2  一応 友達

 季節はまもなく冬。本格的に寒くなっていくこの時期。校内ではブレザーを脱いでいた生徒も、羽織るようになっていく。シャツとブレザーの間にカーディガンを挟む生徒も少しずつ増えてきた。

 優愛、美緒、穂高の三人は、理科室でいつものように昼食をとる。優愛の小さなため息が聞こえ、美緒と穂高は揃って優愛を見る。右手で箸を握り、左手は自分の左頬に当て、肘を机についていた。

「突っ伏してないってことは、小さな悩みってことか……」

 美緒が小声で呟く。優愛の悩みの大きさまでお見通しのようだ。

「今度は何?」

 穂高も悩みの程度の察しがつくようで、箸を動かす手を止めずに問いかける。優愛はあさっての方向を見ながら答える。

「八坂くんに友達になってって言ったら、断られちゃった」

「あら」

 気持ちのこもっていない美緒の相づち。優愛は続ける。

「私のためにも、友達にならないほうがいいって言われた」

「それって、どういう意味?」

 今度は箸を止め、目線を優愛に向けて質問する穂高。

「意味……。どういう意味なんだろ。聞きそびれちゃった。……どういう意味だと思う?」

 目線を美緒と穂高に移した優愛は、首を傾げる。

「質問で返さないでよ。私たちが知りたいぐらいなんだから」

 少し呆れた声で穂高が返答する。そうだよねと呟きながら、視線を手元の弁当箱に向ける。母親が作ってくれる唐揚げが、優愛は好きだった。それを掴むのではなく、箸で刺して持ち上げ、口の中へと運んだ。

「それ以来、何も話してないの?」

 美緒の問いかけに、咀嚼しながら頷いて答える。

「ちゃんと聞かないとダメだよ。ずるずる引きずっちゃったら、また突っ伏すぐらい大きな問題になるかもだから」

 美緒の忠告に力なく頷いて答える。なんだか今日の唐揚げは、いつものようにおいしく感じられない。


 優愛のいる二年二組の担任である大正寺谷先生は、日本史の担当教諭である。日本史を苦手としている優愛は、小さく唸りながら教科書をにらみつける。顔を上げ、板書を見て先生の話をノートに取るのだが、内容はいまいち頭に入ってこない。左手で頭を掻くと、その腕越しに八坂を見た。いつも通りペンは持たず、目と耳で授業に参加している。書いても覚えられない優愛にとって八坂のやり方は、学習障害が理由であっても、やはり不思議であった。成績はいいのだろうか。

「それじゃ次の授業のときまでに、徳川十五代将軍全員の名前覚えて来いな~」

 大正寺谷の言葉を聞いたクラスの生徒たちから、一斉にブーイングが巻き起こる。教科書とにらめっこしていた優愛は、状況があまり把握できていない。男子生徒から声が上がる。

「先生、どうして覚えないといけないんですか?」

 そうだよ、無駄だよ、無意味無意味、などと生徒たちは騒ぎ出す。大正寺谷はチョークを置くと、頭を掻いて生徒たちへ身体を正対させた。

「無駄か……」

 呟いて両手を教卓についた大正寺谷。生徒全員の顔を一瞥していくと、ゆっくりと口を開いた。

「無駄って言い始めたら、勉強のほとんどが無駄になるんじゃないか?」

 騒いでいた教室が、少しずつ静かになっていく。優愛は立てて読んでいた教科書を机に置くと、引っ張られるように大正寺谷に視線を向けた。少し驚いた。先生の目が真剣であったからだ。

「世界の歴史だって興味がなければ役に立たないし、数学なんてその道の研究者にならない限り、日常生活で使うことなんてほぼないし。なら、そのすべてを無駄だと言って勉強することを放棄するのか?」

 いつの間にか私語をしている生徒はいなくなり、先生の声のみが教室内に響いている。みんなが先生を見据えていた。

「俺も無駄だなあって思うことはいくらでもあるよ。でもな、俺はそれでいいと思うんだ。無駄だなって思うのなら、それはそれで。ただ……」

 優愛は唾を飲み込んだ。

「無駄だと思うものを無駄のまま排除するんじゃなくて、それをいかにすれば無駄にならないようにできるか、しっかり向き合うことが大切なんじゃないかって、先生は思うな」

 大正寺谷の話が終わると、教室はしんと静まり返る。自分の授業でここまで静か

になることは今までになく、大正寺谷は首を傾げる。

「ん?どうした?」

「いや、なんか……」

 学級委員長の館山が面食らったまま口を開く。驚いているのは教室にいる生徒全員だ。

「先生が珍しくいいこと言ってるなって思って……」

 うんうんと頷く生徒たち。優愛も例外なく頷いた。

「おい、なんだよそれ。俺が普段全然ダメなことばっかやってる奴みたいじゃないかよ」

「うん。そうだよ」

 女子生徒の発言に笑いが起こった。それの火消しに回る大正寺谷。なんか最近、先生へのイメージが変わってきたな。優愛は大正寺谷の言葉を頭の中で反芻した。


 昼休みになり、美緒と穂高は二年二組の教室へ向かった。理科室に優愛がまだ来ていないので、教室まで呼びに来たのだ。後ろのドアから覗きこむが、優愛の姿はなかった。

「いないね」

 美緒が呟いたとき、廊下に出ていた三浦が声をかける。

「どうしたん?」

「優愛ちゃんが来ていないから」

「え、そうなん?いつも通り出ていったように思ってたんやけど……」

「もしや、神隠し……」

 くだらないことを発した美緒の頭に、弱い力でチョップを入れる穂高。


 もちろん神隠しになどあっていない。優愛は校舎と校舎をつなぐ連絡通路に立っていた。そこからは中庭にも通じており、大きな針葉樹の周りを取り囲むように設置されたベンチがある。優愛はそこを眺めていた。八坂が座っていたからだ。

 昼休みの八坂はどこにいるのか気になり、教室を出ていく八坂をつけていた。購買部で昼食を買い、自動販売機で飲み物を買い、中庭にたどり着いた。我ながら気持ちが悪いことをしている自覚はあった。これじゃまるでストーカーだ。

「あ、八坂くん」

 偶然を装い、八坂との距離を縮める。八坂は小さく頷いて答えた。

「お昼は、いつもここなの?」

「だいたいはね。ここ、意外と誰も来ないから」

 優愛は頷くと、頭の中で電球に光が灯った。誰も来ない。ということは二人だけの空間。それは、話をするチャンス。優愛は頷くと八坂に問いかける。

「あの、隣座ってもいい?」

「ああ、どうぞ」

 最近話し始めたばかりなのに、一緒に昼食がとれるなんて。優愛は笑顔で隣に腰を下ろした。

 さっき購買部で買っているところは見たのだが、何を買ったのかまでは把握していない。優愛は八坂のビニール袋の中を見た。あんぱんと梅おりぎりが入っていた。ベンチの上には缶コーヒーが置かれ、右手には鮭おりぎりが握られている。

「いつも購買部で買ってるの?」

「うん。売れ切れでない限り、いつも同じメンツかな」

 袋を覗きこみながら答えると、鮭おにぎりを頬張った。一口が大きかった。

 八坂は背が低い。男子生徒の平均よりも10センチ近く低いように見受けられる。食べている姿は男の子らしく感じた。とはいうものの、優愛は153センチとこちらは平均より5センチほど小さいため、小柄な優愛からしてみれば、八坂も背が高く見えるのだが。

「高山さんは?いつもはどこで過ごしてるの?」

 八坂から質問されたことに嬉しくなった優愛は、思わず笑みがこぼれそうになり、我慢するように顔に力を入れた。

「私は、いつもは理科室にいるんだ。一年のときに仲良くなった友達とお昼とってるの」

「そっか。今日はいいの?」

「あ、うん。今日は大丈夫」

 本当は大丈夫じゃないかもしれない。何も言わずここへ来たため、美緒たちは心配しているかもしれない。後でメール送っとこう。

 箸でひと口大のミートボールを口へ運びながら、前に八坂に言われた言葉を考えていた。友達にはならないほうがいい。だがこうやって、話しかければ答えてくれるし、そばに座ることも断りはしない。嫌われてはいないってことでいいのだろうか。私のためにも。そうも言っていた。それはどういう意味なのか。聞きたいのはやまやまだが、口にするのをためらってしまう。

 こうやって話ができるし隣に座ることもできるのなら、別に友達になることに固執する必要はないのではないか。ただのクラスメイトとして過ごしてもいいのではないか。嫌がることを無理強いしたくない。優愛はそう考えるようになった。


 学校のある閑静な場所から、少し離れたところにある幹線道路。その道路沿いにある小さなカフェの店先で、優愛はテイクアウト用のカップに入った抹茶ラテのホットを、火傷しないようにゆっくりと飲んでいた。このお店は優愛がよく行くところで、美緒に教えてもらった。

 優愛は抹茶が好きだ。しかし猫舌なため、早く飲みたいというはやる気持ちを抑えるように、ふーふーと息を吹きかける。口をつけるとゆっくりカップを持ち上げていく。熱っ!毎回こうだ。飲み物にしろ食べ物にしろ、熱いものを口にする時はたいてい舌を火傷する。

 舌を出して外気に触れさせていると、通りの向こうに八坂の姿を確認した。少しためらったが、横断歩道の信号が青に変わると同時に、優愛は向こう側へと歩き出した。

 これでストーカー紛いのことするのは何度目だろうか。後をつけることが上手になってきた。そう実感する優愛は、いよいよだなと自分が嫌になる。しかし、八坂のことで気になったら動くしかない。そういう思考になってしまった。

 幹線道路から離れ、閑静な場所へと八坂は向かっていく。学校や自分の家とは違う方向のため、優愛はこの辺りの土地勘がない。追っている背中が、ある建物の方向へ向かっていることが分かった。

 建物の玄関へと続く正門には、『児童養護施設』と書いてある。児童養護施設ってたしか、親がいない子どもが生活する場所、じゃなかったっけ?この程度の知識しかない優愛は、これ以上足を進めることはできなかった。

「八坂くん、親いないのかな……。それとも、障害が関係してる?」

 呟いた優愛は、頭を掻き首を横に数回振ると、その場所から離れていく。

 これは見てはいけないことだったのか。思い悩みながら来た道を戻っていく。幹線道路にたどり着く。いくらなんでも深入りしすぎか。そう思ってため息をつくと、不意に名前を呼ばれた。

「高山?」

 顔を上げると、由比がその声の持ち主だった。

「何ため息ついてんだよ」

「あ、うん。ちょっとね」

「俺でよかったら話聞くけど」

 由比が心配そうに優愛の顔を覗きこむ。優愛は首を横に振る。

「ううん。大丈夫」

「そう。あんま無茶すんなよ。中学のときから突っ走って思い悩むことが多かったから」

 中学一年のころからの関係である由比は、優愛の悩みをたびたび聞いていた。優愛のことはたいがい理解しているつもりである。

「うん。気をつける。ありがと」

 笑顔で優愛は頷いた。

 徒歩で通学している優愛と電車で通学している由比。駅までの道のりは同じである。歩道橋を渡り、優愛は自宅方面、由比は駅方面へと道が別れる。歩道橋を歩きながら、優愛は口を開いた。

「由比くんって優しいよね」

「え?」

「困ってる人とか見たら、ほっとけないもんね」

 由比の顔を見上げながら微笑む優愛。その顔を見て、由比は思わず顔を逸らす。

「……誰でもじゃねーよ」

 小声で発せられた言葉は、優愛の耳にはしっかりと伝わらなかった。え?と聞き返すが、由比は首を小さく横に振る。

「なんでもない」

 地上へと続く、二方向の階段。ここが二人のばいばいの地点。優愛は手を振ると、階段をリズミカルに下りていく。その後ろ姿を見送ると、手すりに身体を預けた。ポケットから合格祈願のお守りを取り出し、それを見つめる。

「お前は、覚えてるのかな……」

 小さくため息をつくとお守りをポケットにしまい、優愛とは反対方向へいざなう階段をゆっくり下りていった。


「じゃあみんな、ちゃんと覚えてきたか?」

 日本史の授業冒頭、大正寺谷が席に着く生徒たちを眺めながら口を開いた。しかし先生から問われているのにも関わらず、誰一人として答えなかった。言っていることすら理解できていないのか、口を開けてぽかんと間抜けな顔をしている生徒もいる。あっ!優愛は頭の中で声を上げた。そうだった。

「おいおい……。俺ちゃんと言ったべ!徳川十五代将軍の名前覚えてこいって」

 大仰なため息をつく大正寺谷を尻目に、生徒たちがぐちぐち言い始める。

「だって先生が変にいいこと言うから、それに意識持ってかれちゃったよ」

 どんな言い訳だよ、とうなだれる先生。その姿を苦笑いで見るのは優愛。彼女自身も覚えてきていない。大きく息を吐くと、助けを請うように一人の名前を口にした。

「じゃあ八坂。お前は覚えてきただろ?」

 クラス中が八坂へと視線を向けた。もちろん優愛も見る。いつもは盗み見ているのだが、今回は堂々と見ることができる。

「あ、はい」

 八坂は返事をする。

「えーっと……」

 思い出すように目線を上に向ける。

「家康、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗、家重、家治、家斉、家慶、家定、家茂、慶喜」

 はい正解、と先生が言うと、どこからともなく歓声と拍手が沸き起こる。

「ちゃんと覚えてくる奴もいるんだよ」

 なぜか得意げになる先生。優愛も同じような気持ちだった。自分のことのように八坂のことが誇らしくなった。しかしそれは長続きしなかった。

「なあ八坂。黒板に書いてくんない?俺、文字見ないと覚えられないんだよ」

 優愛は声をする方向へと素早く顔を移した。声の主は小金井だった。もちろん彼は、八坂の学習障害については知らない。八坂は、文字が書けない。漢字が書けない。

 優愛は先生の顔を見る。先生は冷静な表情で八坂を見据えていた。これは八坂自身で答えを出さなければならないことだ。優愛も八坂を見る。少し考えるように小金井から目線を逸らした八坂は、ゆっくりと目線を戻した。

「ごめん。漢字はまだ覚えてないんだ」

「あ、そう」

 漢字は覚えていない、だから書けない。八坂の選んだ答えだ。さすがにこのタイミングでカミングアウトはできないよね。優愛はほっとして背もたれに身体を預ける。背中が湿っていることに気がついた。どうやら冷や汗をかいていたようだ。

「漢字やったら教科書見れば分かるやろ」

 小金井の後ろの席に座る、三浦の関西弁のツッコミが冴えわたる。あ、そっか、と腑抜けに答えた小金井の発言に、教室は笑い声に包まれた。八坂は小さく息を吐いて、目線を窓の外へと向けた。


 よく晴れた土曜日。優愛はある施設の前に立っていた。以前、八坂が入っていくのを見かけた、児童養護施設だ。

 深呼吸を何度か繰り返すと、右足を上げた。しかしすぐに下ろす。ここから先は、柿の木学園の私有地となる。簡単に踏み入れていいわけではない気がしてきた。

「入っていいのかな?けど、入ってどうするの?やあ!さっき八坂くんの姿が見えたから来ちゃった!……キモいか。今日は見かけてないし。ストーカーみたいだし。すでにストーカーっぽくなってるし。……入ったとして、それって不法侵入にならない?」

 ぶつぶつ正門前で独り言を言いながらうろちょろしている。この状態が不審者だ。その姿を少し後ろから見られていることに全く気づいていない。そのため、後ろからの挨拶の声に、優愛は今までに出したことのないような高い声で驚き、少し飛び上がり、素早く後ろを振り返った。端正な顔立ちで、笑顔でこちらを見ている男性が一人。両手にビニール袋を提げている。

「こ、こんにちはー……」

 とりあえず挨拶を返す優愛。

「何かご用ですか?」

 男性がそう言うので、施設の関係者であることは間違いない。まずいところを見られてしまった優愛は、引きつった顔のまま男性の表情を伺う。笑顔なのだが、その裏に何かあるのではないか。もしかして、不審者で通報されちゃう?このままではそうなりそうだ。優愛は思い切って、真実を話してみた。


「ここは児童養護施設っていって、いろんな事情がある子どもたちが共同生活を送る場所だよ」

「名前は聞いたことはありましたけど、入るのは初めてです」

「まあそういう人が大多数だよ」

 男性に案内してもらいながら施設内を歩く優愛は、きょろきょろ周りを見渡しながら話をする。男性はこの施設の職員である森内もりうち。買い出しからの帰りに優愛を正門前で見つけた。

「あいつにはボランティアでよく来てもらってるんだよ」

「そうなんですか」

 八坂がここに来ている理由が分かり、笑顔で返事をすると再び周りを見る。

「そっか、あいつに女子の友達がいたとはね」

「あ、いや、友達ってわけじゃないんです」

 笑顔が苦笑いに変わり、襟足を触る。森内は驚いて尋ねる。

「え、違うの?」

「あ、はい。クラスメイトです……」

「そっか……」

 少し残念そうに顔を下げる優愛。その姿を見た森内は、小さく息を吐いた。

 廊下を抜け子どもたちが遊んでいる談話室にたどり着く。

「ほら、あそこ。龍太朗!」

 声に反応した八坂が、優愛たちのほうを見る。八坂と目が合った優愛は会釈する。目を細めて優愛を見ていた八坂は驚いた顔をし、立ち上がる。

「では、ごゆっくり」

 森内は優愛にウインクをすると、奥へと向かって歩き出した。その後ろ姿を見送っていると、八坂がそばまでやって来た。

「高山さん?どうしたの?」

「あ、いやその、たまたまね、この前たまたま八坂くんを前の通りで見かけて。今日もたまたま通ったら、門の前で森内さんと会ってね。それでここに」

 苦笑いで答える優愛。嫌な顔をされるかもと思い少し怖かったのだが、八坂の顔はいつも通りだった。

「そっか。いや、ビックリしたよ」

「うん、ごめんね。八坂くんはボランティアしてるんだって?」

 話が途切れることを嫌い、優愛は質問をしていく。

「うん。古い付き合いなんだ」

「森内さんから少し聞いた。いろんな事情があって、子どもたちはここにいるって」

「うん。親が死んでしまったり、病気で育てられなかったり。虐待とかその恐れが

あるから、保護の観点から入所してる子もいるよ」

「虐待……」

 なんとなく想像はしていたのだが、虐待という言葉を実際に聞いてしまうと、心が締め付けられる気持ちになった。

「あの制服の子」

 八坂が指を差す方向に視線を向ける優愛。小さい子どもたちが大半を占める輪の中に、セーラー服を着ている女の子が混ざっていた。優愛はブレザーのため、もちろんその制服とは違うもので、見覚えもなかった。

「俺らと同じ高二なんだけど、いろいろ抱えてるんだ」

「もしかして、虐待されたの?」

 聞くのが怖かったのだが、聞いてみたい思いが強かった。八坂は首を横に振ったので少し安堵するが、それ以上の衝撃を受ける答えが返ってきた。

「ううん。親に見捨てられたんだよ」

 驚きのあまり優愛は何も言えず、目を見開いて八坂を見る。八坂の表情は、明らかに沈んでいた。

「生まれつき軽度の知的障害とAD/HDを抱えてるんだ。あ、AD/HDって知ってる?」

 優愛は首を横に振る。初耳だった。

「注意欠陥/多動性障害ともいって、俺と同じ発達障害の一つだよ」

 初耳であり聞きなじみのない言葉の並びのため、しっかり聞き取れなかった優愛。少し眉間にしわを寄せると、視線を女の子に向ける。

「どういう障害なの?」

「複雑な障害なんだけど、不注意優勢型っていうのがあって、彼女の場合は約束事を忘れたり、何かに集中すると時間感覚がなくなっちゃうことが多いんだ」

 頷きながら八坂の話を聞く。目線は女の子に向けられたままだ。むしろ目を外せなくなってしまった。興味本位であったかもしれないが、彼女のことがもっと知りたくなった。

「それが原因でいじめられて、吃音にもなった」

「吃音って、言葉がどもったりすること?」

「そう。心因性の場合は、時間が経てば自然に治ることも多いみたいだけど、彼女は今も続いてる……」

 八坂の声が途切れたため、優愛は目線を八坂に移す。八坂は強く目を閉じ、少し歯を食いしばっているようにも見えた。目を開けると、話を再開する。

「吃音が出始めた時に、彼女の親は彼女をここに預けていなくなった。連絡は取れないし、居場所も分からない」

 八坂の目は再び女の子に向かっている。優愛もまた目線を女の子に戻す。

「俺と同じ小学校でね。その頃、特別支援学級に通っていたのは俺と彼女の二人だけたったんだ」

「こうして見ると、凄く笑ってるし、障害とかを抱えているようには見えないね」

「そう。彼女はとても明るい子なんだ。俺はいつも彼女の笑顔に支えられてるんだ」

 その言葉に敏感に反応した優愛は、素早く八坂の顔を見た。八坂は微笑んでいた。

「ここにいる子どもたちは、みんな心に傷を抱えている。だからかな、ここには偏見も差別もない。もちろんは喧嘩はあるけど、互いに思いやる気持ちは、そこらへんにいる大人なんかよりもしっかりあるよ」

 八坂は見据えたまま続ける。

「俺は一つの障害だけで大変なのに、彼女は三つも抱えている。彼女の苦しさは俺には想像がつかない。けど、普通の人よりかは理解できる。俺はずっと彼女の味方であり続けることを約束したんだ」

 八坂はゆっくりと子どもたちの方向へ歩いて行った。優愛は八坂の後ろ姿を見つめるだけで、何も言えず動くこともできなかった。八坂は女の子の話をしている時は、いつもと違う雰囲気であることをなんとなく感じた。笑顔を見たことが初めてであり、声のトーンや目の色も違うように感じてしまった。少し落ち込んでしまう優愛。

「高山さん!」

 八坂が呼ぶ声が聞こえ、表情を直そうと無理矢理に笑顔を作り、八坂に顔を向ける。八坂が手招きしている。八坂の元へ歩み寄る。隣にはあの女の子。

「高山優愛さん。学校の友達」

「え?」

 友達と言われ、思わず声を出す。八坂を一瞥するが、すぐに女の子へ向ける。

「こ、小松こまつこころです。よ、よ、よろしくお願いします」

「あ、高山優愛です。こちらこそよろしくお願いします」

 言葉の初めの文字を繰り返し発音する。吃音の特徴の一つである。小学生の頃に吃音症の同級生がいたため、驚くことはなかった。しかし、お辞儀した姿勢を元に戻し、笑顔になったこころの表情を見て、優愛は少しドキッとした。なんか、似てる……。


 トイレから談話室に戻ってきた八坂は、しばらく優愛やこころたちを眺めていた。初めての二人だがすぐに打ち解けたようで、いろいろ話をして笑い合っている。八坂は自然と笑顔になる。森内が後ろから近づいてくることに気付き、顔をそちらに向けた。

まなぶさん」

「かわいい子じゃないか」

 森内は八坂の隣に来ると、腕を組み笑顔で優愛を見る。

「ああ、うん」

「あの子言ってたぞ。友達じゃなくてクラスメイトだって。悲しそうな顔でな」

「あ、うん。それは……」

 何も言えなくなる八坂。森内は笑顔のまま八坂の背中を叩く。なかなかの威力があり、いてっ、と小さく声を上げ、少しバランスを崩した。

「せっかくできた人脈なんだから、大事にしろよ!」

 笑顔でウインクをすると、奥の方へ向かっていった。森内は決め台詞を言った後は、必ずウインクをするという癖がある。満足したのであろう森内の背中は、とても生き生きとしているように見えた。八坂は小さく笑い、視線を優愛に向けた。優愛を見据え、もう一度微笑した。


 柿の木学園を後にした二人は、駅前に向かって歩いていた。思えば、八坂と二人で並んで歩くのは初めてのことであり、優愛は少しドキドキしている。しかし、八坂とこころの関係性も気になり、複雑な感情であった。何を話そうか頭の中をぐるぐる回転させていると、八坂のほうから話し始めた。

「やっぱり女の子は、仲良くなるのが早いね」

「え?」

「ここちゃんと、けっこう仲良くしてるように見えたけど」

「ああ、うん……」

 笑顔のまま俯く優愛。少し考えてから、顔を上げる。

「こころちゃんって、私の妹にちょっと似てるんだ」

「妹?」

「顔がとかじゃなくて、なんか雰囲気がちょっとね」

 優愛に妹がいたことは初耳の八坂。それもそうだ。優愛は八坂のことを知りたい一心で、彼にいろいろ質問をしてきた。そのせいもあってか、自分のことを話すことはなかった。八坂から聞かれることもなかったため、機会がなかったともいえるのだが。

「妹さんとは仲いいんだね」

「うん。仲良しだったよ」

「だった?」

 優愛の言葉に引っかかった八坂は、その意味を尋ねた。優愛は少しためらった。だが、八坂のことを知るためにも、自分のことも話すことも必要だ。そう考えた優愛は、八坂に初めて自分のことを話してみることにした。

「もう会えないんだ。私の両親、私が小六に上がる時に離婚したの。仲は悪くなかったよ。どっちも働いていたから、すれ違いが原因でね。子どもながらにまずいかもしれないって思ったことを覚えてるよ。私はお母さん、妹はお父さんが引き取って。喧嘩別れじゃなかったし、二人とも働いてるし、子ども一人ずついるってことで、慰謝料とか、養育費とか、そういうのは一切なしで離婚したの。離婚してすぐに妹は、お父さんの仕事の都合で海外に行くことになって。それっきり連絡すら取れてないんだ……」

 優愛は苦笑いした。あまり他人に言いたくない自分の過去を話したということと、初対面の人に妹を重ねてしまったことに、少し恥ずかしい思いもした。八坂は時折、相づちも交えながら、優愛の話を真剣に聞いていた。

「母子家庭ってけっこう大変なんだ。父親がいない、片親だ。それだけで周りから冷たい目で見られて。何か直接嫌みを言われたりだとか、いじめられたとかはなかったんだけど、完全に腫れ物だった。中学に上がって、徐々に薄れていったんだけどね。……あ!」

 一通り話し終えた後、優愛は何かを思い出したような、ひらめいたような、そんな声を上げた。少し驚く八坂の顔を、優愛は笑顔で見た。

「八坂くんのことを受け止められたのって、私も似た感覚を経験したことがあったからなのかもしれない。……あ、これと似てるって言ったら失礼だね」

 優愛は軽く頭を下げて謝る。八坂は首を横に振った。

「いや、失礼とかではないけど……」

 少し沈黙になる。優愛は話題を変えた。

「あ、あのね、確認したいことがあるんだけどいい?」

「うん、何?」

「さっき、こころちゃんに私のこと紹介した時、私のこと……友達って言ってくれたよね?」

「え、あ、それは、えっと……」

 以前友達になってほしいと優愛に言われた時、八坂は断った。しかし、こころに

友達だと言ったのは確かだ。八坂は戸惑いながら優愛の顔を見る。友達だと紹介されたのがよっぽど嬉しかったのか、優愛の顔は笑顔で輝いていた。ばつが悪くなる八坂は、ゆっくりと弁解を始める。

「ここちゃん、俺に友達がいないことをすごく気にしてるんだ。だから、余計な心配をかけたくなくて。ごめん」

「ああ、そっか、そういうことか。ちょっと期待しちゃったけどな」

 優愛は残念そうに言った。しかし、あまりショックは受けていないようだ。友達になれることが最善なのだが、こうして話せるようになったことに今は満足している。友達の話から、以前のことを思い出し、質問する。

「あ、そうだ。この前、私が友達になってって言った時、私のためにもやめたほうがいいって言ったでしょ?あれはどういう意味?」

 八坂はそれを聞かれることを予測はしていた。

「それは……俺さ、学校で浮いてる存在だから。そんな俺と友達とかになったら、君も同じようになっちゃうかもしれないから。だからやめたそうがいいって言ったんだ」

「あ、なんだ。そういうことだったんだ」

 優愛は安堵のため息をついて、笑ってみせた。笑う意味が分からない八坂は、その理由を尋ねる。

「いや、もしかしたら嫌ってるから、なんとか言って突き放そうとしてるんだと思ってたから」

「いや、嫌ってるわけじゃないけど……」

 八坂は伏し目がちに言う。その姿を見た優愛は、笑顔のまま話し続ける。

「それなら大丈夫。私も浮いてるようなもんだから」

「え?」

「仲いい人とか友達とか、多いわけじゃないし。いつも将棋のことばかり考えてる将棋バカって思われてるし。ま、あながち間違ってないから反論できないんだけどね」

 照れ笑いをして頭を掻いた。八坂は、自分の想像しない答えばかりが返ってくる優愛の話を、少し面食らって聞いていた。優愛は思いついたように、声を上げた。

「あ!子どもの頃の周りの目とか、今の立ち位置とか、私と八坂くんて少し似てるのかもね!あ、また似てるって言っちゃった……」

 またも似てるという話をしてしまい、再び照れ笑いを浮かべる。八坂は面食らったまましばらく優愛の横顔を眺めていた。八坂はある言葉を思い出した。

『せっかくできた人脈なんだし、しっかり生かせよ!』

 さっき施設で森内に言われた言葉だ。

『無駄だと思うものを無駄のまま排除するんじゃなくて、それをいかにすれば無駄にならないようにできるか、しっかり向き合うことが大切なんじゃないかって、先生は思うな』

 前に授業で、大正寺谷先生がみんなに語っていたことだ。

 それを今、思い出すなんて。優愛との関係を無駄にするなというお告げなのか?

 八坂は微笑で小さく息を吐き、優愛に言った。

「いいよ。一応友達で」

「え?」

 思わず聞き返す優愛。八坂はもう一度言う。

「一応友達で、いいよ」

 優愛の顔は、ゆっくりと大きな花を咲かせた。小さくガッツポーズをし、軽く踊ってみせた。

「そんなに喜ぶことじゃないでしょ」

「ううん。だって私、ずっと前から八坂くんと友達になりたかったんだもん。一応でも、なんでも!」

 優愛の満面の笑みは、八坂の心をこそばゆくさせた。目を背けてしまい、照れ笑いを小さく浮かべる。その顔を優愛は見逃さなかった。

「あ、笑った」

 八坂は照れ笑いをなんとか回収し、優愛に目を戻した。

「八坂くん、私に対して初めて笑ってくれた」

 今度は優愛が照れて笑い、顔を八坂から逸らした。友達になれたことと八坂の笑顔が見られたこと。優愛にとってはここ最近で一番最高な時間となった。嬉しさを隠し切れないのか、スキップをしながら八坂の先を歩いて行った。その後ろ姿を見て、八坂は小さく笑った。


――君は本当に不思議な子だ。俺の何気ない言葉に大きな反応をする。君がみせる仕草や言葉に、俺の心はいつになく揺れ動く。君に対するこの感覚は、なんなのだろう……。 

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