする感覚。続けて迫る連撃その全てを受けながらに強固な前進は終わらない。


「と、止まんね…ちぃ」


怯みなく、後退もなく。移る足の運びに任せて手を振るう。グレーはその体躯を屈み翻し避けようとしても、もはやそれの叶う距離ではない。彼を下がらせることへの僅かな快感に手応えを感じつつも、その実 冷静な頭が思い出した。剣の振り方を。拳も同じく、充実した一撃というものがあるのではないか。

 体重を乗せること、身体の全身で振るうこと。息遣いや重心の運び。これを今ここでできやしないか。それが拳であっても、おそらく理屈は同じ。


「我慢ならねえ!」


再び襲い掛かる彼の一撃を眉間に受けつつも、天井を仰いで勢いを逃がす。踵に重心が乗った変な体勢だったが、両足の位置は悪くなかった。親指を握り込んで手を丸める。人を殴ることに抵抗がないわけではないが、今は彼に一泡を吹かせたかった。

 左足を横へと踏みこんで、振りかぶりに肩を突っ張り、奥歯を軋ませる。肺が引き伸ばされて喉が空気を吸った。彼は突然の大仰な振りかぶりを目にし、後ろへ仰け反ってはいるが今更避けられまい。

 気は練られた。


「うぐぉっ」


肘が伸びきった。彼の首から上を吹き飛ばせるような気さえした僕の渾身の一撃は、彼の頬を強く凹ませ弾き飛ばした。彼は床に転がり込む。そして、直ちに膝をついて起き上がり、腫れた頬を露わにして僕を睨む。

 そして、笑うのだ。


「いいパンチをもらったよぉ…。だがな、俺はただのマフィアじゃねえぞ…俺はボスとママの子だからなあ!トーレンスの血は、俺たちの世代が最強ォ!『ヒィール』!」

「か、回復魔法…!?」


彼の頬はその赤みも熱も形も全てが元通りとなる。アンデッドによる腐敗直後の回復ならまだしも、鼻っ柱をへし折るような通常の痛手を忽ちに治すなど、こんな馬鹿なことがあるだろうか。回復魔法はそんなにも便利なものではない。


「ハハッハ!驚いているなあ!?そうさ…普通は回復魔法といやあ、1日かけて傷ひとつ治すのが精いっぱいよぉ。だがなぁ、血が違ぇのさ。知ってるか?魔力は血だ!回復魔法の真祖の血がトーレンス家!そしてママの、とある魔法に特化した希有な血によってこの脅威的な回復力を誇る…」

「語るに多すぎやしないか?」


立ち上がる彼に、再度の攻めを試みる。時間が惜しいのだ。痛覚遮断の有効時間は僅か。僕の魔力の問題か、練度の問題かは分からないが、集中の途切れと共にそれはやってくる。それまでに、決着をつけなくてはならない。

 しかし。


「ハハッハ!いいぜぇ…お前が全部受けるなら、俺も全部受けるよぉ。『ヒィール』!『ヒィール』!ハハッハァ!」


長期戦は必至。彼の拳と僕の拳は交差することがなくとも、応酬は絶え間なく続けられた。

 怪腕のグラッチェと遭遇した際に、ウィナーが口走ったことを思い出す。『まさかコイツが若と三日三晩ド突き合ったっていうグラッチェだったとは』―恐れるべきはあのグラッチェでは無かった。


「はぁ、はぁ、…くそっ」

「ハハッハ…もう終わりかぁ…?こちとら、飯が我慢できる間なら何億回でも立ち上がってやるよぉ…!」


圧倒的しぶとさ。回復力。そして胆力。何度ぶつとも立ち上がり、彼の魔力の底すら見えない。少なくとも、こちらは限界が近い。

 勝機があったとすれば、最初の一発だけだったのだ。彼が本気になる前に、一撃の内に彼の意識を奪わなくてはならなかったのだ。悔やまれる。あのグラッチェと渡り合える実力という認識があれば、まだ結果は違ったのかもしれない。


「ぅ」


限界が来てしまった、と、瞬時に察した。それは急激に広がる、身体中に打ち込まれた痛みの楔によるものだ。だがせめて、せめてあと一撃。それを見舞ってからまた、次の活路を。

 戻り染み渡る細部の感触の中で、伸ばした指先が掠めた布の質感だけが顕著に思えた。それは、僕の目の前に立ちはだかるグレー・トーレンスの白いボトムを撫でたものだと、消えゆく意識の中でただひとつ分かったことだった。



  *

 荒野の夜は風が涼しく、時折足元の砂が吹かれて擦れ合うチリチリとした音が微かに聞こえる。縦半分に割れた月の下に、山々を小さく見せる巨大な箱の影がある。あれは帝都だ。周囲をぐるりと円く囲んだ壁が、そう見せているのだ。

 ロウ・ビストリオは夜目を利かせ、その形を眺めていた。111年前のことを思い出しながら、全ての始まりと終わりがあったその街を遠くに見据えて。今や遥か昔に消えた仲間達の影がそこにあるような気がしていたのだ。


「魔法、魔物、魔族、魔王…一体、それらはなんだ?」


信じてきたものが裏切られたのは、国王が人で無かった事実を知った時だ。常識はあった、王国に。今や帝都に。しかしそれは真実ではないという。であれば、自らが見て回ったものだけが紛れもない真実。

 魔王は死んだ。殺した。あの巨躯、赤い眼、鋭い牙、全てを覚えている。だがそれは、魔王を名乗る魔族のひとつに他ならない。魔族とは、どこに生き、何をもって人を殺すのか。魔王城だけが彼らの住処と教わってきたが、この国自体が彼らの隠れ蓑であるという。


「魔族が人に化けるなんて、聞いたことも無かったよなぁ。いや、そもそも国王は人じゃなかっただけで、魔族だとは言い切れない?…俺は世界を知らなすぎる…」


アルマロンの血が槍の穂先で黒く凝固している。砥石で研いで誤魔化してはいるが、そろそろ柄の部分も劣化が激しい。装飾品の槍でもよく保った方だ。

 アルマロンの巣は、たったひとつを残してアッピラ荒野から消えた。巣は巨岩で蓋をし、アルマロンの死骸は血抜きの後にその巣の奥へ隠している。古代魔法『レコウル』で魔物の残り香も魔力ごと取り払っているため、死骸を漁りに来る他の魔物もいないだろう。


「一度戻るか…帝都に。」


居ても立っても居られなくなった。目の前に仇敵が居る。喉から手が出るほどに、それを殺したい衝動がある。せめて、奴に近付ける手段を見出さなくては。


「おっかしーわね。誰かいるの?ねえーったらー!」


ロウの反応は素早かった。瞬時に付近の岩陰に身を滑り込ませる。ひとつの足音も立てず忍ぶ姿はまるで豹のようだ。槍を軽く構え、声の方へ意識を向ける。

 女だ。重そうな横掛けのカバンを携え、長いクセのある髪を揺らす女。赤い眼鏡の奥から目を凝らし周囲を観察している。とてもじゃないが冒険者にも見えないただの一般人だ。しかし、こんな道の外れた荒野にひとりで迷い込むとは、どうにも不審だ。ロウは耳をそばだたせて様子を窺う。


「んんー…気のせいなのかなあ…。確かに感じたんだけどな、レコウル…。」

(今レコウルっつったか。古代魔法を知っているとは、珍しい奴だな…ん?感じたってのはどういうことだ…)


彼女がそう呟いて踵を返そうとした時だった。

 小石を蹴り、砂を蹴り、荒い息遣いと共に駆ける小さく軽快な足音が聞こえ始めた。四足のまばらなそれらは似通いながらも、複数の個体によるものであると認識できるほどに近づいてくる。

 魔獣だ。彼女の後方で、時折月光を受けて煌めかせる眼が数個。


「え、うわ、まさか、ハイウェナーの群れ?ちょちょ、ちょっと、どどどど、どうしよう!」


3頭のハイウェナーが彼女を取り囲むのに、そう時間はかからなかった。荒野の砂色に灰色の斑点がいくつかまぶされた毛並みをうねらせ、彼女の周囲で間合いを計り始める。

 ハイウェナーは肉食で四足歩行の魔物だ。活動は主に夜。ノコギリのような歯で獲物に噛みつき、生き血をすすって絶命させてから捕食を行う。目が利く代わりに鼻が利かないが、補ってあまりある視力により遠くの獲物を見つける能力に長けている。


(つがいにその子どもか。少しばかり様子を見るか…)


 ロウは槍を握り、いつでも岩陰より飛び出す構えを取るも、静観を決め込む。彼女は横かけのカバンを肩から外して振り回す準備をする。慌てるような様子ながらも肝が据わっているのは震えない足と目つきで分かる。ただの女には見えない。しかし、万事休すといったところなのだろう。ハイウェナーの間合いの侵攻には抵抗できないようだ。


「く、ううう!よりによってハイウェナー…!ええい!魔法よ!『ハイドゥ』!」


(げ!)


詠唱の後には音もなく、光もなく。影だけを残し、彼女は水面に揺らめく現身にように輪郭を闇夜へと溶かす。『ハイドゥ』は光無いところへと逃れる影の魔法。月明かりの下では完全な闇への擬態は難しいが、魔物の目は誤魔化せる。―ハイウェナーを除いて。

 彼らは彼女を見失わない。その目はあらゆる色の境界を探し当てる。それがたとえ、黒と黒であったとしても。

 距離を縮め、目を凝らす。その内の一頭が見出した。

 そう、少し離れた岩陰からこちらを覗く、身の引き締まった男の姿を―


「だぁぁあくそ!見つかっちまったじゃねえかぁ!」


身の丈ほどある槍を、手首のスナップだけでハイウェナーの一頭に投じる。微動ださせない内にその眼球を貫いた槍を、跳躍にて一足に追いかけすがれば、槍を引き抜くと共に頭蓋を踏みつけ砕いた。異常事態に遠吠えをすべく息を吸うハイウェナーがそばにいる。吸い込ませるように槍は喉を通し首をつんざく。逃げるべく後ろ足で土を蹴る二足が一間の内にあった。腱を目視するや否やそこに槍の穂先が薙がれる―そこに迷いも躊躇もない。

 しかし。槍を振るう腕はまるで弦が張られたかのように突然に静止し、槍は手からこぼれ土の上に転がった。金属の空洞に響く、耳当たりの良い音だった。ハイウェナーはそれを立ち止まって聞くもせず、荒野の地平へ走っていった。


「邪魔だぜ。お姉さん。」

「…よく、止めたわね。」

「反射だ。」


槍を落としたのは、彼女がロウとハイウェナーの間に割って入っていたからだ。勇者の枷に阻まれたか救われたか。『ハイドゥ』の効果が切れ、彼女がロウの目の前に姿を現す。転がる槍は、彼女の黒いスニーカーに当たり止まった。


「何のつもりだ。ハイウェナーはてめえの飼い犬だったか?」

「ははん…主人を噛まない犬ならそれでもいいけれど。無駄な殺生はどうかと思ったのよ。あの子、まだ子どもみたいだし、それに戦意も失せてた。違う?」

「いや、いや。安い挑発だぜ。俺の返しは分かってるな?」

「…ええ、ええ。魔物を生かしたことで、いつかそいつに誰かが食い殺されるかも、でしょう?」

「いや。大ハズレだ。」


ロウは呆れた顔で、彼女の背後を指さした。遠方、暗路に膨れる砂ぼこり。仇討ち上等と群がる魔獣。ハイウェナーは軍団となって帰って来る。


「…え?いやその展開は聞いてない。」

「バカ素人が!カッコつけて庇ってんじゃねえよ!俺は帰る!」

「ちょちょちょ、ちょっと待ってごめんごめんてごめんなさい!帰らないで!お願いだからひとりにしないでぇえ」

「あ!てめえこら!離せ!俺は人に力を振るえねえんだよ!」


そうこうしているうちに、ハイウェナーはその数で三重にロウと彼女を取り囲む。威嚇せんと唸り声を喉の内に鳴らし、牙をちらつかせては一歩を―


「…俺の間合いに入るのか?」


踏み出さない。ハイウェナーの足は杭を打たれているかのように、その地からその足先を離すことは叶わない。ロウの殺気は生物の本能に突き刺さる。一点の隙もなし。それが女を背に置き四面を敵で埋めようとも。


「おい。女。目を瞑れ。」

「え?」

「…『フラッシ』」


予備動作は一切なし。眩い閃光がロウの頭上で、荒地の端で瞬いた。突然の目くらましにハイウェナー達は怯み、控える。


「ったく、手間かかせやがって…」

「えっ?ちょっ」


その瞬間に、彼女を両手に抱きかかえ、ロウは跳んだ。

 土を抉り、砂を巻き上げる力いっぱいの跳躍。ハイウェナーを見下ろし、ロウはニヤリと笑う。彼女は突然の出来事にどのような感情を抱いてか、強く目をつむりロウにしがみ付く細い腕に力を込めた。

 一瞬の浮遊感と肌を撫ぜる空気の心地よさを経て。

 やがて、着地する。一枚の紙が地に落ちるかのような軽やかな足取りで。


 …


ハイウェナーの群れの中央に。


「全ッ然ッ!跳べてなああああいッ!!」

「うるせえ!!耳元で叫ぶんじゃねえ!!お前のカバンが重すぎるんだよぉお!!」

「ああああああああ!来る来るハイウェナー来る来る」

「うがああああああ」


彼女を背負い、槍を振り回し、ハイウェナーを薙ぎ飛ばし薙ぎ飛ばし、道なき道を噛みつかれながらも必死に歩く宵の更け。ロウは名も知らぬ彼女助けながら、荒野をひとまず後にして帝都へと向かうのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る