怪獣がいた夏の日

零井あだむ

第1話 怪獣がいた夏の日


「ねぇ、■■くんってさ、東京に行ったことある?」


 無いよ、と僕は答えた。

 そうなんだ。と彼女は言った。


 彼女はいつものように、友達のほうに顔を向けた。

 僕のすぐ前の席に座る、クラスメイトの女の子。

 窓際から吹く潮風に、彼女の髪の毛が淡く揺れていた。


 あの夏のことは、今でもはっきりと覚えている。


 彼女にとってはきっと何でもない日常のうちの一コマに違いなかった。けれど、彼女と過ごした夏の日々は、僕にとって決して忘れられない記憶となった。


                 *


 僕が浅倉綾奈に出会ったのは小学生の頃だった。


 幼い頃から運動が苦手だった僕は、よく足の速い男子たちにいじめられていた。テストの点数よりも徒競走の速さがスクールカーストを決定づける教室の中で、僕の毎日はとにかく苦痛に苛まれていた。そんな中、近所に住んでいた浅倉だけは、僕に対して優しくしてくれた。


 今思えば、それは特定の誰かに対してじゃなく、みんなに対して振りまいていた笑顔だったのだと思うけど、少なくとも僕は彼女の好意を、正面から受け取っていた。この頃から、僕は彼女に惹かれはじめていた。

 

 淡い潮風に凪ぐ彼女の黒髪。

 透き通るような甘い声。

 彼女を構成する全ての要素に、僕は憧れを超えた気持ちを抱いていた。


 ――けれども、僕が彼女に相応しくないことを、誰よりも自分が分かっていた。


                 *


 放課後になると、いつものようにサッカー部の部室に呼び出された。泥と埃と、汗の臭いが混じった不快な空間で、僕はただ、殴られるだけの時間を過ごしていた。


 クラスメイトの坂原が、僕の鞄から財布を抜き出した。


 こうなる事が分かっていたから、小銭の一枚も入れていない。坂原は「しけてんな」と舌打ちし、倒れている僕の下腹部に蹴りを入れた。


 部活動の時間が終わると、僕はサッカー部の部室にひとり残された。きっと今日の練習は、ボールより僕を蹴る回数のほうが多かったろうな――と、僕は自嘲気味に笑い、立ち上がった。


 辛いのは痛みじゃない。この状況に逆らえない自分の弱さが辛かった。

 みじめな想いを抱え、帰り道につこうとしたところ、教科書を机の中に忘れた事に気付いた。課題に使うのに必要な教科書だった。

 教室に取りに戻ったところ、床に見覚えのある櫛が落ちていた。


 花柄で彩られたその櫛は、浅倉のものだった。

 僕はなんとなく、彼女の櫛を拾った。

 櫛には細く柔らかい髪の毛が何本か絡みついていた。そのまま机の上に置いておこうかと思ったが、僕は何を思ったか、浅倉の櫛をそのままポケットに入れた。


 ひどく悪いことをしているような罪悪感と、同じくらいのスリルがあった。

 明日返せばいい。誰かに盗まれるよりマシだろう。

 僕は自分に言い聞かせながら、家路についた。


                 *


 潮風に晒され今や朽ちかけた平屋が、僕の実家だった。


 時刻は夜の八時。一緒に住んでいる祖父母は既に眠っており、父親はテレビの前でいびきをかいていた。台所に立つ母親を無視して、僕は自室に向かう。


 僕の家は先祖代々続く漁業で生計を立てている。祖父も父も、当たり前のように海の男だった。分厚い手の皮にしわがれた声が、一家の印だ。体が弱く、海に出ることが難しい僕が、どうしてこの家に生まれてしまったのか。皮膚の内側まで染みついた潮の匂いが、僕は何よりも嫌いだった。


 父親は、高校を卒業したら漁師になれと僕に言う。

 母親は、ちゃんと勉強をして大学に行けと口を酸っぱくして言う。

 

 漁師になるほど体力はない。

 かと言って大学に行けるほど利口じゃない。

 この港町から出られないまま、食い扶持にありつけるだけの職に就いて、そして何も叶えられないまま、そのうち死ぬのだろうと思っている。

 どうあがいても、この港町で潮の臭いにまみれて死ぬのなら、何をしても仕方がない。この街は、大人から子どもまで、そんな諦めと無気力に包まれていた。


 そういえば、浅倉は僕にこう聞いた。

 

「■■くんって、東京に行ったことある?」


 電車とバスを乗り継げば、三時間と少しくらいで付ける場所だ。

 でもなぜか、子供のころから東京は、どこか遠い場所という思い込みがあった。

 クラスメイトのほとんどが、東京には行ったことが無いという。

 この街で生活が事足りるから、別にどうでもいいと誰かが言っていた。


 自分は頭が悪いから、実家の仕事を継がなきゃダメだから、東京に行ってもどうせ田舎もんが馬鹿にされるだけだ――諦めたような雰囲気が、右にも左にも漂っている。港町という牢獄に繋がれたまま、潮に吹かれて錆びついてゆくだけの人生。


 それがこの街での「ふつう」なのだ。


 制服のポケットを漁ると、浅倉の櫛が出てきた。

 僕は浅倉の櫛を、ジッパー付きの小袋に入れると、机の引き出しに入れ、そのまま眠りにつくことにした。


 その翌日、浅倉は学校を休んだ。


                   *

 

 異常なほど、蒸し暑い日々が続いていた。

 その頃から、予兆みたいなものはあったのだと思う。

 例えば、真夏にも関わらずオーロラが見えたりしたり。

 浜辺に謎の生物の死骸が流れ着いたり。

 人身事故で電車が止まる日が増えたり、街中から猫や犬がいなくなったりと、それは見えない形の警告だったのか、あるいは単純なカウントダウンだったのか。


 少なくとも、それは僕らにとっては突然、何の前触れもなしにやってきた。


 2020年8月12日、午後15時55分。

 

 最初に犠牲になったのは漁船だった。数隻の船を焼き尽くした後、そいつは漁港を破壊し尽くし、東京湾から上陸した。


 政府はそれを「未確認巨大生物」と呼んだ。獣のようにも恐竜のようにも見える、直立二足歩行で尻尾を垂らした外見は、地球上に現存する生物のどれにも当てはまらなかった。世間では古代生物の生き残りだとか宇宙から飛来した生命体だとか、はたまた某国の生物兵器など様々な憶測が流れていたが、正体は分からないままだった。


 東京に上陸したそいつは自衛隊の迎撃をもろともせず、街を容赦なく蹂躙し、瞬く間に東京を燃やしつくしていった。天まで昇る蒼白い炎が、東京をひたすら灰と塵に変えていく様子を、僕は実家のテレビで食い入るように見つめていた。


 大人たちが口々に「日本は終わりだ」と叫ぶ中、僕は心の中で願っていた。

 どうかこのまま、世界の全てを焼き尽くしてくれますように。

 僕のそんな淡い期待に応えるかのように、テレビの向こうの巨大生物は、燃え盛る天に向け、轟きのような雄叫びを挙げた。


 上陸から5時間後、沖縄から飛び立った在日米軍の爆撃機が投下した新型爆弾により、未確認巨大生物は沈黙した。東京のど真ん中に空いた半径50キロメートルのクレーターと引き換えに、日本は平和を取り戻した。


 現場からの生中継を聞きながら、僕は心の中で落胆を覚えていた。

 あの巨大生物が世界の全てを、僕の鬱屈した日常を終わらせてくれるような、そんな期待を抱いていた。


 テレビの向こうの話であれば、結局は映画と同じだ。

 布団に入って目を閉じると、浅倉綾奈の夢を見た。彼女と手を繋いで、どこか遠くに旅に出る、そんな夢だった。

 相も変わらず、明日はやってくる。

 起きた時には少し、目元に涙が流れていた。


                *

 

 僕はその翌日、浅倉綾奈が東京に出かけていた事を知った。

 青白い炎で燃やし尽くされる東京に途方もない興奮を覚えていた頃。

 彼女はあの火の海の中で灰と化したのだ。


 その後、サッカー部の坂原も家に帰っていない事を知った。

 浅倉と坂原は一緒に東京に出かけ、その先で未確認巨大生物が引き起こした災害に巻き込まれ、帰らぬ人になったのだという。

 お互いの両親にも知らせずに出かけた、秘密の逢引きだったと聞いた。

 浅倉と坂原が付き合っていた事は、僕以外の誰もが知っていた事実だった。

 クラスの皆が悲しみの涙を流す中で、僕だけがひとり、無表情を装っていた。


 制服のポケットをまさぐると、浅倉の櫛がそこにあった。

 櫛に絡みついた髪の毛が、僕の目に入る。

 返しそびれてしまったな、という場違いな思いが湧いた後、この櫛の持ち主はもういないのだという事実をゆっくりと、自分の中で受け入れていった。


 僕がいじめられる事は、その日から無くなった。

 僕の青春は、その日、終わりを告げた。


                  *

 

 僕が自殺を思い留まったのは、帰り道の海辺で、ある物体を見つけたからだった。

 砂浜に漂着していたそれは、赤黒い肉の塊に見えた。イソギンチャクかウミウシ辺りかと思ったが、それは明らかに。表面にごつごつとした岩のような鱗がこびり付いている肉塊は、何かから剥がれ落ちた肉片のように見えた。


 僕は何となく、浜辺に流れついた空き瓶に入れて、肉塊を持ち帰ることにした。ビニール袋に入れておいた、浅倉の櫛の隣に置いていたのは、僕のセンチメンタルな部分がそうさせたのかもしれない。


 両親が何者かに惨殺されたのはその翌日。

 浅倉の櫛が消えているのに気付いたのは、その数時間後だった。


 割れた瓶の欠片から、粘ついた液体が部屋の出口へと伸びていた。

 はじめは小さかった粘液の痕が次第に大きくなり、廊下を通り居間へと続いていた。既に事切れた両親の喉元には、何か巨大な動物に食い破られたのような傷痕と、異臭を放つ唾液のような液体が付いていた。


「■■くんってさ」

 

 居間の奥の暗闇から、ごぼごぼと粘ついた声が聞こえた。

 ひどく聞き取りづらい声だった。にも関わらず、声の持ち主が誰か理解できてしまったのが、かえって奇妙だった。


「東京に行ったことある?」


 それからの事は、あまり良く覚えていない。

 分かっている事は少しだけ。


 かつて浅倉彩奈だった少女は、姿を変えて再び東京に赴いた。

 彼女はもう一度、地上を火の海に変える為に現われた。


 かつて神は、七日間でこの世界を創ったという。

 今度はヒトの姿を借りて、本来ならとうに終わるべきだった日常に終末を告げるため、はやってきたのだ。


 僕の青春が終わった、あの夏の日。

 それは世界の終わりがはじまった日だということを、僕は知るのだった。

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