3  初めての 感覚

「八坂くん!」

 優愛の声が聞こえたクラスメイトたちは、一斉に雑談をやめ、一斉に優愛の姿を目に入れた。優愛は八坂の席の隣にいる。そのため、クラスメイトたちの目には八坂の姿も写っている。八坂もその視線は感じている。というか目が合っている。

 八坂しか見えていない優愛は、クラスの状況など何も感じず、八坂に話し続ける。

「このお店なんだけどね、最近できたみたいで。一度行ってみたかったんだけど…」

 雑誌を広げている優愛の話を遮る八坂。

「あ、高山さん。ちょっといいかな?」

 八坂は手招きをしながら席を立ち、教室の後ろのドアへ向かう。優愛も後に続く。廊下に出て教室から少し離れると、手のひらで額の冷や汗を拭い、優愛を見る。

「あのさ。ちょっと急すぎない?」

「え、なんのこと?」

 首を傾げる優愛。やはり何も感じていないようだ。八坂はもう一度汗を拭う。

「ほら、今まで一度もしゃべったことのない二人がさ……あ、みんなの前でね。その二人が急に親し気に話し始めたら、みんなビックリするでしょ。現にそうだったし……」

 やっと状況を呑みこめたのか、ハッとした表情となり、申し訳ない表情に変化させると、持っている雑誌を胸の前で強く抱きしめた。

「ああ、ごめん。そうだよね。また周りが見えなくなっちゃってた。ごめん……」

 頭を下げる優愛に、八坂は小さく首を横に振る。

「あ、いや、謝んなくてもいいよ」

 頭を上げる優愛。申し訳ない表情をそのままに。八坂は小さく息を吐く。

「まあ、もういいか。たぶんいろいろと聞かれるかもしれないけど」

「うん、それなら大丈夫だから。いつもごめんね」

 苦笑いをみせる優愛を見て、頭を掻く八坂。

「とりあえず、戻ろうか」

 頷く優愛。先に教室の後ろから中に戻る。戻るなり八坂の言う通り、呼び止められることとなった。

「ねえ優愛!ちょっと」

 呼び止めたのは三浦だ。優愛は三浦の席へ向かう。近くには由比と小金井もいた。優愛にとって数少ないクラスの友達。彼らには話しておかないといけないだろう。

「優愛って、八坂と前から仲良かったん?」

「ううん、最近からだよ。ごく最近」

「おととい、二人が歩いてるとこ見てん。ね、由比」

 由比は小さく頷く。おとといとは、もちろん、柿の木学園からの帰り道であり、優愛と八坂が友達となった瞬間である。そこを由比と三浦に見られていたらしい。休み明けの月曜日にその事実を知った優愛は、少し焦る。

「あ、あれは、たまたまね、たまたま。偶然会ったから一緒に歩いてたの。たまたま……」

 前にも同じような言い方をしていた。教室の後ろから優愛たちを見ている八坂は、

前に優愛に質問されたときのことを思い出し、頭を掻いた。優愛は苦笑いで三浦を見ている。

「八坂と、友達なん?」

「あ、うん、一応ね……」

「一応?」

 そこに引っかかった三浦だったが、スキップして自分と優愛の間をすり抜ける人影に意識を持っていかれる。その主は小金井だ。向かう先には八坂。その八坂の肩に腕を回した。あからさまに困惑した表情を浮かべるのは八坂。

「なんだよ。そうだったんなら早く言えよな、水くせえな!」

 八坂のわき腹をつつきながら小金井は陽気に話し続ける。

「だったら俺とも友達だな!」

「は?」

 わき腹をつつかれ、それを嫌がる気持ちと小金井の発言の意味がよく分からず、思わず大きな声で返す八坂。小金井は手を動かしながら、発言の意味を説明する。

「俺と高山は友達。高山とお前も友達。つまりお前と俺も友達ってことさ!」

「……何その三段論法……」

 推論の形式のような答えが返ってきたため、さらに困惑する。しかし三浦の言葉が、その思いを取り除く。

「まあまあ。友達は一人でも多くいたほうがいいってこと。うちとも友達や」

 友達。八坂が長い間、自分に向けられることがなかった言葉。だがここ最近、よく耳にするようになった。八坂は小さく頷いた。小金井と三浦が自分のすぐそばで笑っている。少し恥ずかしくなり、視線を移す。その先には優愛がいた。彼女は微笑んで頷いた。


 昼休みの理科室。優愛らいつもの三人に加えて、八坂もそこにいた。優愛と八坂、美緒と穂高の二手に分かれ、向かい合って立っている。

 ニコニコの美緒と澄ました穂高。少し緊張気味の八坂の横で、優愛は笑顔で話し始める。

「同じクラスの八坂龍太朗くん」

 友達に友達を紹介する場面。八坂にとっては初めての体験。こんなこともするものなのか。緊張が増していく。優愛は今度は美緒の隣に立つと、八坂に身体を向ける。

「私の友達の、立川たちかわ美緒と目白めじろ穂高」

「どうも~」

「よろしく」

 美緒はニコニコの顔のまま手を振って挨拶をする。穂高は小さく頭を下げる。八坂もつられて会釈を返す。

「あ、よろしく」

 美緒は一歩前に出ると、八坂との距離を近づける。八坂は少し驚いた顔をする。しばらく美緒は八坂の顔をまじまじと見て、口角を上げた。

「へえ。けっこうかっこいいね」

「あ、ありがとう……」

 こんな面と向かって言われれば、誰だった照れてしまうだろう。目線を美緒から外した八坂。外した先には微笑んでいる優愛がいる。八坂も小さく笑顔をみせる。

 三人のやり取りを見ていた穂高は、眉間にしわを一瞬寄せる。その姿は、三人には見られていない。

「前に話した、一年のときに同じクラスで仲良くなって、よくお昼一緒に食べてるのがこの二人」

 優愛の言葉を聞き、美緒は八坂から距離を取り、穂高の隣へ戻ると、人懐っこい笑顔をみせて頷く。

「私の大切な友達だから、紹介しておきたかったんだ」

 優愛の言葉が少しこそばゆかった美緒は、えへへ、と間の抜けた声で小さく笑う。彼女は頭を掻きながら、何かを思いついた。

「そうだ。どうせなら八坂くんも一緒に食べる?」

 さすがにそれはと思った八坂。苦笑いで美緒の提案を退ける。

「あ、今日は遠慮しとこうかな」

 そうだよね~、と今度はいたずらっ子のような笑みで八坂を見る美緒。どうやら少しもてあそばれたようだ。


 八坂と別れた後に、いつものように理科室で昼食を済ました優愛。弁当箱を片手に教室の後ろのドアから中に入ったところですぐに立ち止まった。いつも見ていた八坂の机とは、状況が一変していた。今までなら、八坂一人で本を読んでいた。しかし今は、今朝友達宣言を行った、由比と小金井、三浦の三人が囲んで談笑をしている。その光景を目にした優愛は、少し胸が熱くなった。小さい笑みをこぼすと自分の席に弁当を置いて、八坂たちの輪に向かう。

 優愛に気づいた三浦が手招きをして彼女を呼ぶ。

「ちょうどよかった。クリスマスの予定たてようかなって思っててん」

「そっか。もうそんな時期か」

 由比は腕を組んで視線を上へ向ける。由比の隣に立つ小金井は、いつものように由比の肩を組んでくる。

「どうせなら俺らで過ごそうぜ!どっかでプチパーティでもして」

 由比はいつものように小金井を睨みつけながら、小金井の腕を乱暴に振りほどく。その二人が目に入っていないかのように、三浦は優愛へ話しかける。

「優愛もどう?よかったら美緒とか穂高も誘ってさ」

「うん。聞いてみるよ」

 三浦は頷くと、視線を八坂へと移す。八坂は怪訝な顔で小さく首を傾げる。三浦は少し唇を尖らせた。

「何その顔?八坂も参加するんやで」

「え?」

 八坂は、クリスマスの話には自分は入っていないもんだと思っていた。そのため、三浦に言われて素直に驚いた。しばらく由比とじゃれていた小金井は、八坂に視線を向けた。

「どうせ暇だろ?クリスマス」

「いや、その言い方は失礼やろ」

 三浦は手の甲で小金井の胸を叩くという、ベタなツッコミを入れ、二人で笑い合った。八坂はなんとはなしに優愛を見た。目が合った優愛は、微笑んで口を開く。

「どう?八坂くんも暇だったら」

「……うん。分かった」

 よし決まり、と三浦が一度手を叩いた。八坂と対面する形で立っている由比の眉間には、しわが寄っていた。先ほどの小金井とのやり取りでのしわではなく、優愛と八坂のやり取りを見てのものだった。由比は首を何度か小さく横に振る。

「あ、そだ。八坂、お前携帯出せ」

「え?」

「連絡先交換すんだよ。早く」

 優愛はハッとして、心の中では声を上げた。そういえば、八坂の連絡先を知らない。一応友達になった柿の木学園からの帰り道。あの後、話をしながら帰ったのだが、連絡先を交換することは全く頭の中になかった。

 優愛は心の中で小金井に感謝の気持ちを込めて頭を下げた。

「登録したら、うちらのグループに招待して」

「分かってるよ」

 八坂と小金井の携帯の操作がしばらく続いた後、優愛のブレザーのポケットに入った携帯が、振動音を出しながら小さく震えた。携帯を取り出す優愛。

 八坂が同じグループに登録されたことを通知する文字を見て、優愛は小さく微笑んだ。


 放課後、優愛たち二組の五人組は、クリスマスの計画をたてるための会議を開くという名目で、駅の近くにあるファミレスに向かっていた。

 あーだこーだとすでに話が盛り上がっている、由比、小金井、三浦の後ろを、優愛と八坂が歩いている。優愛は口角を上げながら話し始めた。

「でも、意外だったな。八坂くん、行かないって断るんじゃないかって思ってたから」

「ああ、うん。俺、こういうの慣れてないから。断り方もよく分からないっていうか……」

 八坂は苦笑いで答えた。優愛が続ける。

「やっぱり、人と壁をつくっちゃうの?」

 うーん、と小さく唸りながら考える八坂。小さく息を吐くと、口を開いた。

「こんなこと、他人に言うことではないと思うんだけど。俺、小学生のときのこともあってか、他人のこと、信用できないんだよね」

「信用?」

「うん。細かいことを言うと、小さいころは少しは友達いたんだ。だけど、障害を公表したとたん、友達だった人はみんな離れてった。そのせいで、どうせいつか裏切られるんだろうなって、心の奥底で常に思っていて。それを直接誰かに言うことはないけど、俺の中ではずっとくすぶり続けていることなんだよね……」

 そっか、と言葉を発した優愛は、腕を組んで少し考え始めた。その姿を横目で見る八坂。うんうんと何度か頷いた優愛。

「私、前に八坂くんの理解者になりたいって言ったけど、その前に信用されないといけないんだね」

 そう言うと、八坂に視線を移した。その顔は、自信に満ちあふれていた。

「私、八坂くんに信用してもらえる人になれるように、頑張るね」

 優愛は笑顔で語った。面食らった八坂は、少し口角を上げて頷いた。


 クリスマスの当日。町の中心地の駅前で、八坂、由比、小金井、三浦の四人は、残りのメンバーを待っていた。この日は日曜日のため、多くの人々が仲間や恋人と歩いていたり、待ちくたびれたのか、壁に背を預けて座りこみ、携帯をいじっている人もいる。

 三浦は両手で口を囲むと、息を吹きかけ、手を擦り合わせる。日中の気温は平年通りであったが、日が暮れていくに従って大きく下がってきた。夜には天候が変わると予報されており、寒気の影響で雪となるところもあるらしい。

「ごめん。遅れた」

 駅の改札方面から、優愛と美緒が小走りで待ち合わせ場所へと姿を現した。

「お、かわいい!」

 美緒を見るなりそう告げた小金井。たいていの女子は初対面の男子にこう言われれば、照れるか引くかの反応になりそうだが、美緒は違う。まるで言われ慣れているかのように余裕の笑顔をみせる。

「どーも。立川美緒です」

「俺は小金井さとし。よろしくね」

 片膝をつき渾身の決め顔をつくると、ダンスに誘う紳士のように掌を上に向けて美緒の前に差し出した。はははと無邪気な笑顔で美緒は答える。小金井は自身の脇に手を入れられ、乱暴に引っ張り上げられた。それは由比がやったことであり、冷めた目で小金井に言い放った。

「お前のキャラってそんななのか?」

「俺ってどんなキャラだっけ?」

 言い合いに発展した二人を、ぽかんとした顔で眺める美緒。三浦がため息をついた。

「これ、いつものことやから気にせんで。穂高はどうしたん?」

 三浦は周りをきょろきょろしながら優愛に尋ねる。

「穂高は先約があったみたい」

「もしかしたら、デートかもね」

 美緒は屈託ない笑顔で優愛と三浦の顔を見た。穂高ほどのかわいさと優しさがあれば、彼氏がいても不思議ではない。穂高からは恋愛の話を聞いたことがなく、彼女の恋愛事情はまったく分からない。優愛が首をひねっていると、三浦が由比と小金井の仲裁に入っていた。

「はい、そこまで。終了。もうそろそろ行こ」

「よっしゃ。俺が案内してやるよ」

 小金井は意気揚々と、クリスマスパーティを行う店へと向けて歩き始めた。その後ろを三浦、由比、美緒が追っていく。優愛も歩き出すがすぐに立ち止まり、後ろを振り返った。目線の先には、立ち尽くしている八坂がいる。

「八坂くん?どうしたの?」

 我に返った八坂は、軽く咳払いをする。

「あ、いや、なんか……高校生っぽいことしてるなって思って」

 その言葉に面食らった優愛は、小さく声を出して笑った。

「これからもっと高校生っぽいこと、たくさんできるよ」

 八坂との距離を縮めた優愛は、八坂の手首を包み込むように優しく掴んだ。え?と八坂は小さく声を出し、優愛を見る。朗らかな笑顔が目の前にあった。

「行こ」

 優愛に手を引かれ、八坂の足も自然と前へと進み始めた。


「えー今日はお集りいただき、誠にありがとうございます。一年はあっという間に過ぎ行くもので……」

 パーティ会場となったファミレスの八名ほど座れる席を確保した優愛たち。由比と八坂の間に陣取る小金井は、誰に頼まれたでもなく始まりの挨拶を行っていた。由比は向かいに座る女性陣を見やる。三浦はぽかんとし、優愛は苦笑い。美緒は何が面白いのか笑い声を上げている。ため息をつくと由比は立ち上がり、小金井の頭を軽く引っ叩いた。

「なげえよ!」

「よう言った!」

 由比のツッコミに続き、三浦が手を叩きながら声を発した。由比は水の入ったコップを乱暴につかみ上げると、乾杯、と言いながらコップを前に突き出した。周りもそれに続いてコップを突き出す。ようやくパーティの始まりだ。

 小金井はわざとらしく拗ねた顔をするが、すぐにいつもの表情に戻り、目の前のテーブルに並べられた料理に手を伸ばした。

 八坂とはテーブルを挟んで対角の位置に座る優愛。好物の唐揚げを口に運びながら、八坂の様子を伺う。初めての経験だからだろうか、雰囲気に呑まれているようだったが、笑顔をみせながらおしゃべりをする姿を見て、優愛は安心して顔を綻ばせた。


 パーティは中盤に差し掛かる。美緒と三浦に挟まれて座る小金井は、自らの想いを声に出していた。

「いやあ楽しい。ほんと楽しい!俺こんな性格だから煙たがれることが多いんだけど、こうやって一緒に騒げる奴がいてほんと最高。両手に花だし、もう幸せ!」

 なぜか呂律が回っていない。首をコクコク動かしながら、コップに入った液体をあおる。

「ねえ、もしかしてお酒でも飲んじゃったの?」

 美緒は三浦に問いかける。三浦は苦笑いで小金井の顔を指差す。

「この人、雰囲気で酔っ払っちゃう人やから」

 声を出して笑い合う三人。その姿を冷めた目で見ていた由比は、小さくため息をついた。

「あいつ、いつの間に席替わったんだよ」

「まあまあいいじゃん。今日はクリスマスなんだし」

 由比と八坂の間に座る優愛は、笑顔で緑茶の入ったグラスを持ち上げる。口につけたグラスを傾けながら横目で八坂を見る。八坂も楽しそうに向かいの三人を見ていた。

 由比はなんとはなしに壁に掛けられたテレビを見た。ニュースが流れており、今日起きた出来事を報道している。周りの声もあり、テレビの音はよく聞こえない。だが、ある言葉が由比の耳に確かに届いた。

「……男子高校生が自殺しました。……」

 由比はニュースに意識を向ける。喧騒の中でも自分の意識を向けた音を聞き取ることができる、カクテルパーティ効果が現れたのか、さっきまで聞き取りづらかったアナウンサーの声が、由比は鮮明に聞こえるようになる。

「……今日、午前9時ごろ、アパートの駐車場に頭から血を流して倒れている男性がいると、このアパートの住民から119番通報がありました。救急隊員が駆けつけたときには、すでに死亡していたとのことです。亡くなったのは、このアパートの5階に住む、17歳の男子高校生でした。……」

 俺と同い年。由比は息を呑んでニュースの続きを聞く。

「……部屋には遺書のような紙が残されており、警察は自殺として捜査を行っています。紙には『僕の父親は人を殺しました。お詫びに僕も死にます。ごめんなさい』と書かれていたとのことです。……」

 遺書の内容を聞いたとたん、由比の額から大粒の汗が流れ始めた。一気に息が荒くなり、胸が苦しくなった。吐き気が襲い、手で口を覆う。

「由比くん?」

 由比の様子に気づいた優愛は、由比の顔を覗きこむように顔を傾けた。

「ごめん。ちょっとトイレ……」

 由比は勢いよく立ち上がると、早歩きでトイレへと向かった。

「大丈夫かな……」

 心配そうな顔で由比の後ろ姿を追う優愛。八坂も同じように、由比の姿を見えなくなるまで見続けていた。

 トイレの個室に飛び込んだ由比。今日一日食べたもの全てじゃないかというくらいの量を、便器の中へと吐き出した。胃酸の逆流のせいか、喉が熱くて痛い。トイレットペーパーを乱暴に巻き取ると、汚れた口を拭う。肩で息をしながら袖で目を押さえると、壁へと身体を預けた。

「……なんで……なんで死なないといけないんだよ……」


 優愛からのクリスマスの誘いを断った穂高は、横浜の中心地にいた。様々な色の組み合わせで街に彩りをもたらす観覧車。それを見上げるような位置にあるベンチに、穂高は座っている。

 この街はいつ来てもきらびやかなのだが、この日はクリスマス。より一層輝いているようにも見える。

 目の前には、真っ黒の水が漂っている。ここは埋め立て地であり、元々は海だったのであろう。

 そんなことを頭の中で考えていると、隣に座っていた女性が穂高との距離を詰め、身体を密着させた。

「綺麗だね」

 女性が風でなびく髪を手で押さえながら言う。20代中盤くらいの、妖艶さがある大人の女性だ。穂高はうん、とだけ答える。

 女性は穂高の手を取る。穂高は、女性に目を向けた。女性は小さく微笑むと、ゆっくり顔を、穂高の顔へと近づけた。女性と穂高の唇が重なり合う。数秒間そのまま口づけを交わした後、女性は包みこむように穂高を優しく抱きしめた。

「今日は、朝まで一緒にいてくれる?」

 女性は穂高の耳元で囁いた。穂高は、しばらく沈黙した後に小さく口を開いた。

「……ごめんなさい。明日、学校だから……」

 女性は穂高からゆっくりと離れると、笑顔で小さく頷き、人差し指で穂高の唇を優しく撫でた。


 パーティはお開きとなり、みんなは家路へと向かう。由比と小金井が何かを言い合っており、それに時折ツッコミを入れる三浦と、けらけら笑う美緒が、まだ多くの人々が行き交う合間を縫って、優愛の視界から消えていく。

 優愛は、八坂のそばに立ったまま動かなかった。

「高山さんは、帰らなくてもいいの?」

「あ、うん……」

 この後どうするの?と聞きたかったのだが、言葉が喉で急停車し、口にすることができなかった。八坂は腕時計を見る。そろそろか、と呟いた後、優愛に視線を移す。

「高山さんは、この後暇なの?」

「あ、うん。暇」

「俺、今からここちゃんと学さんと合流して、子どもたちのプレゼント買いに行くんだけど、よかったら一緒にどう?」

 優愛は少し口を開けると、口角を上げて大きく首を縦に振る。

「うん。行く!」

 八坂も笑顔で頷くと、こっち、と指を差しながら歩き始めた。優愛は遅れまいと大股で歩き出し、すぐに八坂のそばへと並んだ。

 デパートの前で、こころと森内が八坂の到着を心待ちにしていた。八坂の姿を見つけたこころは、手を大きく振る。八坂の隣に立つ人物の顔が確認できたとき、こころはその名前を呼んだ。

「ゆ、優愛ちゃん」

「こんばんは。さっきまで八坂くんと一緒で。付いてきちゃいましたけど、迷惑じゃないですか?」

 優愛の問いかけに、こころは笑顔で首を横に振る。森内も人懐っこい笑顔で答える。

「全然。むしろ大歓迎」

 その言葉に少し照れた優愛は、自分の頭を数回掻いた。

 デパートのおもちゃ売り場に到着した四人は、片っ端から商品を物色していく。事前に子どもたちのプレゼントはリサーチ済みだが、それ以外に喜びそうなものや役に立ちそうなものはないかと、いろいろ探していく。

 優愛も思い思いに商品を見ていく。自分が子どもの頃に使っていたおもちゃを見つけると、懐かしさに目を細め、商品を手に取って眺めてみる。私が持ってるこれは、今はどこにいったのだろう。まだ押し入れに入っているのだろうか。それとももう処分してしまっただろうか。

 小さく笑みを浮かべると、商品を棚に戻し、姿勢を真っ直ぐに直す。ぐるりと周りを見回すと、棚越しにこころの姿を見つけた。ゆっくりと近づいていくと、笑顔のまま商品を見つめ続けていた。

「こころちゃん、好きなの?魚」

 いろんな種類の魚のストラップが掛けられている。こころは笑顔のまま頷いた。

「す、好き」

 こころの視線は、ストラップに戻される。優愛も隣に並ぶと、こころの顔を覗き見る。彼女は優愛と同い年だが、大人びた顔立ちをしている。落ち着いた印象を見る人に与える。前にも思ったことだが、とても障害を抱えているようには見えない。

 身体障害などと違い、発達障害は見た目では障害者であることを、第三者が判断することは難しい。自閉症やアスペルガー症候群などの、自閉症スペクトラムのような、特有の行動がみられれば話は別なのだが、こころの場合は、話をするときに発見する吃音ぐらいしか他人が気づける部分がない。

 優愛は以前、八坂からこころはAD/HDを抱えていることを聞かされていた。

しかし、福祉や病名などに詳しくない優愛は、AD/HDという言葉は覚えられなかった。それがどういう症状を引き起こすことも思い出せない。

 こころの障害について考えていた優愛は、八坂とこころの関係性を頭に浮かべた。小学校のころから一緒で、共に特別支援学級で勉強していた。学園にも足を運ぶ八坂は、こころと仲がいいということは誰にでも判断できる。そして八坂は言っていた。ずっとこころの味方であり続けると。それはどういう意味合いなのか。好きという意味が入っているのか。こころは八坂をどう思っているのか。

 意を決した優愛は、こころに問いかける。

「こころちゃんはさ、八坂くんのこと、どう思ってるの?」

 こころはゆっくりと優愛の顔を見た。少し怪訝な顔をしていた。だがすぐに、その口元は綻んだ。優愛は唾を飲む。

「…す、好きな人」

「え?」

 思わず聞き返す優愛。こころは笑顔のまま繰り返す。

「わ、私の…す、好きな人」

 優愛はしばらく開いた口が塞がらなくなってしまう。こんなはっきりと言われてしまうと、こちらは何も言えなくなる。声を発せられず口を小さくぱくぱくしていると、背後から八坂の声が聞こえた。

「ここちゃん」

 優愛とこころは同時に後ろを振り返る。八坂は自分の腕時計を指差している。

「時間。ちゃんと気にしないとダメだよ」

「ご、ごめん」

 こころは小さく苦笑いをすると、頭を掻きながら八坂のそばへと歩を進える。あ、思い出した。こころの症状は、集中すると時間を忘れてしまうってことだ。

「高山さんも、行こう」

 八坂の声を聞き我に返った優愛。うん、と頷くと、八坂へ向けて足を踏み出した。


 子どもたちへのプレゼントをまもなく買い揃えそうになるころ、八坂は優愛に質問した。

「高山さん。もしサンタさんが来てくれるなら、何お願いする?」

「え、サンタさん?」

 子どもにするような質問。これは八坂なりのユーモアなのか。優愛は腕を組んで考える。

「うーん、そうだな。改めて聞かれたらすぐに出ないな。……あ、カチューシャ。カチューシャお願いする」

「カチューシャ?」

「うん。私、将棋の対局の時はいつもつけてるの。子どもの頃、初めて年上の人に勝ったときにつけてて。それから験担ぎで毎回」

 ふーん、と頷いた八坂。ポケットからこのデパートのフロアガイドを取り出す。優愛はしばらく八坂の行動を見ていると、八坂は微笑み、ガイドをポケットにしまう。

「じゃあ買いに行こっか」

「え?」

「カチューシャ。行こ」

 八坂は笑顔でエスカレーターへと向かう。戸惑いながらも八坂の後に続く優愛。

 女性ものの雑貨が並ぶコーナーにたどり着くと、カチューシャの品揃えに驚く八坂。

「こんなにいろいろあるんだね」

「ねえ八坂くん。ほんとに買うの?」

 突然の八坂の行動に、困惑する優愛。八坂は優愛の顔を見ると、少し照れたように話し始める。

「サンタさんてさ、いい子にしてたところに来るって言うでしょ?高山さんには良くしてもらったから。君にはサンタさんが来るべきだと思う」

 はにかんで答える八坂。お礼として何かプレゼントしたかったのだ。それを察した優愛は、嬉しくなり笑顔で頷いた。


 カチューシャが入った紙袋を受け取ると、笑顔でお礼を言う優愛。

「ありがと。大切にするね」

 八坂も笑顔で頷いた。雑貨コーナーを後にして、こころたちと合流するために下のフロアへと向かう。

「八坂くんは?何お願いする?」

 今度は優愛が質問する。八坂は笑顔を作るも、すぐに口角が下がった。

「実はさ、俺のところにサンタさんって一度も来たことがないんだよね」

「え、そうなの?」

「うん。ただあんまり気にしてなかったんだ。親が忙しいからね……」

「そっか……」

 家の事情でプレゼントをもらえない子どもがいることは、そんなに珍しいことではないのかもしれない。ただ八坂の場合は特殊なのかもしれない。八坂の父親は単身赴任中で、母親は結婚前は仕事熱心のキャリアウーマンだったらしく、八坂の育児が一段落すると、すぐに働き出した。今もバリバリであり、家を留守にすることが多いらしい。なかなかプレゼントを渡せる余裕がなかったのかもしれない。

 少し落ちこんでいると、八坂の明るい声が聞こえてきた。

「けど今年は、初めて来たよ」

「そうなの?プレゼントはもらえた?」

「うん。とってもいいのもらったよ」

「どんなの?」

 落ちこんだ気持ちがなかったかのように明るくなった優愛は、八坂の初めてのプレゼントに興味津々だ。八坂は前を向いたまま、口角を上げた。

「友達ができた」

「え?」

 不思議な答えにきょとんとする優愛。

「その友達は、俺の障害を受け止めてくれて、いつも笑って話しかけてくれる。他にも友達と言ってくれる人もできて、初めてクラスメイトと学校以外で会って、クリスマスを過ごした。初めてのことやもう無理だって諦めていたことを、経験することができた。だから、そんな素敵なプレゼントをくれたサンタさんに感謝しないと……」

 そこまで言うと、視線を優愛に向けた。八坂は頬を少し赤くし、はにかみながら優愛に優しく声を発した。

「ありがとう」

 八坂の優しい声と眼差し、はにかんだ顔を見た優愛は、一気に顔が赤くなる。それに気づいた彼女は、素早く顔を背ける。目線を下に向け、ごもごもと声を出す。

「あ、う、いえ……。どう……いたしまして」

 優愛の身体は急に熱を持ち、暖房が心地よいはずのデパートが、砂漠に変わったかのように、ものすごく暑く感じた。隣を歩く八坂のことが見られなくなる。買い物をすでに終えていたこころと森内と合流するまで、話をすることはなかった。

 デパートの外へと出る四人。入る前と比べてずいぶんと気温が下がったように感じる。優愛は自分の顔が赤らんでいることを自覚していた。それは寒さのせいなのか、それとも……。

「ごめんね高山ちゃん。付き合わせちゃって」

 森内が人懐っこい笑顔で優愛に謝罪をする。優愛は首を横に振る。

「いえ。私が来たいと思ったことなので」

 鼻を軽くすする。デパート内の暖房と冬の自然の空気との温度差に、身体が敏感に反応したのか、鼻水が出そうになる。

「じゃあ俺、高山さん送っていくから」

 その言葉に素早く反応した優愛は、上ずった声で断りを入れる。

「あ、ううん。いいよ。大丈夫。こころちゃんたちと一緒にいて」

「いや、でももう遅いし……」

 今の精神状態だと、八坂のそばにはいられない。心臓の鼓動が速くなり、過呼吸にでもなりそうなくらい息をすることが苦しいのである。普段の優愛であれば、もう少し八坂と一緒の時間がつくれると笑顔で受け止めるのだが。

「あ、この後ね、お母さんと合流するんだ。だから、大丈夫」

 嘘が自然と口から出た。親子でクリスマスに特別何かをするような習慣は、高山家にはない。

「そっか。じゃあまた学校で」

「うん。じゃあね」

 軽く手を振ると、手に提げたデパートの紙袋を胸に押しつけるように両手で抱えると、小走りで八坂たちと反対の方向へと去っていった。

 こころと森内の後をつけるように歩く八坂は、一旦歩みを止め、上半身だけで後ろを振り返る。遠くに優愛の後ろ姿を見つけた。すぐに角を曲がったため、ほんの一瞬しか目に入らなかったのだが。物寂し気な表情を浮かべると、体の向きを直し、歩行を再開する。

 しばらく走ったために息が切れ、周りの人々よりもはるかに遅い歩みで進む優愛は、とうとうその足を止め、建物と建物の間にある、人二人分ほどの幅しかない路地に身体を入れる。壁に背を預けると、自然と力が抜け、その場にへたり込む。息の荒さは走ったせいなのか、それとも……。

 紙袋をしばらく見つめると額に当てる。身体が熱い。胸のドキドキが止まらない。息が整えづらくて苦しい。額から離した袋をもう一度胸の前に持っていき、抱きしめる。深呼吸をすると、目線を宙へ移す。

 優愛の目には、真っ黒な空から薄い白色の塊が降ってくるのが写った。


――こんな気持ちは初めてだ。胸の苦しみも。彼の……あのときの笑顔が頭から離れない。これは……この感覚はなんなんだろう……。

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