4  誰しもが 抱えている

 二学期を終えた高校は、ただいま冬休みの真っただなか。休みの日でも登校日とさほど変わらない時間に起きる優愛は、この日も携帯のアラーム音をきっかけに目が覚めた。うーん、と唸りながら上半身を起こすと、目を擦りながらベッドから離れ、机に置いてある携帯を持ち上げる。やかましいアラーム音を切ると、携帯の画面を凝視した。ブラックアウトした画面が、鏡のように優愛の顔を写す。暗くても分かる。めちゃくちゃ冴えない顔をしている。

「あれから何も話せなかったな……」

 ため息をつくと机に携帯を置き、ベッドの端に腰掛けた。

 クリスマスの翌日が、二学期最後の登校日であった。しかしその日は、八坂に声をかけることもできなかった。クリスマスのドキドキ以降、声をかけるどころか、今まで平気で盗み見ていた八坂の顔も、見ることができなくなってしまった。

「どうしてこうなったんだろ……」

 またもため息をつくと、ベッドに横になる。自分のこの気持ちの正体を掴まなければ、この状況を打破することはできない。優愛はそう思っているのだが、なかなか自分の気持ちと真正面から向かい合うことができない。

 この気持ちの正体がなんなのか、うすうす感づいてはいる。しかし、それを受け入れることが怖いのだ。自分で自分の気持ちに踏み込むことに、こんな恐怖を感じるものなのか。

 自分では前に進めない。誰かから指摘されたほうが、楽に受け入れられるのではないかと考えた優愛は、身体を起こすと一度深呼吸をした。彼女にお願いしよう。優愛は自分に言い聞かせるように、何度か頷いた。


 冬休みでも学校に来る生徒はたくさんいる。部活動をやっている者。図書室を利用して読書や勉強に勤しむ者。そして、補習を受ける者。

二年二組の教室には、八坂と大正寺谷先生の二人だけの姿があった。普段は生徒が帰った放課後に行う補習を、午前の明るい時間から行うという、長期休みならではの光景がそこにはある。

「ちょっと休憩するか」

 大正寺谷の声に頷いた八坂は、大きく伸びをして、背もたれに身体を預ける。大正寺谷は八坂の前の席に座り、頬杖をついて八坂の顔を伺う。合点のいかない八坂は、少し眉間にしわを寄せる。

「どうしたんですか?」

 にやっと笑顔をつくった大正寺谷。身体を真っ直ぐに伸ばす。

「お前、変わったな」

「え?」

 思わず声に出して驚く八坂。大正寺谷は、くくくと小さく笑い声を上げる。

「表情は柔らかくなったし、他の奴らと話す機会も格段に増えた。高山と関わってからだろ?変わり始めたのは」

 一度目を伏せた八坂は、視線を大正寺谷に戻す。

「俺って、変わったように見えますか?」

「おう。変わったよ」

 八坂の問いかけに笑顔で答える。

「なら、そうなのかもしれないですね」

 八坂は微笑を浮かべて頷いた。

「俺もおかげでもあるんだぞ」

 得意げな顔で話す大正寺谷を見て、八坂は怪訝な顔をする。

「おかげ?」

 大正寺谷の顔が笑顔になると、八坂の肩に手を置いて言葉を発する。

「あいつのこと、大事にしてやれよ」

 大正寺谷はウインクをするとまた笑顔になる。そのウインクが何を示しているのかは分からなかったが、八坂は少しはにかむと小さく頷いた。


 補習は午前中で終わり、八坂は正門に向かって歩いている。この後どうするかを考えていると、後ろからの名前を呼ぶ声に反応し、足を止めて振り返った。声の主は美緒であり、手を振りながら走って八坂の元へとやって来た。

「八坂くん。なんか用事があったの?」

 補習のことはあまり言いたくない。なので曖昧に返事をする八坂。

「ああ、まあそんなとこ。立川さんは?」

「あたしは部活。抜けてきちゃった」

 そう言って美緒は、無邪気な笑顔を振りまいた。美緒は美術部に所属している。絵をかいたり物をつくったり、部員それぞれが思い思いに行動している自由な部活動。コンクールにも作品を出す部員も何名かおり、美緒も絵画部門にエントリーしたことがあり、入選したことがある。

 穂高は生徒会の役員をしており、学校の運営に貢献している。優愛は将棋クラブに通っており、仲良し三人組が放課後を共にすることはあまりない。

「八坂くん。お昼はまだだよね?」

「え?あ、うん」

「じゃあさ、一緒に食べに行こうよ」

 美緒は口角を上げて八坂に提案をする。誘われるとは思っていなかったので、八坂は驚いた。それにあまりお腹はすいていなかったのだが、彼女の子どものような弾ける笑顔を見てしまうと、断っては悪いような気持ちにさせられる。

「まあ、いいけど」 

「じゃあ行こ。こっちだから」

 美緒の言われるがままに、八坂は足を動かした。


 美緒に連れられて来たカフェは、以前柿の木学園へ向かう八坂を、優愛が通りの向こうから見つけたときにいた、あのカフェである。

 二人掛けの席に着くと、メニューを広げながら美緒が語る。

「ここ、優愛ちゃんたちと時々来るんだ。ドリンクのメニューも結構多いし、パスタがおいしいんだ」

 メニューを八坂の手元へ寄せる。

「あたしはもう決まってるから」

 そう、と呟いてメニューに目を落とす八坂。おいしそうな写真が並んでいるのだが、なぜか食欲が湧かない。

「決めた」

「オッケー」

 美緒は手を挙げ、店員を呼び止める。お先にどうぞ、と促され、八坂が先に注文する。

「えっと、ホットコーヒーをブラックで」

「あれ、食事はいいの?」

「あ、うん。大丈夫」

「あたしはアールグレイのホットお願いしま~す」

 店員は軽く頭を下げて、お店の奥へと消える。

「立川さんも食べなくていいの?」

「うん。部活のとき食べたから」

 笑顔で答える美緒。この人は笑う以外の表情を持っているのだろうか。まだ少ない時間しか話したことはないが、八坂は笑顔以外の美緒の表情を知らない。

 注文した品が届くと、八坂はカップを持ち上げ、数回息を吹きかける。

「優愛ちゃんて、かわいいよね」

 突然の美緒の発言に、八坂は動揺し、思い切り熱々のコーヒーを唇にぶつける。反射的に、あつっ!と声を出し、顔を引く。あははと美緒は小さく笑った。八坂はカップをソーサーの上へと戻し、小さく息を吐くと、目線を美緒に向ける。

「優愛ちゃんは顔かわいいし、背低いから、男の子からすればこう、守ってあげたい精神にかられて、モテてもおかしくないって思うんだけど……」

 美緒はカップの中の紅茶を眺めながら、話を続ける。

「将棋オタクだし、不器用なとこ多いから、めんどくさいって思っちゃうのかもなって……。あ、これはあたし個人の見解ね」

美緒はカップを置くと、前屈みになって八坂に尋ねる。

「八坂くんはどう?」

「え?」

「優愛ちゃんのこと、めんどくさいって思う?」

 しばらく沈黙となる。その間も、二人はお互いから目を逸らさなかった。八坂は眉間にしわを寄せると、美緒の目を見ながら言い切った。

「……思わないよ」

 上がっていた美緒の口角が、少しだけ下がる。

「思わないよ……」

 八坂が繰り返す。美緒は少し口を開くが、何も発さず口を閉じ、満足したように破顔させる。

「良かった!」

 美緒はカップを持つと、小さく鼻歌を歌い出す。良かった。その言葉の意味を、八坂は理解することができなかった。だが追及することもなく、カップを持ち上げ端を口へあてた。


「ごめんね。休みに呼び出して」

「ううん。それはいいけど」

 優愛は、穂高を近くの公園へ呼び出した。こういうとき、頼れるのはやはり彼女だ。

「相談って、八坂くんのこと?」

 優愛はゆっくり頷く。穂高はなんとなく察しがついていた。最近、優愛が悩んだり相談したりするようなことは、全て八坂に関わることだ。

「えっとね、この前のクリスマスの時なんだけどね。八坂くんからクリスマスプレゼントもらったの?」

「そうなの?へえ……」

 穂高の内心は、かなり驚いていた。八坂は、そういうことをするようには見えなかったから。それに、なんだか面白くない。そのため、実際に出た驚きの言葉は、いつも通りの落ち着いた声色だった。変に冷静を装った、不自然なほど落ち着いた声だ。

「そのときなんだけどね。なんて言うか、その……凄く胸がドキドキして、身体が火照って、こう、苦しくなるんだよね。今もそう……」

 そう話す優愛の顔は赤くなっている。目を泳がしながら顔を穂高に向けると、優愛は核心をついてもらうため、穂高に問いかける。

「それって…」

「好きなんだよ」

 優愛の言葉よりも先に、穂高が言い放つ。

「好きなんだよ。八坂くんのことが」

「ああ。やっぱそういうことなんだ」

 核心をつかれ、優愛は少し落ち着いたように見受けられる。他人に指摘してもらい、やっと受け入れることができた。穂高は怪訝そうに優愛に尋ねる。

「え、ていうか何、そもそもそうじゃなかったの?」

「そもそも?」

「話してみたいって言ってたけど、前から八坂くんのことが好きだったから、仲良くなりたかったんじゃないの?」

 優愛はいまだ染まっている顔のまま、手を横に何度か振る。

「ううん。あのときは好きとかじゃなくて、ほんとにただ友達として仲良くなりたいって思ってたから」

「……結構自分に鈍感なんだな」

 小声で呟く穂高。それは優愛には聞こえてなかったようで、うーん、と唸っている。

「……私、いいのかな?」

「ん?」

「八坂くんのこと、好きになってもいいのかな?」

 穂高には、優愛のこの発言の意味が分からなかった。考えよりも言葉が先行した。

「何言ってるの」

 少し強い口調。穂高は小さく息を吐くと、冷静さを取り戻すように、優愛にゆっくり語りかける。

「誰かを好きになることに、いいも悪いもないでしょ」

 優愛が顔を上げる。

「八坂くんが好きなんなら、優愛はそれに自信を持てばいいんだよ」

「そう、だよね」

「まあもちろん、八坂くんがどう考えているか次第だけどね。付き合うには」

「うん。それもそうだね」

 優愛が何度も頷く。

穂高は優愛から視線を逸らすと、胸の前で腕を組んだ。プレゼントをあげるってことは、嫌ってはいないはず。いや、むしろ好きじゃないのに、クリスマスプレゼントなんてあげるかな。

 穂高が思考にふけていると、優愛の声が耳に入り、意識を外の世界へと戻した。

「やっぱ穂高と話すとスッキリするな」

「ん?」

「穂高はいつも、はっきり意見してくれるでしょ?だから頼りになるんだよね。いつも冷静で、強くてかっこよくて」

 優愛は満面の笑みで、穂高を見上げた。

「いつもありがと」

 穂高は自分の顔が朱色になっていくことを感じ、素早く顔を背けた。こんな顔を見せるわけにはいかない。それに、そんなこと言われても嬉しくなんかなかった。照れてしまったのは、優愛の言葉にではない。優愛の表情に対してなのだから。

「……私は、そんなんじゃないよ」

 穂高の呟きは、今回も優愛の耳には届かなかった。笑顔のまま、穂高の隣に座っていた。


 カフェを出た八坂と美緒は、話をしながら通りを歩く。すると車道を挟んだ反対側の歩道から、怒号が聞こえた。二人は反射的に、声がする方向へと目を向ける。そこには、母親らしき人物が子どもを叱っていた。口調の強さも気になったが、それ以上に手を出す母親の行動が目についた。頭や顔を容赦なく叩く。見ていられなくなったのか、近くを通りかかった人が声をかける。しかし、あんたには関係ない!と凄い剣幕で食ってかかっている。

「あれはさすがにやりすぎだろ」

 八坂は呆れて言うと、美緒に視線を移した。美緒は目を見開き、息を荒くしてい

る。汗もびっしょりだ。

「立川さん?」

 美緒の異変に気づき、八坂は声をかけるが反応がない。

「立川さん?」

 今度は肩に触れて呼びかける。美緒は瞳孔が開いた目のまま八坂を見ると、肩に置かれた手を乱暴に振りほどく。

「いや、触らないで!」

 初めて見た表情。初めて聞いた口調。八坂は状況が掴めなくなる。

「どうしたの?」

 その問いかけに、美緒は八坂と距離を取った。

「来ないで、来ないで!」

 叫び声をあげると、美緒は一目散に駆け出した。ただごとではないことは、八坂にも理解できる。走る美緒の背中を、無意識に追いかける。

 美緒は、建物の間にある小さな路地に入り込むと、その場でしゃがみこんだ。八坂はすぐに追いついた。

「やだ、やだ、やだ……」

 同じ言葉を繰り返す美緒の身体は、小刻みに震えている。

「立川さん、立川さん!」

 八坂は美緒の両肩を掴むと、強い口調で呼びかけながら、美緒の身体を揺らした。

「立川さん!」

 ハッとした美緒は、八坂に目を向ける。

「大丈夫、大丈夫だから」

 荒い息、涙でにじんだ目。美緒がなぜ突然、こんなふうになったのか、八坂はまるで分からなかった。


 自動販売機の隣に置いてあるベンチに、美緒が座っている。彼女の目の前に、ペットボトルのミネラルウォーターが差し出される。

「少しは落ち着いた?」

 八坂は優しい口調で問いかける。美緒はペットボトルを受け取りながら、小さく頷いた。

「うん。ありがとう……」

 八坂も頷くと、ベンチに腰掛けた。美緒は横目で隣を見る。八坂は黙って座り続けている。美緒は、ペットボトルの蓋を開けたり閉めたりを繰り返す。

「……聞かないの?」

 先に口を開いたのは美緒だった。八坂は視線を美緒に向ける。

「なんであんなことになったのか……」

 八坂は美緒を見据えたまま、口を開く。

「言いたいの?」

「え?」

 八坂は視線を前に向ける。

「人には誰だって、人に言いたくない秘密を抱えてる。言いたくないのなら言わなくていいし、無理矢理聞く必要もない。聞き出す権利もないからね」

 少しの沈黙の後、美緒が再度尋ねる。

「……八坂くんも、秘密があるの?」

「……あるよ」

 八坂の言葉を聞き、大きく息をついた。美緒は目を一度拭うと、おもむろに話し始める。

「あたしね、小学生の時、父親から虐待受けてたの」

 八坂は目を見開き、美緒の顔を見る。虐待、という言葉に、八坂は敏感だ。

「性的虐待って分かる?」

 八坂はゆっくり頷く。

「父親は酒癖が悪くて、酔っ払うたびにあたしや母親に暴力を振るってたの。でもあたしも母も、怖くて何もできなかった……」

 美緒の目に涙が溜まる。

「暴力がエスカレートしていって、あの人は……」

 小さく息を吐く。

「……あたしを襲ったの……」

 八坂は唾を飲んだ。何も言わず、美緒の話を聞き続ける。

「耐え切れなくなった母は、あたしを連れて警察に駆け込んだ」

 再度息を吐くと、苦笑を浮かべる美緒。

「あたしね、こんなことがあったってバレないように、悟られないように、明るく振る舞うことを決めたの。初めの頃は演技だったけど、徐々に身に付いていって。今はほんとに明るい性格になれたの。だけど……」

 潤んだ目を乱暴に拭う。

「ああいう場面に遭遇しちゃうと、昔を思い出して我を忘れちゃうんだ……」

「……そうだったんだね」

 話を一通り聞き、口を開いた八坂。美緒の顔を優しい眼差しで見て、柔らかな口調で言葉をかける。

「話してくれて、ありがとう」

 男子から褒められたり、優しく接せられたりしても、照れることがほとんどない美緒。だが今回は、自分の耳が熱くなるのが感じられたため、思わず顔を逸らす。

「これか。八坂くんの武器は……」

 呟いた美緒の言葉は八坂の耳には聞こえなかったらしく、え?と聞き返してくるが、なんでもない、とあしらった。

「あ、この話、優愛ちゃんたちには言わないでね。反応が怖いから……」

 不安が現れた表情を見て、八坂は視線を逸らす。空へ目を向けると、青い空を一羽の鳥が通り過ぎていく。

「俺の秘密はね、学習障害を抱えていることなんだ」

「え?」

 思わず大きな声で反応してしまった美緒。八坂の秘密が障害であったこととは、思ってもみなかった。八坂は少し口角を上げた。

「文字を書くことが苦手で、それを隠しながらずっと生活してるんだ」

「……えっと、そんな重要なこと、話しちゃってもいいの?」

「うん。立川さんも話してくれたからね」

「……それは、優愛ちゃんは知ってるの?」

 小さく瞼をぴくっと動かすと、少し照れたように頬を掻いて頷いた。

「なぜか分からないけど、彼女には話してもいいかなって思ったんだよね。そして話してみたら、すんなり受け止めてくれた」

 八坂は美緒の目を見て、目を細めて優しい声を出す。

「今まで話したことがなかった俺の障害を受け止めたんだから、君のことも彼女なら受け止めてくれるんじゃないかな」


 長期休みはやることがない。何も用事はないのだが、家にこもっているのを嫌った由比は、意味もなく外をうろうろしていた。

「なあなあ、ちょっとあんた」

 声をかけられたように感じた由比は、ゆっくりと振り返った。そこには知らない男二人組が、にやついた顔で近づいて来る。嫌な連中に捕まってしまった。由比は小さく息を吐く。

「これ、あんただろ?」

 どうこの二人を追い払おうか考えていた由比だったが、見せられた写真に思考は一気に停止した。

「……人違いです」

「いや、そんなことはないだろ。目は隠されてるけど、鼻の感じとかよく似てるし」

 その写真は、目を黒線で隠されていた。しかし由比には、見覚えがあった。それは自分の写真。小学生の頃の由比自身の写真だった。

 冷や汗が止まらない。いろいろと言われているのだが、それは一切耳に入ってこない。違うって言い張ればいいのに、声が出てこない。ここに移って来てからは何もなかった。ずっとこのままでいられると思っていたのに。このままだとマズい。このままじゃあ……。

「おーい」

 由比には聞き覚えのある声が聞こえ、とっさに顔を上げた。声の主は小金井であった。なんで、なんでお前がここにいるんだ……。

 いつものように飄々とした声で男二人組に声をかける。

「あんたら何してんの?」

「は?」

「何してんの?」

「お前には関係ないだろ」

「関係あるんだよ」

 小金井は指を伸ばした。その先には由比がいる。

「こいつは俺の友達だから。楽しんでる顔には見えないもんでね」

 男二人組は顔を見合わせ、大きな笑い声をあげた。

「お前マジかよ!こいつが何者なのか知ってんのか?」

 やめろ!心の中で叫ぶ由比。

「どういう意味?」

 やめろ、何も言うな!

「こいつはなあ……」

 やめろ、やめてくれ!声にならない叫びが続く。

「父親が殺人犯なんだよ!」

 ……終わった。今までひた隠してきたのに、それをクラスの奴に知られてしまった。終わりだ。由比は目を強く瞑る。

「……で?」

 小金井の声を聞き、目を開けた由比は顔を上げる。

「いやだから、こいつの父親は殺人犯だってこと」

「だから、それがなんだっての?」

 由比は呆然と立ち尽くし、小金井の顔を見た。彼の顔はいつも通りだった。話を聞いて、驚いているようには見えない。

「こいつの父親が人殺したのであって、こいつは何もしてないだろ」

「何言ってんだよ。殺人犯の家族も殺人犯だろ!」

 小金井は大仰にため息をつき、鼻で笑った。

「どんな理屈だよ。人殺してない家族は殺人犯なわけないだろ」

 由比は、小金井がいつもと違うことに気がついた。目が違う。今日の目は、怒りがこもっているように、鋭い眼光をしている。

「父親は父親。こいつはこいつだ」

 小金井は決して大きな声を上げているわけではない。しかし、妙に威圧感があるように、由比は感じた。それは二人組も同じなようで、何も言えず、小金井に気圧されている。

「むしろ家族だって被害者だろ。殺してないのにこんなふうに殺人犯扱いされるし、こんなバカな連中に絡まれて。お前らみたいなクズがいるから、世の中おかしくなんだよ」

「なんだと、てめえ!」

 ようやく発した男の声を無視し、小金井は携帯を取り出し、由比ら三人に向けた。

「おい、何やってんだよ」

「動画とってんの。男二人組が無抵抗の高校生を脅迫してるって、動画サイトにアップすんの」

「てめえ!調子のってんじゃねえぞ!」

 凄んでみせ、小金井との距離を詰める。すると小金井は、急に大声を出し始めた。

「ああ怖い!殺される!襲われる!助けて!助けて!」

 小金井の叫び声は、よく通る声であった。周りに響いていることを、由比は感じていた。距離を詰めようと迫っていた男は、思わずたじろぐ。もう一人が近寄ってきた。

「おい、こいつやべえよ。関わらないほうがいいって。行くぞ」

「くそっ」

 舌打ちをすると、二人組は小走りでその場を去っていく。後ろ姿を撮り続けていた小金井は、携帯の画面を親指で操作し始めた。

「一応保存しとくか」

 一通り操作し終えると、携帯をしまい、由比に視線を移した。

「よ。大丈夫か?」


 由比は小金井が苦手だった。嫌っているわけではない。自分とは真逆の性格。いつも飄々としていて、悩みなんて抱えているようには見えない。由比が勝手に持っている印象なのだが、そう思わせる雰囲気が苦手だ。

 今もそいつは、隣でスナック菓子を、いつも通りの澄ました顔で頬張っている。何も言わず、離れもせず、由比が座っているベンチに腰掛けている。

「あの二人が言っていたのは、あながち間違ってないよ」

 沈黙を先に破ったのは由比だった。小金井は咀嚼しながら顔を向ける。由比は地面を見据えながら話し続ける。

「俺が小学生の時、親父は友人と酒飲んで、ふざけてたら友人を押し倒してしまって。打ち所が悪くて、その人は死んだ。過失致死だけど死なせたことには変わりないから、風当たりが強くて。そのうち持病が悪化して、親父も死んだ」

 ここまで一気に話すと、ふーっと長い息を吐く。

「俺と兄弟は、お袋と一緒に地元を離れた。誰にも知られていない場所に行くために。でも移動したとこで噂が広まって、また移動した……」

 小金井は黙って由比の話を聞いていた。いつのまにか、お菓子の咀嚼も止まっている。

「中学入学前にここに来て、戸籍上で名前を変えて、今の名前になったんだ」

「……つらい経験してたんだな」

 ここで小金井は声をかけた。慰めるような口調に疑問を感じ、由比は強い口調で小金井に問いかけた。

「お前は、俺が怖くないのか?」

「どうして?」

「俺の親父は…」

「さっきも言ったろ」

 由比の言葉を、小金井が遮った。彼らしくない、少し興奮したような声色で。

「お前がやったわけじゃない。そうだろ?なら怖がる必要なんてねえだろ」

 小金井は由比の顔を真っ直ぐに見据えている。

「俺は昔のお前のことなんて知らない。俺は今のお前と知り合ったんだ。昔のことなんて関係ないね」

 小金井は背もたれに身体を預ける。視線を空に向け、何かを思い出すように声を出す。

「ガキの頃、クラスメイトの財布から金がなくなったことがあってさ。なくなったであろう時間帯に、クラスにいたのは俺一人だけで。俺が犯人なんじゃないかって、責め立てられたことがあって。まあ俺はそんなことしてないし、疑われること自体も気にしてなかったから、正直どうでもいいって思ってたんだ」

 飄々としていたのは、子どもの頃からだったらしい。自分だったらそんな状況、絶対に耐えられない。由比はそう思った。

「そしたら仲間の一人がさ、俺のことかばってくれて。そんとき言われたんだ。人のことを信じられなくなったら、人間としての存在意義がなくなる、って」

 小金井は口角を上げた。

「言ってることはよく分かんなかったけど、なぜか共感してさ。それから俺は、少なくとも友達のことは信じるし、疑わないことにしてんだ」

 そう言い放った小金井は、なぜかこのタイミングであくびをした。

 なんなんだよ、こいつ。由比はますます、小金井という人間のことが分からなくなった。でも、自然と笑顔になっていく自分がいる。

「お前ってやっぱ変な奴だな」

「褒め言葉として受け止めとくよ」

 小金井は笑顔で、ペットボトルのスポーツドリンクをあおった。


 穂高と話をした翌日、今度は美緒を呼び出した。ショッピングセンターのエントランスに設置されたソファーに座り、優愛は呆けていた。

「優愛ちゃん、お待たせ」

 美緒の声が聞こえ、我に返った優愛は笑顔で頷く。その隣に美緒が座る。

「優愛ちゃんと買い物するのって、結構久しぶりじゃない?」

「そうだね」

「あたしの買い物に、優愛ちゃんが付き合ってくれてるって感じが多かったから、今日は優愛ちゃんからの誘いだから、なんか嬉しいな」

 屈託のない笑顔をみせる。優愛は美緒の笑顔が好きだ。見ているこっちも嬉しくなり、安心して、心が落ち着くような感じがする。

「私、ファッションとか疎いから。こういうのは美緒に聞いたほうがいいかなって思って」

「あんまり興味ないって言ってたもんね。今日はどうしてまた?」

「あ、うん……」

 曖昧に返事をして、視線を足元に落とした。顔が赤くならないように、心を落ち着かせる。

「私ね、八坂くんのことが好きになったの」

「うん。知ってたよ」

 美緒からの即答に、思わず顔を向ける。

「え?」

「話してみたいなってこと、あたしに言った時あったでしょ?その時から、これは優愛ちゃんの無自覚なのかもって思ってて」

 穂高にも似たようなことを言われた。自分はあの時から八坂が好きだったのだろうか。自分の心に問いかけても、その答えは見つかりそうにない。

「クリスマスの時、八坂くんのことばっかり見てたでしょ?」

「え?」

「あたしの目はごまかせないよ」

 ニカッと顔を綻ばせる。そのことには自覚があったので、優愛は照れ笑いを浮かべる。

「そしてやっと、無自覚だった恋心を自覚できたんだなって思ったら、あたしもな

んだか嬉しくなってきた」

 他人に起きた出来事も、自分のことかのように素直に喜べる。それも美緒の魅力の一つかもしれない。

「ありがと」

 優愛も笑顔で答える。

「つまり、男子ウケする服が着たいわけだ」

「うん。そんな感じ。あ、でも、女の子女の子してるっていうか、キャピキャピって感じではないような気がするんだ。私の感じからして」

 うんうん、と頷く美緒。苦笑いで優愛が続ける。

「あんまり的を射ていないよね」

「いや、言いたいことは分かるよ。優愛ちゃんらしさを保ちつつ、男子と一緒でも恥ずかしくない恰好ってことだよね」

「あ、うん。でも、そんな感じで大丈夫?」

「あたしに任せなさい」

 自分の胸を叩いてみせた。すると美緒の目は、優愛の全身を眺め始める。

「八坂くんの好きな色は?」

「色?」

「うん。知らない?」

「あ、うん。そういうのは聞く機会がなかったっていうか……」

「そっか。じゃあどんな服が好みだとか、どういうタイプが好きだとかも知らない?」

「……うん」

 八坂のことは知らないことだらけだ。これからは、もっと知っていけるだろうか。

「ならしょがない。あたしの感覚のみになるけど、優愛ちゃんのためだからね」

 美緒はウインクを決めた。


 買い物が終わった後、優愛と美緒は同じショッピングセンター内にあるカフェでお茶をしている。

「今日はありがとね」

「ううん」

 久しぶりに優愛と買い物ができたこともあり、とても満足そうに紅茶を口へ運ぶ美緒。

「八坂くんのこと、デートに誘うの?」

「あ、それでね……」

 優愛はカップを置くと、姿勢を正した。

「お正月の初詣、八坂くんのこと誘おうと思うんだけど、美緒も一緒に行かない?穂高も誘ったし」

 美緒は小首を傾げる。

「え、いいの?二人だけのほうが、優愛ちゃん的にもいいんじゃない?」

「あ、うん。そうかもしれないんだけど……」

 優愛は少し照れると、頭を人差指で軽く掻いた。

「緊張しそうで、二人がいてくれたほうが少しは気が楽になるかなって……」

「ふーん」

 美緒は答えると、黒目を上に向ける。小さな笑みを浮かべると、目線を優愛へと戻した。

「ま、優愛ちゃんがそう言うなら」

「ありがと」

 優愛は安堵の笑顔でお礼を述べる。美緒は首を横に振ると、不敵な笑みを浮かべ、小声で呟く。

「一度試してみたいこともあるし」

 それは優愛には届いてなかったらしく、微笑んだまま抹茶ラテを口に含んだ。

「でも肝心なのは、八坂くんが一緒に行ってくれるかだけど。女の子三人とだと、やっぱ男の子は嫌かな?」

「あ、それは大丈夫だと思うよ」

 間髪を容れず言い切った美緒に、怪訝な顔で尋ねる優愛。

「なんでそう思うの?」

「……なんとなく」

 美緒は笑顔でそうとだけ答えた。


 柿の木学園の食堂で、こころは子どもたちの洗濯物を畳んでいた。その隣に八坂が座る。

「手伝うよ」

「あ、ありがとう」

 八坂は笑顔で頷くと、洗濯籠を近くに引き寄せた。昨日の夜、優愛から初詣に誘うメールをもらい、承諾の返事を即答で返した。

「りゅ、龍くん最近…明るくなったよね」

 こころの発言を聞き、八坂は顔を彼女に向ける。

「え、そう?」

 こころは頷く。

「ま、前よりもしゃべるようになったし…き、綺麗に笑うようになった」

「そう、かな」

 笑顔のまま頷く。こころにそう言われると、そのように感じられる。八坂もはにかんで頷いた。


 神社の鳥居前で待ち合わせ。一人で待っている優愛を、離れた場所から覗き見ている美緒と穂高。

「こういうのって、あんまりよくないように思うんだけど」

 穂高が不満を漏らしているが、美緒は意に介しない様子。

「大丈夫。優愛ちゃんのためだから」

「だからそれが余計なお世話なんじゃないの?」

 美緒はいくつか作戦を考えてきた。その一つ目が、優愛と八坂を二人で会わそう作戦。まずは二人だけで雰囲気を作れるように。穂高は嫌々ながら、美緒に加担している。

 優愛は落ち着かないのか、もじもじ身体を動かしたり手を動かしたり忙しない。だかそれも、久しぶりに聞いた声を反応し、動きがピタッと止まった。

「高山さん」

 好きを自覚した今、嫌でも八坂のことを意識してしまう。優愛は緊張を拭えず、彼の顔をしっかり見られない。

「あ……」

 八坂のその声を聞き、優愛はゆっくりと視線を八坂の顔に向ける。

「前とちょっと、雰囲気違ってるように見えるね」

「え、あ……」

 服装に触れてほしいとは思っていたが、いざそうなるとなんと言えばいいのか分からない。

「ど、どう、かな?」

 やっと出した声は、なんともぼんやりとした発言だった。うん、と声を発した八坂。

「俺、ファッションとかよく分からないけど、これもいいと思う」

 それを聞き、思わず笑顔になる優愛。しかしすぐに照れが身体中を駆け回り、目を逸らして無意味に咳払いをした。

「よしよし、次行こっか」

 うきうきして足を進めた美緒に続き、ため息をついて頭を掻きながら穂高が続いた。

 四人が合流し、鳥居をくぐって参道を進もうとする。するとすぐに、美緒の作戦その2が発動した。

「あ、痛っ!」

「穂高ちゃん!どうしたの?」

「ちょっとお腹が痛くなってきちゃった」

「え!大変!とりあえずトイレ行こ!」

 突然始まった、美緒と穂高の茶番劇。映画のオーディションなら即座に落第だろう。目をパチクリして見ている優愛に、わざとらしい口調の美緒がセリフを飛ばす。

「あ、二人はいいから、楽しんできてね!じゃね」

 美緒は穂高を支えるように、その場から離れていった。呆気にとられる優愛。あからさますぎない?優愛は心の中でツッコミを入れる。八坂の表情を見るのが少し怖かったが、彼はあまり気にしていないように見える。

「じゃあ、行こっか?」

 優愛は頷き、八坂に並んで歩き始めた。いつからだろうか。八坂の隣を歩くのに不思議さを感じなくなったのは。八坂への思いが確信になった今、この状況が信じられず、恥ずかしさもあるが、大切にしたいと強く思うようになった。

 手水舎にたどり着く。八坂は柄杓を持ちながら疑問を唱えた。

「俺、これどうやってやるか、いまだに分からないんだよね」

「あ、これはね、まず……」

 柄杓を右手で持ち水をすくい、まず左手をすすぎ、持ち替えて右手をすすぐ。また持ち替えると左手に水をため、口をすすぐ。左手をすすいで柄杓を立てて柄を洗い、柄杓を戻す。すべての過程を、最初にすくう一杯の水で行う。

「これは一般的なやり方で、神社によっては独自のやり方もあるんだ」

「へえ、詳しいんだね」

 驚いた目で優愛の言われた通りのやり方で進めていく八坂。優愛は少し照れた。

「うん。神社好きなんだ」

 手水を終え、参道に並ぶ。八坂の疑問が続いた。

「じゃあ、参拝の方法も教えてよ」

 八坂に頼られている。有頂天になる優愛は、笑顔で自分の知識を披露する。

 賽銭を賽銭箱に入れ、鈴があればそれを鳴らし、二回頭を下げる。手を合わせ、右手を指の第一関節分くらい下にずらし柏手を二回。神様へのお礼とお願いを唱え、一回頭を下げる。これも神社によってやり方が変わるところもある。

「ほんと詳しいんだね」

 優愛は笑顔で頷いた。人が多いため、すぐには社殿までたどり着かない。八坂が小さく話し始めた。

「将棋が好き。神社が好き。……俺、高山さんについて、知らないことが多いんだよね。まあ当たり前かもしれないけど……」

「あー、うん……」

 驚いた優愛は、ただ返事をすることしかできなかった。優愛も八坂のことを知ってるようで知らないことばかりだ。先日、美緒からの質問に答えられず、その時に実感した。八坂が言ったように、当たり前のことなのかもしれない。話をするようになって、まだ数ヶ月しか経っていないのだから。しかし、優愛は少し引っかかった。なぜ、あんなことをわざわざ言ったのだろうか。考えてはみたものの、答えは出てこない。

 それから二人は何も発することなく参拝を終え、社殿から離れる。おみくじを引いている子どもの姿を見つけて、八坂が優愛に顔を向けた。

「おみくじでも引く?」

「うん、引く」

 くよくよしてても始まらない。今は八坂との二人の時間を楽しもう。優愛は笑顔を取り戻し、腕まくりをしておみくじを引いた。

「うわ、中吉。微妙……」

 独り言を呟くのは優愛。気合いを入れてこんなものか。恋愛の項目を探す。

『暫く良縁なし』

 そう書かれていた。へどが出そうだった。まさかの神からのお告げ。さっき手を合わせた時に、八坂くんとうまくいきますようにってお願いしたばかりなのに。お願いする前に、去年一年間の平穏のお礼をしたのに。どうして、神様。心の中はどんよりしてしまう。

「八坂くんはどう?」

「大吉」

「へえ、いいなあ大吉……」

 少し駄々っ子のような声を出した優愛は、口を尖らして自分のおみくじに視線を戻す。そんな優愛の姿を横目で見る八坂。口を動かしながら、でも声を発さずに読み込んでいる。自分のおみくじに目を戻す。

『すぐ近くにあり』

 八坂のおみくじに書かれていた文字。目線を空に移すと、小さく息を吐いた。

 巫女さんが振る舞っている甘酒を受け取った二人は、人の森をかいくぐり、境内の端にあるベンチに座り、熱々の甘酒をゆっくりと口の中に入れていく。人もまばらで落ち着いた空間が広がっている。

 優愛は甘酒によって通りがよくなった鼻をすすると、八坂の横顔を見る。満面の笑みで甘酒をたしなんでいる。

「なんか、凄く嬉しそうだね」

「あ、うん。甘酒好きなんだ」

 照れ笑いで答える八坂。この際だから、聞けるだけ聞いておこう。優愛はもう一度鼻をすする。

「じゃあ好きな食べ物は?」

「食べ物は、ハンバーグ、かな」

「ハンバーグ?」

「ハンバーグとかカレーとか、子どもが好きであろうものが好きなんだよね」

 なんか意外。てっきりもっと渋いというか、大人っぽいものが好きなんだと勝手に思っていた優愛。

「好きなは色はある?」

「色?色かあ。……強いて言えば、紺かな」

 優愛は素早く自分の身体を見た。全身をまとう洋服をじっくり見ていくが。

「うーん、ない……」

 紺色の物を一切持っていないことを小声で嘆く。

 甘酒が飲みやすい温度まで下がってきた時、優愛は意を決して口を開く。知りたくても聞けなかったこと。

「……好きな女の子のタイプはある?」

 八坂が優愛を見る。優愛も八坂を見ている。優愛の頬が少し赤いのは、外気の寒さのせいか、甘酒で火照っているためか、それとも……。

 目を逸らした八坂は、甘酒を飲むほすと、大きく息を吐いた。優愛は唾を飲み込む。心なしか、八坂の目が悲しんでるように見える。

「……俺のことを受け止められる人」

「え?」

「正直言って、俺は選ぶ権利ないんだよね」

 優愛は心が沈んだ。八坂がとても悲しいことを言っている。これから言おうとしている。

「俺と付き合うことになったとしたら、その人は、否が応でも俺の障害と向き合わないといけない。周りの目もある。ストレスは溜まる。その人すら軽蔑される。そんな状態になってしまうのに、俺が選んでいいわけなんかない……」

 なんでそんなこと言うの?そんなこと絶対ないのに。そう言いたかった。だけど言えなかった。八坂の横顔が、見たことない表情をしていた。なんと表現したらいいのか分からない。複雑な表情をしていた。

「だから、こんな俺を、障害者と一緒にいると感じる息苦しささえも受け止められる、そんな人じゃないとね」

 八坂の顔は笑っていた。誰が見ても分かる、作り笑いそのものだった。優愛は苦しかった。かける言葉が見つからない。

 鳥居近くで美緒と穂高と合流したのは、お昼を回った時間帯。

「いや~、迷惑かけました。ごめんね」

 美緒が軽く頭を下げる。それを言うなら穂高のほうなんじゃ……。優愛は疑問を心にしまう。そして今すぐに伝えなければならないことがある。

「今度は私がトイレ行ってもいい?」

 もちろん引き止められることはない。小走りでトイレへと向かう。優愛の背中を見送ると、美緒が一歩八坂へ歩を進める。

「ごめんね、こんなことして。嫌だった?」

「ううん。楽しかったよ。まああれは、あからさますぎると思うけどね」

 もちろん美緒の意図は分かっていた。だよね、と照れる美緒。今度は穂高が八坂に問う。

「八坂くんは、優愛のことどう思ってるの?」

「え?」

「どう思ってるの?」

 穂高の真剣さが八坂にも伝わった。少し空気が悪くなる。美緒の顔が少し歪む。八坂は穂高から目線を外す。

「……ごめん。俺は……俺はまだ、よく分からないんだ。自分のことだけど、まだ分からない……」

 うなだれる八坂。自分から聞いておいて、ばつが悪くなる穂高。

「ごめん。問い詰めるつもりはなかったんだけど……」

 穂高が八坂との距離をさらに詰める。八坂は顔を上げた。穂高は小さく笑う。

「八坂くんの気持ちを私がどうこう言えることじゃないけど、結論はどうであれ、あの子とは真摯に向き合ってほしい」

「……うん。それは分かってるから」

 八坂の言葉を聞き、少し安心した穂高。だが、自分の名前を呼ぶ声に、心臓が止まりかけた。声を方向を向く。そこには女性二人組。その一人は、去年のクリスマスに穂高がキスをした相手だった。穂高は一気に冷や汗を流した。少し呼吸も荒くなる。

「友達と来てるの?」

「あ、はい……」

「なら、邪魔しないほうがいいね。またね」

 二人組は会釈すると、トイレ行こー、と言いながら何事もなかったかのように歩き去った。穂高は、呼吸を戻そうと必死だ。

「知り合い?」

「うん。ちょっとね……」

 美緒の問いかけにも素っ気なく答える。今はそれどころではない。どうやって気持ちを落ち着かせばいいのか。それしか考えられない。穂高の異変に気づいた八坂は、いぶかしげに見る。

 穂高の息が戻りかけた時、あることに気づいた穂高は急に走り出した。美緒の呼びかけに見向きもせずに。

 女性二人組が去りながら言った言葉。トイレ行こー。それはまずい。ダメだ。今トイレに行ったら、優愛と鉢合わせになる。その時に私の話をしていたら……。


 トイレの個室から出てきた優愛は、洗面台の蛇口を捻った。それと同時に、女性二人組が談笑しながら入ってくる。

「誰?さっきの子?」

「穂高ちゃん」

 その名前を聞いた瞬間、優愛は鏡越しに二人を見た。もちろん盗み聞きをする趣味はないのだが、こんな近くで話をされたら嫌でも耳に入る。

「かわいい子だったね」

「うん。この間、キスしたんだ!」

 羨ましい、と答えながら、二人はそれぞれ個室に入る。鍵がかかる音を聞き、優愛はゆっくり振り返り、個室のドアを見る。穂高ちゃん。それって、穂高のこと?

 手をハンカチで拭きながら外に出ると、肩で息をしている穂高がいた。

「……さっき、女の人二人入ってこなかった?」

 息が上がり、声が上ずっている。汗もかき、目が不安に満ちている。優愛はゆっくり頷いた。

「何か言ってなかった?……私のこと……」

 そんなことを聞くということは、やっぱりさっき言ってた穂高は、彼女のことか。

「うん。穂高とは言ってたよ」

「なんて話してた?」

 聞こえたことを正直に話そう。

「……キスしたって……」

 穂高は大きなため息をつき、うなだれ、膝に手をついた。穂高の荒い息だけが優愛の耳に届く。穂高は顔を上げ、深呼吸をした。穂高は目を開け、優愛の目を見据えた。その目には涙が溜まっている。

 穂高を追いかけてきた八坂と美緒は、トイレ前に立っている優愛と穂高を見つけた。

「いた。ほだ…」

 穂高を呼ぼうとする美緒の声を、八坂が制する。穂高が何かを話そうとしている。それは大事なことであると直感で思った八坂。そのまま二人を見守ることにした。

 穂高は震える手を握りしめ、震える唇を一度強く閉じ、優愛に話し始める。

「優愛。今から大事な話するから、最後まで聞いてくれる?」

 声が震えている。優愛は驚いた。震えていたり、上ずっていたり、こんな穂高の姿を初めて見た。優愛も緊張していく。

「うん。ちゃんと聞くよ」

 穂高は今一度、深呼吸をする。

「あの人が言ってたのは、私のこと。キスしたことも、ほんとのこと。クリスマスの時に会ってたの。その時、キスした……」

 息を飲む優愛。穂高の目から涙が一つこぼれた。

「……私、レズビアンなの」

 優愛は目を見開いた。穂高は涙を拭わず話し続ける。

「隠しておくつもりはなかったの。いつか、いつかちゃんと言わないとって。優愛にはちゃんと言わないとって。……けど、言い出せなかった。優愛だから言えなかった……」

 鼻をすすり、息を小さく吐くと、真っ赤な目で優愛を見据えた。

「私、優愛のことが好きだから。友達としてだけじゃなくて、恋愛対象としても……」

 唇を噛む穂高。流れ出る涙と鼻水はもう止められない。

「……怖かったの。話したら、嫌われるかもしれない。避けられるかもしれない。友達として一緒にいられないかもしれない。……嫌だった。怖かった。優愛とこれからも一緒にいたい。美緒と一緒にいたい。おしゃべりして、笑って、悩んで、怒って……。これからも今まで通りでいたいから、黙ってたほうがいいのかもとも思ってて……」

 水浸しになった顔を乱暴に拭うと、頭を下げた。

「今まで黙ってて、ごめん!」

 優愛は何も言わなかった。怒ってる。嫌われた。引かれた。もう顔を上げることができない。どんどん自分の顔が歪んでいく。でもそれを戻す術がない。

ぼやけた視界の中に、靴のようなものが見えた。これは、優愛の足?そう思ったとたん、穂高の身体は優しく包まれた。

「ごめんね」

 優愛の優しい声が耳元で聞こえた。この時、優愛に抱きしめられていることに気がついた。

「なんで優愛が謝るの?」

「私、穂高のこと、強い人だと思ってた。頼りになるから、いろいろ相談にのってもらったり、アドバイスもらったり。……甘えてたんだ。強いとか、かっこいいとか言って。穂高のこと、知ってるつもりになってた。私は穂高のこと、傷つけてたんだね。本当にごめんなさい」

「違う。そんなことない……」

 優愛の肩が穂高の涙で濡れる。優愛は強く穂高のことを抱きしめ直す。

「私、強くなるから。穂高に甘えなくてもいいようになるから。穂高に頼ってもらえるくらい、しっかりした人間になるから。だからそれまでは、私のこと、そばで見守っててね」

 優愛の言葉は、穂高を長年の苦しみから解放した。拒絶されなかった。優愛のそばにいられる。涙がさらにあふれ出る。自分よりも背の小さい優愛が、今にも崩れ落ちそうな身体を支えている。優愛の背中に腕を回そうとした時、穂高は後ろからも強く抱きしめられた。ぎゅ~っ、という可愛い声と共に。

「あたしもいるよ~!」

「美緒……」

「穂高ちゃんは大馬鹿野郎だね。穂高ちゃんがレズだからって、あたしたちが友達やめるとでも本気で思ってたの?そんなわけないじゃん。だってあたしたち、穂高ちゃんのこと、大好きなんだから!」

 美緒の言葉は穂高の理性を崩壊させた。大声を出して泣いた。優愛と美緒は、穂高の名前を呟きながら、しっかりと腕を回し続けた。


――私は、何も知らない。彼のことだけじゃない。穂高のことも知らなかった。たぶん、美緒のことも。私は、強くなりたい。みんなに頼ってもらえる、他人に言いづらいことも受け止められる、そんな人間になりたい……。

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