第5話 昴に迫る危機

 悲鳴を上げて後退る昴の腕を掴むと、男は今度は何かを確かめているかのように、体中をバンバンと叩き始めた。

 昴は何とか振りほどこうと、牛乳などが入っているほうの重い袋を振り回して抵抗する。しかし、がっちりとホールドされた腕はびくともしない。それはまるで、万力で腕を固定されているかのようだった。

 もがけばもがくほど、昴が逃げ出さないようにと、男の掴む力がどんどん強くなっていく。


 「だり。……げhでげhで」


 苦悶の表情を浮かべる昴に、男は満足そうに頷くと左手を虚空に翳して玉虫色の門を作り出した。遂に身の危険を感じた昴は、道行く人に助けてもらおうと周囲を見渡したのだが、なぜか人っ子一人通っていない。

 いや、そうではない。目に見える景色が、全て灰色に染まっていた。二人のいる空間に風は無く、匂いや音すらも存在していない。この瞬間、スバル達のいる空間は、時間という概念から切り離されていた。

 その、余りにも現実とはかけ離れた光景に、昴は戦慄する。

 男は恐怖で身を竦ませる昴を小脇に抱えると、耳障りな歌を歌いながらゆっくりと門へと歩き出す。目的を達成したことに満足しているのか、男が小さく嗤う。


 「嫌だっ! やめろよ、放せって! 誰か、助けてくれー!」

 「bどふl。jgめぃーだ――も!?」


 門に頭半分突っ込んだところで、昴はやけくそになりながら男の腕の中で大きく暴れて必死の抵抗を試みた。当然、昴の声に反応する者は誰もいない。

 往生際の悪い昴をあざ笑っているのか、男が小さく肩を揺する。そのまま強引に門の中へと一歩踏み出したその時!

 門の中から暖かな光が溢れ出し、昴は弾き飛ばされて地面を転がった。


 (な、何だ!? あの光?)


 門から溢れ出した眩い光は光の帯となって昴を包み込んだ。よろよろと立ち上がると、あの男は光の帯によって押さえつけられ、地面にうつ伏せになっていた。抜け出そうとじたばたともがいているが、光は更に眩さを増して男を地面に縫い付ける。奇しくも、先ほどまでと状況が反転していた。

 昴が動けることになった事で、固定されていた空間に時間が戻り始めた。灰色の世界に色が差し込み、騒がしい音が聞こえ始める。


 昴に纏わりつく光の帯は、すうっと体の中に溶けていった。恐怖で凍り付いていた心が熱を帯び、再び行動を起こす為の推進剤に変わる。


 (――お願い。まだ、動かないで)


 光に身を委ねていると、そんな声が聞こえた。男の声と同じ、頭の中に直接響いて来る声だったが、その声色に険しさは無かった。昴は逃げ出そうとしていた足を止める。


 「え?」

 (今動かれると、空間軸の操作に支障が出るの。だから、もう少しだけ待ってて)


 再び聞こえてきた声は、若い女性の声だった。

 毅然とした中に優しさを含んだその声は、昴にそう言うと黙り込んだ。どうやらこの女性が光を操っているらしい。

 光は暫く二人の間を漂っていた。が、男の抵抗が一瞬だけ弱まった隙を狙って光の帯で縛り上げると、強制的に立たせて門の中へと引きずり込む。

 男はその力に抗いながら、なおも諦めきれないのか昴に向かって手を伸ばす。漆黒に染まる顔は、急な妨害に怒り狂っているようにも、戸惑っているようにも見えた。

 昴は痛む右腕を摩りながら、気迫を込めて男を睨み返す。

 永遠にも続くかと思われたにらみ合いは、妹からの着信で終わりを迎えた。


 「……はい」

 《ちょっとお兄ちゃん! いつまで買い物行ってんの? もう二時間も経つんですけど!》

 「ああ、えっと、ごめん。今ちょっと立て込んでてさ、後にしてくれない?」

 《へ? なにそれ、また人助け? やるのは良いけど、いい加減しゅうしょ――》

 「了解しましたマイシスター! 今から帰還しますゆえ、これにてご免仕る!」


 通話口から聞こえてきた不穏な単語を通話終了という形で強制的にシャットダウンし、ヘッドセットをポケットに仕舞う。

 いつの間にか門と男は消えていて、辺りにはいつもと変わらないのどかな住宅街が広がっていた。坂道の途中でポツンと立ち尽くす昴を、店の店員や歩く人は不審そうに見ているが、目を向けられている本人はそれに構っている余裕などなかった。

 どっと疲れが押し寄せてきた昴は、その場に座り込んだ。全身に鳥肌が立ち、冷や汗が噴き出る。きりきりと痛む心臓を服の上から抑えていると、若い夫婦が心配そうに顔を覗き込み、水の入ったペットボトルを差し出してきた。

 自らを楠木努くすのきつとむ楠木美来くすのきみくと名乗った若い夫婦、は坂道の途中にあるカフェから昴の事を見ていた。

 昴が急に挙動不審になったと思ったら、その場に突っ立ったまま大声で助けを求めているのを見て、ただ事ではないと思ったと言う。

 昴は素直にペットボトルの水を貰い、それを一気に飲み干す。未だ膝ががくがくと笑っていたが、楠木夫妻の手を借りて勢いよく立ち上がる。

 昴は一つ大きな息を吐くと、夫婦にお礼を言って自宅に続く長い坂道を再び登り始めた。

 幸いなことに、中に入っていた卵やら豆腐やらは潰れていなかった。

 しかし、シャツの色が変わる程に汗を掻き、ぶつぶつと独り言を呟きながら歩くその姿は、第三者に与える印象を鑑みれば先ほどの男と大差ないものであった。


 結局、通常の倍以上の時間をかけて買い物をしていた昴は、帰って来た途端、妹にどやされるのであった。

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