第24話 果たせぬ約束

汽車に乗って静岡南東部の村に着いた頃には昼を過ぎており、雄三たちは食事のもてなしを受けた。


初め、遠慮していた雄三は鯛の刺身に目を奪われる。口の中には涎が溜まっていた。


数日ぶりにまともな食事にありつけた事もあり、雄三の健啖ぶりは皿を砕かんばかりだった。


メリッサはそれを恥じたのか小食で、日本酒を数献受けるに止まった。


「あー、食った食った」


雄三は砂浜に座って腹を叩いた。明の親戚を出て歩いて駅に向かう途中だった。


メリッサは波打ち際に立ち、水平線を見つめていた。まるで遠い故郷に思いを馳せるように長い時間そうしていた。


波の音に耳を傾けると意識がもっていかれそうになる。雄三は眠気を紛らわせようと、熱い砂を手で掴んだ。


メリッサが戻ってくると、雄三の眠気は一遍に覚めてしまった。


「明さんの親戚の方に野菜一杯もらえて良かったデスね」


満杯になったリュックを一瞥し、メリッサはほほえむ。


「そうだね」


会話が続かない。雄三は上の空である。おもむろに服を脱ぎ、下着だけになると雄三は海に飛び込んだ。


沖までがむしゃらに泳いでみようかと思ったが、足がつかなくなった所で引き返した。水は冷たく、雄三をもみくちゃにする波の勢いは圧巻だった。


「雄三、準備体操もしないで海に飛び込むのは危ないデスよ。足がつったら大変デス」


砂浜に戻ると、メリッサがハンカチで顔を拭いてくれた。


「なんか、泳ぎたい気分だったんだよ」


雄三は滴を垂らしながらメリッサの隣に座った。塩水が傷に沁みた。


アンネの裏切りが尾を引いている。アンネが自分と寝たのはメリッサに対する当てつけだった。淡い恋心はあっけなく散った。あの会話を聞かなければ、良い思い出で終わっていたのに。


「雄三、気を落とさないで下サイ」


「俺は元気だ。気にするな」


図体のでかい男が婦女子に慰められるなんて、日本男子としてあるまじき醜態だ。雄三は涙をこらえきれなくなった。


「俺は、自分がもっと強い男だと思ってた。でも違った。失恋しただけで死にたくなった。情けねえ」


メリッサは黙って雄三の隣に座っている。風が凪いで、とても穏やかな海が目の届く所にある。


「提督は、誰にでも体を許すような女性ではありまセン。さっきは頭に血が上ってああ言っただけだと思いマス。それに”がーるずとーく”を盗み聞きする雄三もデリカシーに欠けてマス」


メリッサが言ったことを全て理解できずとも、慰められていることだけはわかった。


「俺が馬鹿だったんだよ。あいつが俺に気があると思ってうぬぼれてたんだ。もう忘れるよ」


「だから嘘とは……」


「もういいんだ。いいんだよ」


それきり、二人の間でアンネの話題が出る事はなくなった。気持ちの整理がついたことで、だいぶ楽になった。雄三はメリッサと出かけて良かったと感じた。


「俺、海を間近に見るの初めてなんだ。熊本の田舎で育ったから」


雄三は、農家の三男だった。将棋を教えてくれたのは、長兄だ。実家の手伝いをよくさぼって屋根裏部屋で将棋を指したものだ。東京に行くために金を用意してくれたのも長兄だった。眼鏡をかけて学者肌の気だての良い兄。兄は戦争に行って帰ってこなかった。


「なあ、メリッサの生まれた国ってどんな所?」


「イギリスの西にあるアイルランドという所で暮らしていました。作家のジェームズジョイスの出身地です」


「ご両親は?」


「父は不動産業。母は専業主婦でした。でも移民に家を貸していた事が保守派に露見して……」


メリッサは戦争被害者だと、アンネに聞かされていたのに雄三はメリッサの身の上を詮索していた。明るい話題が転がっているはずがないのに、軽率だった。


「ごめん、嫌な事を思い出させて」


「いえ。雄三に聞いて欲しかったから。丁度いいデス」


海を見晴らすと、まるで世界から二人だけが取り残されたように錯覚する。不思議と居心地は悪くはない。アンネと一緒だと騒がしくてこうはならないだろう。


「あー、帰りたくねえなあ……」


雄三は砂浜に寝ころんだ。アンネの事以外にも雄三には懸案があった。


「明さんにこき使われるのが嫌デスか?」


「それはいいんだけど、ちょっと困ったことがあってさ。明さんにはまだ黙ってて欲しいんだ」


雄三は昨夜起こった出来事をメリッサに相談した。


アンネが線香を上げたいと言って、仏壇の前に立った時、雄三はその背後にいた。仏壇に供えられていた明の夫の写真を見て、目を疑った。明の夫は雄三と同じ部隊にいた男だったからだ。


「まさかと思ってあの場では黙ってたけど、間違いねえ。慎太郎さんだ。どうしてこんな偶然が重なるんだ。怖いよ、これが運命だっていうのか」


「どうして明さんに黙ってマスか」


日本軍が満州から撤退する際、多くの日本人がソ連軍に捕まり捕虜となった。雄三は運良く日本に帰る事ができたが、慎太郎は命を落とした。


「あの人は俺を庇って、敵に撃たれた。俺を庇わなければ、もしかしたらまだ」


雄三はありもしない可能性の話をしようとしている。


もし捕虜になって、シベリアに送られても、すぐに死ぬとは限らない。わずかでも命を繋ぐ可能性があればそれに賭けたいと願ってしまうのだ。


「あの人、俺の兄貴にそっくりだったんだ。眼鏡かけてて、孔子なんか読んでてさ。将棋はめっちゃ弱かったけど、やさしかった。なんであの人なんだ。何にも悪い事してないのに。帰る家があったのに。あの人じゃなく俺が撃たれてたら」


「もうやめましょう」


メリッサは雄三の背中を撫でて落ち着かせる。普段は思い出さないようにしている戦時中の記憶を一度口に出してしまったら、懺悔が止まらなくなった。


「雄三は何も悪くありまセン。悪いのは戦争デス。明さんにはしばらく内緒にしましょう」


明の心の傷も未だ癒えていない状況で打ち明けるのはリスクが高すぎる。最悪雄三にも深い傷を刻みかねない。メリッサの提案は妥当だった。


「それに俺、約束も果たせてないから」


「約束?」


「慎太郎さん、明さんの旦那さんは俺に言ったんだ。絶対にプロになってくれって。平和になった世界には娯楽が必要だって。俺は口先だけで約束した。深く考えずに。もうプロになれるわけもないのにさ。もしやり直せるなら、師匠の家を出る前に戻りてえ……」


どんなに願ってもそれは叶わない。財団ならそれが可能なのではないかという望みもあったが、メリッサは否定した。


「過去は変えられません。たとえできたとしても、今の雄三とは無関係デス」


メリッサやアンネたちのいた世界と、今雄三のいる世界は決して交わることがない曲線のようなものだと説明を受けた。砂に描かれた線を雄三は乱暴に消した。


「じゃあ財団がやってることだって関係ないだろ。どうなんだ」


「その通りデス。財団の目的はデータの収集と実験デス。この世界が灰になっても構わないと思ってマス」


雄三は落胆した。財団の考えを知っていたが、改めて聞かされると、自分の小ささが嫌になる。


「メリッサは、どうしてこっちに残ったんだ」


アンネの命令を無視し、意固地になるのには理由があるはずだ。メリッサが単に逃げの手を打つとは思えなかった。


「雄三を守るためって言ったら、どうしマス?」


本気とも冗談とは受け取れず、雄三は黙った。


「未来は、変えられマス」


この時、雄三はまだ知らない。メリッサの言葉の陰には、雄三を、そして世界を巻き込む運命が絡んでいた事を。


「いまから話すことは本当の事デス。雄三、心して聞いて下サイ」

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