第12話 双子
*
十数年前の話だ。
義理の父―イワン・フォルディオは、世間体を重んじていた。
帝都では珍しく、雪の積もった夜。
僕は帝都にある教会に併設された孤児院から。リリーシャは帝都の南西に広がるスラムに根を張る奴隷商から。
見知らぬ大人にそれぞれ手を引かれる二人は、やがて足跡の無い真っ白な道で出会い、向かい合った。
「今日から君たちはここで暮らすのだ。」
二人の手を引く、どちらかの大人がそう言った。
大人たちが見上げた先には、絵本で見るような広い庭と大きなお屋敷があり、不安でいっぱいだった僕たちは思わず声を上げたのだった。
屋敷の玄関に僕たちを置いて去る、顔も知らぬ二人の大人。
そんなことは気にならないほどに、屋敷の中は未知で溢れていた。大きな中央階段と、所狭しと飾られている絵や壺。
入って良いのだろうか。
顎が外れただけのような口の開け方で驚いている女の子が面白く、僕は指を指して笑いそうになったが、自らの口が乾いていることに気が付いて、僕もまた口をそのように開けていたのだと分かった。
「ようやく来たか。」
階段の上にまた、見知らぬ大人が現れた。
嫌な感じは既にあった。だが、この未知な屋敷から直ちに追い出されることの方が嫌だと思った。そのため、コツコツとゆっくり靴音を鳴らして階段を下るその大人を前にしても、僕たちは一歩も退きはしなかった。
「君は今日から私の息子だ。」
そう言って男は僕の右頬に手を添えた。
「お前は今日から私の奴隷だ。」
そう言って男は彼女の頭に手を載せた。
言っている意味はいまいちよく分からなかったが、僕たちを迎え入れようとしてしていることだけは分かり、安堵した。
「リリーシャ、だったか。早速、契約に取り掛かろうか…いや、その前にシャワーを浴びて来い。臭うぞ。それから、レイン。君は好きにしていて、いい。屋敷でも探検しなさい。ただし、物には触れるな。ドアの閉まっている部屋には、入るな。」
そう言って男は、彼女を連れて屋敷のどこかへ消えていく。
探検。良い響きだった。
僕は喜々として屋敷の中を走り回った。
そのうちに、約束ごとなどいつの間にか忘れてしまった。
屋敷の内装は、子どもながらにどれも豪華で派手だと分かった。教会にはこんなピカピカした角のあるタンスも椅子も机も無かった。ピカピカしているのはお金持ちの証拠だと、何かの絵本で読んだ気がする。
「?」
ただし、僕が今訪れたこの部屋は、そうではなかった。
星が線で床に描かれていたり、読みかけの本がいくつも机に置いてあった。教会の図書室にあるような本よりも難しそうで、文字の読めない僕にとってはその光景そのものから異質な様子を感じ取った。
僕は開けたドアをゆっくりと閉じる。部屋に差し込んでいた廊下のランプの僅かな光が、細くなって消えた。
中は真っ暗だ。次第に慣れてくる目を頼りに、部屋の中をじっくりと見渡す。
ふと、机に手のひらに収まるくらいのガラスの小瓶が置いてあることに気付いた。簡単にコルクで栓がされており、部屋が暗いせいか中身は良く見えない。
好奇心の矛先は最初に、コルクへ向かった。ゴツゴツした見た目に反して、少し柔らかい感覚がこれまた面白い。思い切り力を入れて引っ張ると、スポンと音を立ててとれた。
手のひらに小瓶の口を向けて、ひっくり返す。
ふわり、と。誰かの髪の毛が一本だけ出てきた。
じっと見つめてみる。
なんてことはない。ただの髪の毛だ。
「…あっ」
顔を近づけすぎたのだ。
鼻息に煽られてか、髪の毛が手から零れ落ちてしまう。
慌てて足元を探したが、この暗い部屋では探しようがない。
仕方ないので、僕は自分の髪の毛を代わりに入れて栓をし、元の位置へ瓶を戻しておいた。
「レイン。」
どこからかあの大人が呼ぶ声がする。
いかなくては。
僕は部屋を後にした。
この記憶を思い出したのは、ドリアが誰も知らなかった秘密を暴いた時。
*
「僕が…リリーの…主人だというのか。」
ドリアから告げられた真実は、全く身に覚えのないものだった。
確かに、彼女が僕に逆らったことは一度も無かった。でもそれは、彼女と僕の信頼関係に拠るものであり、決して奴隷契約などではないはず。
奴隷契約は魔法の一種だ。少なくとも主人である自覚を持たなくては、その効果は発動しない。ゆえに、一度たりとも僕は主人として彼女に命令はしていないことになる。
いや、問題はそこじゃない。
父は主人ではなかった。父と彼女の間に奴隷契約は無かった。奴隷契約を結んでいたのは僕と彼女だったのだ。だが、彼女は父に奴隷として従っていた。なぜだ。従順だったからか。奴隷の意味を理解していたからか。
どれでもないだろう。幼いころに連れてこられた僕たちは、それを認識するほどの頭脳は持ち合わせていなかった。
で、あれば。
何で言うことを聞かせるのか。
「じゃあ…まさか。リリーがあそこまで執拗な暴力を受けていたのは…」
奴隷契約が無かったから。
言うことを聞かせる魔法が無かったから。
無かったのはなぜ?
「僕が」
髪の毛。
「僕のせいで…」
ガラスの小瓶。閉まったドア。髪の毛。
「僕のせいだったのか…」
線で書かれた星。コルクの感触。雪にできた足跡。知らない大人。豪華な装飾。シャワー。ガラスの小瓶。閉まったドア。髪の毛。髪の毛。髪の毛。髪の毛。髪の毛。髪の毛。
髪の毛。
髪の毛は、奴隷契約に使う素材だったのだ。奴隷契約において主人を指定するための、重要な鍵。
僕はその父の髪の毛を、自分のものにすり替えてしまった。
僕とリリーシャが屋敷にやってきたあの日。僕のつまらない好奇心が、彼女の人生を変えてしまったのだ。
ああ。僕は罪深い。結局、全て僕のせいだったんだ。
僕がそんなことをしなければ、義父は従順な奴隷を手に入れ、さぞかし満足しただろう。
少なくとも、思い通りにならない奴隷に暴力を振るい、それが癖になるようなことも無かったに違いない。
違いない。
ああ…
僕はいつの間にか真っ暗になっていた世界の中で、ただひたすら懺悔を繰り返した。
*
「気が付きましたかね。」
ああ、気が付いたよ自分の罪に。
「いや、普通に。目が覚めたかという意味なんですがね。」
うん。僕が悪かった。
「そういう意味じゃないんですがねー!!」
バシッ
右頬に走った衝撃に呼び起こされて目を開くと、ドリアの吊り上がった口角とランプのぶら下がった木目の天井があった。
「気が付きましたかね???」
「あ…はい。」
かけられていた毛布をどけて起き上がる。
固めのソファに、本が積まれた机。大事そうにガラスのケースへ仕舞われている大きな水晶。壁の向こうから聞こえる喧噪。
ああ、ここはギルドのスタッフルームか何かなのだろうと察した。
どうやら僕はあのショックで倒れてしまったらしい。あれを思い出すと、ああ、まだクラリとくるほどには衝撃的な事実だ。
リリーシャの奴隷契約の相手は僕。
そしてリリーシャの苦しみの元凶を生み出したのも、僕。
顔向けできないな、そう思う。ただし、これをリリーシャの前で口にしてしまったら、どうなるのだろう。
僕を恨む。これくらいならいい。
そうだ。あの事故。義父を死なせたあの事故のことはどうなる。あれは、リリーシャが義父と奴隷契約を結んでいた前提の話で、事故と言い張った。奴隷契約を結ぶと、その相手に殺意を持つことができないからだ。
だが、僕の父とリリーシャの間には奴隷契約は無かった。前提は覆る。リリーシャには、瞬間的に殺害の故意があったかもしれない、という話になる。
言えるかよ。そんなこと。
リリーシャをただの人殺しにさせるわけにはいかない。少なくとも、殺意をもって人を殺すことに対し、明確な意思と正義と覚悟を持たぬうちは、あってはならない。
それまでは、僕も彼女もただの人なのだから。
「すみません。ご迷惑をおかけしました。それで…リリーの件ですが…」
「ん。黙っておきますかね。赤の他人の私には身に余るお話のようなので。」
彼女はそう言って、水を一杯差し出した。
いつもながらの似顔絵を張り付けたような表情だが、隣に寄り添って悩み事に耳を傾ける先生のような優しさを感じる。
「でも、そこ以外にお話が。レインさんの奴隷魔法に対する練度が高い数値でしたかね。皆さんの前では黙っていましたがね。」
「ああ、それは…僕の研究対象ですから。」
水をぐいっと飲み干し、空になったコップをドリアに手渡す。
「それから、お名前。リリーシャさんはフルネームが水晶に表示されないですかね。これはおそらく、奴隷契約の影響かと…。」
リリーシャ・フォルディオとドリアは咄嗟に読み上げたことを思い出す。あの時は驚いたのと、なんだか照れ臭かったのと。
「あの時は機転を効かせてもらって助かりました。姉弟というのは…実際の感覚にも、近かったので。」
「いえいえ、あれくらいはプライバシーを暴く手続き上、当然の配慮ですかね。さて。私から申し上げる問題はひとつですかね。リリーシャさんは今、奴隷契約により身体能力が下がっているのですがね。これを解くには、ずばり奴隷契約を破棄する他ないですかね。」
「ああ。分かっている。」
簡単なようで難しい。
まず、奴隷契約がどのようにして結ばれたのか知っていなくてはならない。魔法の構造を理解しなくては発動ができないことと同じく、契約の構造を組み立てられたところから理解しなくては契約破棄ができないのだ。屋敷にはその資料が残されていなかった。
そのため、僕が今までやってきたことと同じ方針をとる他ない。
それは、第三者が強制的に奴隷契約を破棄させる方法を探すこと。父が死に、無意味となって投げ出した研究は、またその意義を蘇らせた。
研究を進める―そのためには、金が必要。資材も必要。魔物の素材だって使うことになる。
「冒険者か。ぴったりだな。」
必要なものがどれも手に入るであろう冒険者。これほどぴったりな職業はない。
いずれロウの思惑通り、反乱を起こすことができれば僕たちは最前線で戦うことになるだろう。
そうなったとき、奴隷契約という枷が彼女の命をどれほど危険にさらすことになるのか、測り得るではない。
「早速だけど、依頼を受けたいんです。紹介してください、ドリアさん。」
「んん。倒れてようやく目が覚めたと思ったら突然ですかね。しかし、良いでしょう。レインさんができそうなものを見繕って差し上げますかね!」
清掃、市場調査、魔物の討伐、などなど。
数時間でできるものもあれば1日2日かかるものなど、手当たり次第の紹介をもらった。
幸い、若手の冒険者の人員不足で簡単な依頼が消化できていないらしく、運が良かった。
何より、身体を動かすことは気が紛れるだろう。僕の過ちは、この秘密は、墓まで持っていくことにした。
今は、彼女にかかっている奴隷契約を解除することだけに力を注ぐべきなのだ。これは彼女の命に関わることなのだから。
僕の過ちのせいで、義父から暴力を受けただけでなく戦火で命を落としたとあれば、悔やみきれるものではない。
そのための冒険者。そのための仕事だ。
軽く夕飯を食べ、ギルドの外へ出る。既に陽は沈みかけ、街道も帰路に就いた人々が行き交うだけとなっている。
昼間のように立ち話に花を咲かせる者も、新商品を呼び込む者もいない。
寝床はギルドの宿をとってある。心配ない。夜は町の外で魔物相手に稽古でもしようと決めていたため、門を目指す。
「お、兄ちゃん!この間はあんがとな!」
あれ、どこかで聞いた声だな。街路の石畳みに散らばる僅かな砂利を踏みにじる音と共に、僕は振り返った。
武器屋の親父が遠くから手を振っている。
あ。そうだった。武器代。
「来週までには払えよー!」
「は、はい…」
絶対に聞こえないであろう、か細い声で返事をした。
お、お、お。おのれ。人が前向きになろうとしているところで、余計なもうひとつの仕事の目的を思い出しおって。いや、アルマロン討伐さえうまくいってくれれば、そっちに金を割かずに済むか?
口先を尖らせ、武器屋の親父に理不尽な苛立ちを抱く。
いや、よく考えたらそんなので補える額か?
そもそも、デプリッチにアルマロンの値段を見ておけとは言ったが、補完財を買っておけとまでは言っていなかった気がする。つまり、今回の儲けは単純にアルマロンの素材を帝都に売っぱらった金額だけの可能性があるではないか。
自らの計画の大穴にようやく目を向ける。いや、計画なんて立派な代物で一週間を過ごそうとしていたわけではない。
なんとなく、ロウが期待以上にたくさんの魔物狩ってきてとっても儲けられる、程度の浅はかで幼稚な直感的認識でしかなかったのだ。
父の遺体隠しやらなんやらで、全く自らの先のことを腰を落ち着けて考える暇など無かったことを言い訳にするも、それで事態が好転するわけではない。
「や。…やばいかも…。」
奴隷契約の研究の前に、そっちをなんとかしなくては。破産まではしないが、抵当に入れるものが無くて帝都の屋敷を万が一差し押さえでもされたりしたら…
死体が。埋まっているのが。バレる。
いや、いや。家具だとか装飾品だとか、うちにはそれなりの価値のものがあったはずだ。それを売ればなんとかなるだろう。
いやいやいや。そういえばどこかで聞いたような。中古家財の買い取りに関して、老舗が汚職事件で潰れたとかで最近はもっぱら1人の商人による独占市場になっていると。
ん?中古家財?
それってデプリッチじゃないか?
「やばい!!」
確実に足元を見られる相手だ!そんなやつになんとか適性価格で家財を売ったとしても、補完財の件の方で利益分配の比率変更だとか、面倒なことを仕掛けてくるに違いない!
「ああああやばい!!やばいっ!!!」
「何がやばいなの?」
「なのー?」
ん?
男の子とも女の子ともとれるかわいらしい声が足元から聞こえた。
ちんまり。
そこには僕の膝より少し高いくらいの背の男の子と女の子が立っていた。
双子だろうか。服装も同じく、ボロボロの布を縫い合わせただけの服を着ている。獣人種の血が混じっているようで、灰色の髪の毛がもふもふと綿のようだ。よく見ると尻尾が生えている。
小動物みたい。ナナよりも丸い瞳を、爛々と輝かせて僕を見上げるので、なんだかつい頭を撫でてあげたくなる。いや、可愛がるよりもその柔らかそうな頭髪に触ってみたいという好奇心が強い。
「えっと?君たちは?」
「何がやばいなの?」
「なのー!」
ぴょこん。
先ほどから相づちのようなものしか打っていなかった女の子の頭から何の衝撃だったのか、オオカミのような大きな耳が我慢していた息継ぎをようやくするかのように勢いよく飛び出した。
「あわわーっ!」
「見ないでなのー!」
彼らにとってはとんでもないハプニングらしく、必死に耳を小さな手で隠し、これでもかというくらいに顔を渋めた。僕が反応に困っていると、すたこら路地の方へ逃げていく。
何やら大事そうな包みを抱えて、けれども一歩一歩を強く蹴り、跳んで歩幅を稼ぎながらすばしっこく走る様子は、なんだかおかしくも子どもと侮れない速さだった。
「…。なんだったんだ。」
よく分からないが、耳を見られるのが嫌だったようだ。
「癒されたな…とりあえず、清掃とか、夜でもできるものをこなしていくか…稽古はその後だな…」
双子の出現で冷静さを取り戻したのか思考が停止したのか、僕はとりあえず、紹介を受けた依頼をコツコツとこなすことにした。
*
1日後。
「だめだー!!!金が溜まる気配がない!!!」
「ビクッ」
急に叫んだ僕の様子に驚くドリアは、危うく運んでいた水晶を落としそうになる。
昨日から夜通しで依頼をこなし、ウェスピンへ来てから3日めの朝を迎えたが、あまりの報酬の低さに僕はげんなりとしていた。
「ちょっと…止めてくれますかね…急なヒステリックは…ふう…」
「何か。一攫千金みたいなものはないんですか。このままじゃあ武器屋の親父に一文無しにされてしまう!!」
「…はあ…?冒険者がお金を貯めるには、下積みを経て信頼を築かないといけないのですがね。でなければ、報酬の高い仕事は任せられないですかね…あ。」
何かを思い出したドリアは、大きな水晶をカウンターの奥の部屋に運びこんだ代わりに、紙きれを1枚持ってきて僕へ手渡した。
「…?これは?」
「手配書ですかね。このフィリッツ・マクガフィンという男は以前、このウェスピンからバミアス霊峰を越えて北東にある、エッカ村を滅ぼしたという容疑がかかってるんですがね。丁度、ウェスピンのどこかに潜伏してるらしいと。捕まえたら500万Gですかね。」
しれっとその笑顔(?)で無茶を言うなあ。この人は。実はロウの一件、根に持っているんじゃないだろうか。
「いやいや。あの、村ひとつ滅ぼすような人を捕まえる技量はないのですが。」
「いや。その人、どうやら魔物を焚き付けて村を襲わせたそうで。丁度村の近くにダンジョンが出現したらしく、そこの魔物を使ったとか。多分、普通に戦う分にはなんとかなるんじゃないですかね?」
「…なるほど。確かにそれなら…。人探しなら通常の依頼をこなしながらでもできるし、悪くないかも…?」
「…元帝国騎士団員ですがね。」
「え?」
「いやなんでもないですがね。」
今、気になる言葉が通り過ぎていった気がしたが、二度も聞き返すのは面倒なので追及を止めた。
必要なのは、その人物の情報だ。特に、戦闘に関する情報がほしい。帝国がどうのなど、おそらく出身地だとかあまり関係のない話だったのだろう。
「ありがとうございます。ドリアさん。」
「気にするな、ですかね~」
ですかね~ですかね~、と、声の反響を真似るという謎の行動をとりながら、乱雑に結ばれた蜜柑色のポニーテールを靡かせ、逃げるようにカウンターの奥の部屋へとドリアは消えていった。
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