第3話 商談

  *


『先立つものが必要だ。まずは金。屋敷の物を売れなんざ言わん。継続して手に入る資金源が必要だ。これからやろうとしてることは、国と戦える軍を作るような話だからな。そこで、昼過ぎに来るとか言う商人を巻き込む。いいか、レイン。よく聞け。商人に話す内容はこうだ…』


それから数時間。ロウと午前中のうちに打ち合わせた内容を頭の中で繰り返す。僕―レイン・フォルディオは予定通り、屋敷を訪れた1人の商人の相手をしていた。

リリーシャとロウは外出中。まさか、自分ひとりでこの男の相手をすることになろうとは。覚悟はしていた、というよりも、そこについてよくよく考えていなかった、というところだ。現に、目の前に座るこの男の容姿を見るまでは、僕が彼を嫌っていた要素のひとつも思い出せてはいなかったのだから。


「はぁ?約束と違うではございませぬか!奴隷を売るために呼んだのではない、ですとお??話にならん!!」


脂汗を額に浮かばせた小太りの商人は、唾を撒き散らせ叱咤する。

ロウとの話し合いを終えてしばらく、昼を跨いで1時間。客間には僕とこの男、デプリッチ・ダンプという商人がテーブルを挟んで向かい合っていた。

父親を出せ!と、来訪一番にやかましく喚いていたのをなんとか座らせたが、今にも立ち上がりそうなものだ。

既に部屋に立ち込めてしまった、きつい香水のにおい。

これには少し憶えがあった。父の商談が終わったあとの客間は、たまにこの薔薇のにおいがして、その日は立ち入ろうとしなかった。甘いのに、カスタードやシロップとは違う食欲をそそらないにおい。小さいころから嫌いなにおい。リリーシャは特に、義父の目を盗んで客間の窓を少しばかり開けていたほどだ。

そんな彼と、父はどのように商談を重ねていたのだろう。あしらっていたのか、それとも割り切っていたのか。思えばそれについて、父からは所感も中傷も全く聞いたことは無かった。


「まあ、まあ。聞いてください。この商談は、誰かに嗅ぎ付けられるわけにはいかなかったんですよ、デプリッチさん。ですから、普通の商人が興味の無さそうな『奴隷売買』の話として持ち込んだのです。」

「はあ?」


嫌だな。はあ?って言葉を使うひとは―早々に少しばかりの疲労感を覚えた。しかし、これが彼特有の性格だとするならば、少なくともその一点において、父は何ら悪態をつくことなく付き合い続けていたということになる。

ここで眉のひとつでも動かしてみたものなら。恨みつらみの対象でしかないはずの父に、劣等感でも抱いてしまいそうではないか。


「ほら、往々にしてあるでしょう。人の重大な商談を盗み聞き、横取りや邪魔をされるようなことが。」

「ふ、ふうむ…?そうでおじゃるか??」


おい商人。リスク管理が甘すぎやしないか。ビジネスチャンスなんて、盗まれるときは一瞬だぞ。少し考えれば分かるだろ?―人差し指を突き立て、そう蔑んでやりたい衝動を奥歯が噛み砕いた。

―しかし、待てよ。

僕は商人らしいことをしたことなんてないのに、こうして人の至らないところをつまんでは、それだけで優位に立った気になっているではないか。リリーシャには知られたくない、あからさまに腐った性根の一角が現れてきたのを自覚する。

気を取り直すべく、息をひと吐き。


「そうなのですよ。いえ、その。確かにデプリッチ殿が扱われる、中古家財の売買なんかは盗み聞いてどうの、なんて話にはなりませんが。取引の規模的に。」

(あっダメだ悪態が止まらない)


ほら!僕の口というやつは嫌味なんてこぼし始めた。嫌だ、止めたい。

こうして見下さないと、冷静な思考で話を進めることができない自分を、僕は昔から知っていた。誰かに似たわけではない、その個性は、誰のせいにもすることができない悪。波風ばかり立てたがる。強がり。


「失礼なやつじゃ!まこと、失礼なやつ!!中古家財市場は今、大手が自滅し、ワシの時代でおじゃるよ!!」


歯茎が見えんばかりに顔面に力を込め、そう力むデプリッチからはどこか、強い承認欲求の片鱗を拾える。僕と似ているのかもしれない。嫌々に、そう直感してしまった。


デプリッチは中古家財の売買を生業とする商人だ。奴隷も家財に分類されるため、リリーシャの売却話は父よりこの男に持ち掛けられた。

最近は景気が良いらしい。先ほどから延々と膝の上で音を立てる彼の指には、真新しい宝石の指輪がはめられている。


「わかりませんか?今のは、『今からお話する取引が盗み聞きたくなるような規模である』ことを暗に示したのです。」

「小賢しいわ!言葉遊びをする時間などないんじゃ!要件があるなら、はよ言うのじゃ、はよ!」


机を拳で叩き始めたところを見ると、いよいよもって危ない。ロウからは、なるべく興味を引っ張れとは言われていたが、このようにデプリッチを憤らせたのは僕の不徳の至らしむところである。今になって思うが、よく途中で席を立たれなかったものだ。


だが、話くらいは聞くだろうという計算はあった。このデプリッチという商人が、リリーシャを買い取ることに対し乗り気ではないと当たりをつけていたからだ。

急な奴隷の買い取りは、専門業者でなければリスクなのだ。買い取った後、すぐに売れなければ管理費が儲けを食いつぶす。奴隷における管理費とは、人を養うに同じ。奴隷に人権は認められていないが、奴隷程度も養えずに破棄をする業者は経営難の疑いを持たれ、他の商人からの信用を損なう事態に発展する。

そんな背景のある中、奴隷売買に関して専門的な設備もなければ売り先のコネも弱いらしいデプリッチが今回の奴隷買い取りに応じたのは、付き合い上仕方なく応じたものだと想像できる。

全て父の書斎で見つけたデプリッチの資料を基に想定したものだが、僕が今吹っ掛けているような素人の儲け話を帰りもせずに座って聞いている態度を見るに、その予想は当たっていたようだ。

これには少しの安堵。自信あり気な表情で固めていたのが、緩みそうになる。


「今回の取引というのは、一度きりの話で終わらないかもしれません。場合によっては、私の新たな商売の取引先となっていただくこともあり得ます。」

「ほ、ほう…。それはまた、興味深い言い回しでおじゃるな…。して、新たな商売というのは?」


デプリッチのつぶれた丸い鼻がヒクヒクと動くのを見て、昔、隣の家が戯れに飼っていた腹の黄ばんだ豚を思い出した。胸下の方で笑いを堪えたのは気付かれてはいないだろうか。少しばかり腹筋へ小刻みに力が入り、あの鼻のようにヒクヒクと動いたのだけれども。


「新たな商売…それは、魔物の素材売買ですよ。」

「…はあ。」


あ。しぼんだ。

デプリッチは大きく溜め息をつき、浮きかけていた背筋をバフッとソファの背もたれに戻す。デプリッチの僕を見る目が、彼を客間へ招いたときのような見下したものへと変わったのが実に不愉快だ。

こうまで人が嫌いそうな態度を次々とやってのけるものだから、嫌悪感が飽和して、僕の言葉尻の尖りも消えてくれるのではないか?それにしても、リリーシャとロウは今頃何をしているだろうか。うん、集中力も欠けてきた。


「さっさと子どもは親を呼ぶでおじゃるよ。なんのいたずらか知らんが、無駄な時間を過ごした。」


薄い金髪の髪の毛を大事そうに指で撫でる。触らない方がいいと思う、なんて言えたら気持ちが良いかもしれない。いや、いや。そう逸るな。僕は冷静だ。

太ったこの客人も、うんざりとしたご様子。もちろん僕も、こんな人間の顔色を窺って駆け引きなんていうのはこれ以上御免被るわけで。1ホールのケーキを食べ尽くそうとする隣でごはんをよそわれるような、喉口で、おえっ、とする心地だ。多分、彼も僕の上辺な表情の裏側を察し始めているだろう。

話はもう終盤だ。

そして、彼が魔物の素材売買と聞いて態度を変える理由など、分かり切っている。


「そんなに落胆されるのは、国内における個人間の魔物の素材売買が法律で禁止されているから。」

「!」


でしょ?と、全てを見透かしたような口調とおどけた表情で言いのけて見せた。

わざわざ上げて落とすような真似をするのは回りくどくて、面倒だ。だが、やはり効果はあるのだろう。目の前の彼には、真剣な目つきが戻ってしまっているところを見ても。


「…貴様!それを知っていてなぜ素材の売買などという話ができる!!」


『特殊生物に関する商取引の法律』。

通称、特生商取引法。

商取引の関連法においてかなり有名なもので、施行から200年は経つ。これにより、魔物の素材売買が厳しく規制され、国の専売特許になっていた。


「分かってますとも。魔物の素材は国内に持ち込めず、入国と同時に国に買い取られる。そして国内では、国のみが魔物の素材の販売ができる、ですよね?」

「当然じゃ!加えて、転売は厳禁!!国は誰に素材を売ったか帳簿で管理しておるし、国から素材を買うにも資格が必要なのじゃ!わしは持っとらん!お主の父親も持ってはおらんじゃろうに!!」


その通りだ。

帝都を囲むように聳え立つ壁は堅牢。もちろん、登ることは不可能。東西南北の四か所にある唯一の出入り口である関所も検閲が厳しく、密輸などとてもできたものではない。


「勘違いしないでください。素材を売る相手は国です。国外で入手した素材をそのまま売るんです。法律違反なんてことはしません。」

「…は?それではただの冒険者ではないか。」

「ただ売るわけ、ないじゃないですか。同じものをまとめて、それも大量に売るんですよ。」

「大量に…?それがどうした?」


ううん。ここまで言えば分かると思うのだが。所詮は中古家財商人か。商人は商人と一括りにすることは、どうやら他の商人に失礼のようだ。


「大量に売れば、どうなります?その素材は国内に大量に出回るでしょう。それに応じて、需要が高まるものがあるじゃないですか。」

「…補完財か!」


補完財とは何か。ある物の需要が上がる(下がる)と、それに連動して需要が上がる(下がる)物のことである。例えば、コーヒーの需要が高まると、砂糖の需要も高まるといった例が挙げられる。


「そうです!例えばゴブリンの棍棒が市場に大量に出回れば、それの加工に使われるシビレソウや硬化液の需要が伸び、価格が上がるでしょう。なので、価格が上がる前にデプリッチさんには補完財の買い溜めをしてもらうんです。」


ここでこう、リリーシャが極稀にするような、満面の笑顔を。ニッコリ。

うまくできているだろうか。

デプリッチを焚き付けるためとはいえ、無理に気分を盛り上げるのは腹痛に耐えるよりも冷や汗をかきそうだ。さあ、それだけの苦労をした笑みだ。どうだ。参ったか。

しかし。

その滅多な努力に反し、デプリッチの表情は補完財という言葉を口にした先ほどよりも、ずっと険しいになっているではないか。

そんな顔で彼は、ぐだぐだと理屈を並べ始める。


「う、うむ…そして価格が上がったのを見計らって売れば良い、ということでおじゃるな?しかし…そんなものは夢物語じゃ。

市場価値を操作するほどの素材数を用意するなど、想像もつかん。冒険者の大群を率いようにも、冒険者を雇う金を考えればマイナスじゃ。

それに、国に帰った時点で素材は必ず換金せねばならん。つまり、市場を動かすほどの量が溜まるまで国には帰れんのじゃ。

どこかに素材を隠したり見張りを立てて国に帰っても、盗賊や冒険者、魔物がそれを群れで襲う場合もある。そんなリスクがあるのは商売として成り立たんわ。…ほかにも課題はある。無理なのじゃ。」


デプリッチは肩を落とす。

はあ。この人はアレだ。自分の考えを声に出さないとまとめられないタイプの人だ。

別に気に障りはしないが、こう、ビシッと『そんなのはムリ!』と言えないものだろうか。多分ロウなら、多く語らずに話の主導権くらいかっさらっていくのだろうな。そうに違いない。


さて。デプリッチの金魚の糞のように長い御託はまるで聞いていなかったが、およそ僕の、いや、ロウの想定の範囲内。頭の中で復唱し続けていた台詞を、ここぞ!と、僕は告げる。


「では、今から一週間後。アルマロンのウロコの値段をご覧ください。それで信用していただけるはずです。」

「は…なにをいうでおじゃるか…」


デプリッチはこれ以上話すことは無い、と手で間を遮ると、膝に手を当てて重たそうに立ち上がった。

おお。ここで帰り際の空気をバッチリ読んでこようとは。そこは好感が持てるよ、と、汗ばんだ彼の背中に、僕は、ベぇ、と舌を出す。


「お主の親父はどこじゃ。」


振り向きもせずにデプリッチが尋ねた。


「生憎、アルマロンの討伐に出かけておりますので。」

「は…。正気とは思えん。」


彼はやれやれと首を振り、床を軋ませる大きな足音を立てて帰っていく。僕は玄関の扉まで彼を見送った後、その場にしゃがみ、背中から転げては大の字の体勢で天井を一望する。シャンデリアのシェールは丸かった。遠い昔に棒立ちでそれを見つめていた自分を思い出し、童心に帰ったかのよう。


「はあ…緊張した。」


いや、してたっけ?これは紅茶を飲んだ後にホッと一息吐くようなもので、特に意味はないものとする。あんな商人に使った体力などない、と、強がってみたり。

玄関の正面に飾られた、巣箱を模した掛け時計の針は、午後の3時を指している。デプリッチに話したのは、全てロウが午前のうちに編み出したもうけ話だ。

これの要は、『市場を動かすほどの大量の素材を一度に持って来られるのか』という点である。正直なところ、大英雄の力量というのが僕にも測りかねていた。

市場を動かすほどのアルマロンのウロコといったら、何体狩れば足りるのだろうか。皆目見当がつかないというものだ。


「リリーシャ、大丈夫かなあ。」


ロウはリリーシャを連れて狩りへ出かけた。彼女のあのちぐはぐな足音を出す走り方には、微塵も運動神経というものを感じないので、少々心配だった。本人はなぜか自信に満ちた表情で、キリッと「お任せを。」と言ってはいたが。

加えて、彼女の精神状態も気にはなる。ロウを掘り出してから今も続いている一連の事態の中、気丈に振舞ってはいるが底は知れない。

とりあえず。

デプリッチの座っていたソファを洗いたい。あとは換気もしなくては。リリーシャが嫌がる。

僕はそんなことをぼんやりと頭に浮かべながら、玄関の扉にはめ込まれたガラスより差し込む春の陽光にうっとり微睡んでしまっていた。



  *


「おーい!リリーの姉さん。そっち行ったぞー」

「アルマロン。全長3メートル、高さ2メートル。固く土色のウロコが特徴で、その手触りは氷のように滑らかである。屈みこむことによって全身を丸め、獲物を轢き殺す…きゃー!」


リリーシャは横っ飛びに、爆走するアルマロンの軌道を避ける。

持っていたモンスター図鑑とボロボロのメイド服についた土をほろいながら、アルマロンをひたすら走って追いかけるロウには目もくれず、垂れた前髪を耳にかけ再びモンスター図鑑に目を落とした。


「えっと…えーっと…その牙は猛毒であり噛まれれば致命傷は避けられない。羽を4度一度にバタつかせたら注意が必要…ってなにこれ、あ、これアルマロンのページじゃない」

「おーい!リリーの姉さん、またそっちに」

「きゃー!!!」


「はっはー、リリーの姉さんは横っ飛びだけは上手くなったな!」


さすがのリリーシャも、これには憤慨した。


「なんなんですかこれ!そろそろお昼だな、って思ったらアルマロンを狩りに行くですって!?これ、私いらないですよね!?あとなんですか!ただひたすらアルマロンのページを読み続けろって!ここでやる意味あるんですか!!」

「ああ?そいつは文句か?」


リリーシャは白い頬をムッと膨らませて野鳥を攫う鷹のような鋭い目でロウを睨むも、渋々と図鑑に目を落とす。

レインから、ロウの言うことは聞くようにと言いつけられていた。これを守らずとはいられない。


西日の色が変わり始めるころ。アルマロンと遭遇してから2時間が経過していた。帝都を出てしばらく歩いたところにあるこの荒地は、アルマロンの群生地。

リリーシャはロウと共に、アルマロン狩りへ来ているわけだが、どういうことなのかリリーシャはロウに延々と図鑑を読ませられている。


「アルマロンは…直線にしか転がることができず…止まるには時間がかかるため…あ」


図鑑の記述通り、轢き殺さんと再び転がり迫るアルマロン。


「よいしょっと」


それを事前に察知しその軌道から逃れる。

が。


「もっと集中しろ!最初から避けんな!アルマロンなんか気にするんじゃねえ!!」

「さっき轢き殺すって図鑑に書いてあったんですけど!!!!」


リリーシャは奴隷であり、生前の主人より理不尽かつ語るに痛ましい扱いを受けてはいたが、ここまで単純に意味が分からないことに付き合わせることは今まで無かった。アルマロンの攻撃をギリギリで避けると笑われ、攻撃を見越して避けると怒られる。

リリーシャはその境遇から怒りなどという分不相応な感情を抱くことはほとんどなかったが、この身体中で熱い蛇がのたうち回り力むような感覚が怒りであるとは察しがついていた。


「そらぁ!」


ロウの威勢の良い声が上がる。

リリーシャが避けた先にある岩にぶつかったアルマロン。態勢を崩し露出したそいつの柔らかい腹を、槍でロウが一突きに仕留める。

かなり的確な位置を突いているらしく、出血量は微小かつ即死に近い一撃だ。

それが何度も、何度も繰り返される。

アルマロンはどこからともなく岩の陰より姿を現し、その泥団子のような弾丸が転がり迫ってくる。砂ぼこりを被りながら、それを死に物狂いで避けるリリーシャ。図鑑の音読は欠かさない。なんとも奇妙な光景ではないか。彼女は分からないなりに一生懸命であるのが健気。


「アルマロンのウロコは防具や滑材に用いられることが多い。ただし、アルマロンの討伐は難易度が決して低くなく、低級素材ながらも供給が滞る場合がある…はっ」


何十回目だろうか。今までよりも図鑑に集中した状態で、リリーシャは直感的に顔を上げた。

アルマロンの球体がすぐ目の前まで来ている。

(…!)

それをリリーシャが目視する…

(あ…)

その時には。

既に彼女の身体は動き出していた。身の危険に四肢が緊張するよりも早く、身体を右へ滑り込ませる。そんな彼女の丈の長いスカートを、砂埃を立てて転がり抜けるアルマロンの風圧が小さく撫ぜた。


(今の感覚は…)

「…よし!リリーの姉さん、本はしまっていいぞ。今の感じを忘れるな。っつっても、身体に覚えこませたはずだがな。」

「あ、は、はい。ええと…」


どうやったか?まるでコツも、息遣いすらも意識の中に無かったリリーシャは首を傾げる。そんな彼女へ、大丈夫、となだめるように白い歯を見せたロウは、転がって向かってくるアルマロンに対し、これまでとは異なって槍をしっかりと中段に構えた。


ツウ、と、腰を低く落とす。口で息を吸いながら、槍を握る腕の筋肉が隆起する。服の上からでも、力が彼の全身に充填されていくことが分かった。

そして、息を止める。それは、彼に立ちこんでいた殺気も力の奔流も、全てが一瞬にして消えうせたかのように思った瞬間。


空気が、止まった。


「せえッ!」


その強く踏み込んだ足よりも、遅く。しかし、迅く。ロウの槍は、その土煙が風に流れるより前にアルマロンから引き抜かれ、アルマロンはぴたりとその動きを止めていた。

あれほどの速度で転がっていた巨大な球体が、一瞬にしてその動きを止めた様子は、見事というよりも奇妙なものであった。


ロウがその一突きの打ち終わりを解くと、静止したアルマロンの球体がそれに呼応したかのようにその形を崩す。


「おら。ウロコ剥ぎ取って帰るぞ、リリーの姉さん。」

「…あ!はい。」


リリーシャは、自らの心臓が高鳴っていたことに気付いた。こんなことは初めてだった。いつから始まっていたかも分からないそれは、感動の類によるものだと朧げに察する。

まさに、武芸。

鱗を剥ぎ取り始める彼の姿に、声を上げず、音もたてず、心内にて拍手を送る。その技巧が、彼にとっては呼吸をするように当然のことであると、鍛え抜かれた背中が語っていたからだ。

リリーシャは開いていた小さな口をキュッと閉め、ナイフでてきぱきとウロコを剥ぎ取っていく。料理で変わった食材を扱うことが多かったリリーシャにとって、こういった作業はお手の物だった。しかし、これも彼に敵うものではないだろう。


強くなりたい。


彼自身ではなく、力というものに惹かれた。あの槍を、自らの力としたい。あの力を涼しい顔で振るう、猛々しい存在でありたい。彼女の干からびた岩礁のようであった心に、欲求という潤いが注がれた。それは水と形容するには、あまりにも熱く、身を悶えさせるほどの高まりであった。

彼女は乾いていたのだ。それが今、奴隷であるうちに消え失せていた、人の持つべき欲が、瞬時に沸き上がったのだ。


ほどなくして、荒野に転がった全てのアルマロンのウロコを剥ぎ取り終える。既に夕暮れが始まり、魔物の顔ぶれも変わり始めるころ。この時間は野宿の準備や焚火の準備をするのが一般的だ。

それは、いずれも夜を超える前提の話。こんな時間を近隣とはいえ、普通は帝都まで歩いたりしない。


「帰るぞー」


という常識は一般人の話であり、大英雄には関係ないらしい。

リリーシャはここに至るまで、彼がそのランサー・ロウであると半信半疑であったが、今日の最後の一撃を見て確信した。

そして。その槍は初めての『憧れ』となった。


(…あれ。アルマロン…刺されていたところが、全て一緒だったような。)


これはリリーシャの勘違いでもなんでもなく、最後の一頭も含め、全てのアルマロンが一撃にして同じ箇所を捉えられていた。

並みの冒険者では、まずアルマロンの弱点である腹を突くことができない。回転を解くなど態勢を崩すときに狙うのが一般的だが、それでも一瞬なのだ。

狙って攻撃できたとしても、それを数十回重ねてようやく絶命させるに至るのが普通である。


「…。やはりあなたは、ロウ・ビストリオなのですね。」


惚れはしないが。見惚れはする。そんな槍捌き。演舞というのは見たことは無いが、それの美しさが与える感動とは、こういったものなのではなかろうか。


「ああ?なんだ今更。」


ロウはぶっきらぼうにそう返すと、てくてくと無防備に先を歩く。


そんな様子を見てリリーシャは、

アルマロンのウロコ、持ち帰ってしまって良いのだろうか

という当然の疑問が浮かんだわけだが、それよりも今日その目で見た出来事について早くレインに報告がしたく、喜々として帰路に就くのだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る