第4話 日常と、非日常と

 買い物を終えて外に出る頃には、道に陽炎が出来る程に気温が上昇していた。

 昴の口から思わず愚痴が漏れる。


 「うわぁ帰りたくねぇ。できればこのままずっと店の中に居たい。……って、そうも言ってられないんだな」


 両腕には食材やら日用品の入った大きなビニール袋が三つ。これを炎天下の中二十分をかけて家まで歩かなければならない。家に付くころには汗だくになっている事が確実で、昴は想像しただけでその場に膝を着きたくなった。

 だが、家にはお腹を空かせた最愛の妹が待っているのだ。絶対にお小言を頂戴する事間違いなしだが、背に腹は代えられない。昴は意を決して、炎天下の中へと飛び出した。しっかりとした足取りで歩いているのを見るに、途中でへばることも無いだろう。


 最初の難関である開かずの踏切を乗り越え、車が高速で突っ込んで来ることで非常に有名な、信号の無い十字路を危なげなく通過する。この頃には酷く上機嫌になっていて、鼻歌まで歌いながら最後の難関である心臓破りの坂に差し掛かった。

 昴は坂の手前で一息つくと、長く急な坂道を睨みつける。一気に登ってしまおうと意気揚々と歩き出した時、真夏日にも拘らずに黒のコートを着込み、黒のズボンに黒の靴を履いた男が坂道を下って来た。


 「――さっきの。でも違う、か? つうか、暑くねえの?」


 男はまるで酔っ払いのように、あっちへふらふら、こっちへふらふら。千鳥足で坂道を下って来る。昴は男の姿を見ながら、苦虫を潰したような顔で小さく呟いた。男はあんなに目立つ格好で、目立つ動作で坂道を下って来るのに、彼に気付く人は昴以外に誰もいない。自転車を押しながら、彼女と坂をゆっくりと登っていく大学生のカップルも。店の前で打ち水をする女性店員も。ふくよかな体形のマダムを引っ張る大型犬ですら、彼の存在は目に入らないようだった。

 と。男のポケットから、玉虫色の何かが滑り落ちた。

 男はそれに気付いていないようで、坂道を下り終えると今度は一転して非常に滑らかな動きで、瞬きする間に昴の視界から消えてしまった。


 (……何だ、これ?)


 あっという間の出来事に驚きつつ、昴は風に煽られて足元にまで飛んできた紙を拾い上げる。

 表面は玉虫色に光り輝いていて、裏を見てみると訳の分からない文字がびっしりと書き込まれていた。

 周囲を見渡してみても、男が戻って来る気配はない。暫くその場に立ち尽くした後、警察に届け出ようとしたその時――。


 「あぢいふgvぁ、ぎゆうじゃ」

 「!?」


 真後ろから酷くしわがれた声が聞こえてきて、昴は驚きのあまり飛び上がった。

 人の気配に気付けなかったからだけではない。その声が、昴の頭の中に直接聞こえてきたように感じたからだった。

 早鐘を打つ心臓の音が酷く煩い。昴は大きく深呼吸をすると、眉間に皺を寄せてキッ後ろを振り返る。持ち主が自ら現れてくれたことにホッとしているが、悪戯にしても非常に質の悪いモノだと言わざるを得ない。

 おかげで昴は心臓の泊まる思いがしたのだ、文句の一つでも言ってやらねば気が済まなかった。

 が、目に飛び込んで来た光景に今度こそ背筋を凍らせた。


 ――その男には、顔が無かったのである。

 本来ならば顔があってしかるべき部分には、どこまでも昏く、何もかもを呑み込んでしまいそうな深い闇が渦巻いていた。

 そのあまりのおぞましさに昴は顔を引き攣らせた。極度の緊張と得体のしれないモノに対する恐怖から、無意識のうちに前傾姿勢になり、ゆっくりと後ずさる。


 「ちゅdsうぇ、ぎぎふぇg。ゆhdりぇ。dふぃgjぐfヴぃふぉ?」


 全身真っ暗闇の男は意味不明な単語を発しながら、何かを返してくれと言わんばかりに右腕を突き出す。昴は今すぐに走って逃げ出したい衝動を必死に堪えつつ、相手を刺激しないようにゆっくりと後退しながら男の様子を伺う。


 「しゅyし?……っでぃえr」

 (ぅえ? か、返してほしいのか?)


 言葉が通じないことに気付いたのだろう、男は喋るのをやめると、何処からともなく黒いカードケースを取り出す。昴の手に握られている紙を指さし、自分の顔に向けると、カードケースの中から同じ玉虫色の紙を取り出して、右手に乗せる動作をした。

 昴は男の仕草に、ようやく意図を掴んだのだろう。いつでもダッシュで逃げられるように体重を後ろにキープしたまま、荷物を置いて恐る恐る近づくと、男の掌に玉虫色の紙を乗せた。


 「fjlくぇ」

 「あ、その紙で合ってるみたい、ですね。持ち主が見つかってよかったです。それじゃ、僕はこれで失礼します!」


 男は紙の裏表を確認しながら、小さく頷く。一刻もその場を離れたかった昴は、勢いよく頭を下げると、くるりと回れ右をして荷物の置いてある場所へと走って戻る。

 よっこらせとビニール袋を持ち上げると、嬉しそうにしている男の横を通って坂道を上がり始めた。


 「qwjもぃd! ちmりっち?」

 「へ?」


 立ち去ろうとする昴を呼び止めるように、男が再び意味不明な言語を発した。振り返ると、男は昴にバンザイをしてみたり、指を左右に振ってみたりと奇怪な動きをしている。

 坂道を下って来た小学生の集団が、坂道で立ち止まる昴を胡乱な目で見る。その時彼らは、昴が坂の途中で一点を見つめたままボーっと突っ立っているように見えていた。

 そんな事とは露と知らず、昴は聞き取れない言語で話しかける男を注意深く見つめる。


 (なにあれ……。こわ、近寄らんとこ)

 「dっだしゅに。――ぐりるり$」

 「え? ――うわっ!? な、何するんですか!」


 その場から動こうとしない昴に業を煮やしたのか、男は意味不明な言語を呟く。

 聞き返したことを後悔した時には、もう遅かった。男はすさまじい速さで昴に近づくと、もの凄い力で右腕を掴んだ。

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