第23話 長いお別れ

朝起きた時、アンネの姿はどこにもなかった。雄三は服を着ていたし、一夜の夢として片づけようかと思った。


それでも雄三の体にはアンネの歯形や爪痕が残り、真っ赤になっていた。かさぶたになっている箇所もある。


虫刺されだと思いこもうとして、服をさらに着込んだ。


「くうううっ!?」


雄三は朝日を浴びながら、畳に頭をうちつけた。誘惑に屈した夕べの自分が許せなかった。相手は日本の敵かもしれないのに本気で惚れてしまった。


物音を聞きつけたメリッサが心配そうに部屋をのぞき込んできた。


「大丈夫デスか……? 雄三」


「うわあああ!」


雄三は絶叫し、布団部屋の隅に逃げ込んだ。素早い甲虫のようでありメリッサを驚かせた。 


「あ、メリッサ……、いたの。早いね」


「はい。本当に大丈夫デス?」


部屋に入ろうとしてきたので、雄三は手で押しとどめる。


「埃っぽいから来なくていいよ。それに臭いし」


「ふんふん、確かに。海みたいな臭いが……」


名探偵メリッサは知ってか知らずか真相に近づこうとしていた。


雄三は布団を被り震えている。口は南無阿弥陀仏を唱えていた。


「海といえば、今日、明さんの親戚の家に伺いマス。食料を分けてもらいに」


「そう」


アンネもいなくなり、宿もだいぶ寂しくなりそうだ。今は丁度居いい。気持ちを落ち着かせるには時間が必要だ。


「雄三も一緒に行くデスよ。支度してくだサイ」


頭をがつんと殴られたような衝撃を受け、雄三は布団をはねのけた。


「お、俺も……?」


「はい。私一人じゃ危ないからついてきてもらえと。嫌デスか?」


メリッサは心細い様子で柱の側に立っている。昨日は暴力的な集団に囲まれたのだ。一人で行かせるのは危険すぎる。


「そんなことないよ。なあ、アンネはどうしてる?」


「提督、デスか? 子供たちとまだ寝てマス」


雄三は胸をなで下ろした。


メリッサは雄三の言動を怪しみ始めている。顔を洗ってくると言って、雄三は部屋を出た。それから何食わぬ顔で朝食を済ませた。


別れ際のアンネは、情熱的な夜とは打って変わって淡白だった。  


明に挨拶をすませ、雄三にはこれといって何も言わなかった。あえてそういう冷たい態度を取ったと雄三は受け取った。未練が残らないように、気を遣ったのだろう。


九時前にアンネは子供たちを引き連れ、宿を出た。


「私、町まで送ってきマス」


メリッサは靴を踵ばきにしたまま、アンネの後を追った。


通常より多い一週間分の料金を受け取った明が奥に引っ込んだ後、雄三は好奇心に負けて外に出た。


アンネとメリッサは、遠くに行っておらず、宿の門の前にいた。子供たちはいない。剣呑な空気が離れた所からでも伝わってくる。


雄三が声をかけるかためらっていると、アンネがメリッサの頬を叩いた。甲高い音が鳴った。


「あなたのせいで、計画は失敗よ。どう責任取ってくれるの」


アンネの激しい叱責は嵐のように容赦ない。


メリッサはうなだれて、謝罪の意を表明しているように見える。 


「代表に代わって殺してやりたい気分だわ。あーあ、連れてくるんじゃなかった」


「スミマセン」


雄三はメリッサを庇いたい気持ちに駆られるが、アンネの剣幕に圧されて足が動かない。


「もう財団は手出しできないけどね、雄三は私のものになったわ。夜は私にしがみついて何度も好きだって、泣いたのよ。笑っちゃう。継ぎ接ぎだらけのあんたの体じゃ、男を悦ばせることなんてできないのにねぇ」


アンネの猫なで声は悪意に満ちており、雄三は耳を塞ぎたくなった。


最大限の侮辱にも、メリッサは耐えている。それどころか、雄三は目撃した。風が吹いた時にメリッサの髪がめくれ、口元に笑みを浮かべているのを。


「その笑い方、不快よ。やめなさい」


「いえ、提督は不憫な人デス」


責め立てていたはずのアンネが、後ろに後ずさる。


「雄三と提督が男女の仲になったのを咎めるつもりはありまセン。私には無関係デス」


メリッサは常人に比べて感覚が優れている。雄三の見え透いた嘘はとっくに見破られていた。


「深刻なのは提督の全てを手に入れないと気が済まない独占欲デス。それが原因で代表の座を追われたのではありまセンか?」


アンネは言い返すこともできずに口を噤んでいる。


「でも提督には感謝してマス。こんな体の私を拾ってくださり、養女にまでしてもらえたこと本当に嬉しかった」


メリッサの体が激しく揺さぶられる。アンネがきつくその体を抱いたのだ。厳しい態度は消え、情に訴えるように声を震わす。


「あなた、いいの!? 本当にこれで。もう会えないのよ」


「はい、ワガママな娘をお許し下さい。ママ」


静かにアンネは体を離し、足を引きずるようにして歩いていった。それが雄三が彼女の姿を見た最後である。


雄三が植木の側にしゃんでいると、メリッサの足音が近づいてくる。


「雄三」


呼びかけられた雄三は閨房を知られた恥ずかしさと、アンネの本音を聞いて動けない。


壮絶な別れを経た後なのに、メリッサの口調はからっとしていた。


「出かけまショウ。今日も暑くなりそうデス」

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