11.2 新月

 午後一番にいよいよ移植が始まった。舞子に加えて義肢研究室の鱒淵と小野塚がドルフィン9の周りに集まって手短にミーティングを済ませ、生体モジュールを外す。換装方法はドルフィン9のコンピュータからテキストデータをダウンロードして、ロシア語の講義の時間を使って分担して翻訳をやっておいた。それによれば循環器ユニットにはバッテリが仕込んであるので外部電源なしでも三十分程度であれば脳に負担はない。急いでX線写真を撮り、投影器の中身を検分して、舞子のつくった義体の頭蓋に脳と投影器を、胴体に循環器のモジュールを収める。休日なので見物客が何人か部屋の手前側の隅に集まっていた。

 ベッドの上の義体の胸部から黒いミミズのようなUSBケーブルが伸びてベッドの下に置いた大型のパソコンの背中に刺さっている。パソコンの後ろから伸びた別の映像ケーブルが床を這って舞子のデスクの横に置いたディスプレイに繋がっている。パソコンはほぼクリーンな状態でOS周りはF12の中枢コンピュータのシステムを模している。さっき舞子が言っていた通りだ。ドルフィンはこれをうまく使って義体に適応する。

 どうだろう。体が動いて、目が見えて、声が出れば成功だが、駄目ならユニットの後頭部に赤いランプがあって、それを点けて知らせるから、という。身体を持たない時の彼女が唯一意思表示を行えるのがそのランプだった。舞子たちが義体と生体モジュールの様子見に集中している間、松浦は作業台の下に屈んでずっとランプを見ていた。しかし結局のところランプが光ることはなかった。ドルフィンは諦めなかったのだ。

 ほんの小さな動きでいいから、生命の兆しが義体の上に表れるのをそこに居合わせた全ての人間が待っていた。十分過ぎ、三十分過ぎ、一時間経った。次第に見物客は減り、舞子たちも交代で休憩に出ていく。私と檜佐も飲み物を取りに行くついでに少し体を動かして三十分ほどその場を空けた。松浦だけがじっと義体の傍に留まっていた。三時間経ち、六時間経ち、それでも二度用を足しに出ただけだ。食事も持ってきてやらないとならなかった。まるで松浦の方が入院してしまったみたいだった。少し多めに持ってきた石黒お手製の唐揚げを舞子がばくばく食べていた。

 そして終いには夜になった。バイタルは安定しているようだから、ということで鱒淵医師と小野塚技手は退勤する。廊下の明かりが消える。周りの建物も暗くなる。私も二十時過ぎにはいい加減つまらなくなった。

「帰ろうよ」と檜佐。

 松浦は首を振る。

「今日は私もここで眠るけど、アラームをセットしたから何か動きがあればわかるわ。だから大丈夫よ」舞子も帰るように勧める。

 エウドキアが自分で制御するシステムとは別に全身のモーターの動作を観察する電極がヒューズの下に取り付けてある。この回路はメーターを通して舞子のパソコンに繋がっている。

「ついておきたいんだ」松浦は義体の腕をリハビリのように動かしながら答える。

「じゃあ、シャワーだけでも浴びてきて」と舞子。

 松浦は少し不服そうな顔をする。

「これ以上私の部屋に残るなら、それが条件」

 松浦は指を広げて耳と頬に当てる。何かあったらすぐに電話しろ、という合図。舞子は建物の非常口の鍵を渡す。

 松浦は足早に私と檜佐の先を歩いた。緑色の非常灯だけの暗い廊下を抜け、階段を降りる。玄関はシャッターが下りていてそれを内側から見るのはちょっと新鮮だった。外に出たところで松浦は伸びをして「こんだけ動かないと体が鈍る」とその場で何度かジャンプスクワットを繰り返した。それからボクサーのように小刻みにステップ。空気は冷たい。車の鍵を開ける。

「車?」と松浦。

「夕食持ってくるのにさ」私。

「唐揚げ、あったかかったでしょ」檜佐。

「ああ……」松浦。

「走りたいの?」檜佐。

「好きにしろよ」私。

 松浦は別に急ぎたいわけじゃないのだ。ドルフィンのことは気がかりだけど、でもそれは自分でもどうしようもない気持ちなのだろう。

 私たちが寮に戻ってから二分と経たずに松浦も息を切らして入ってきた。十分ほどで入浴を済ませて新しい服に着替え、車で出て行った。さすがに体が冷えると思ったらしい。


 ……


 松浦は研究室に戻ってきて鍵を返し、ドルフィンの様子を尋ねた。

「いいえ、まだ何も」舞子は答えた。

「そう」

 松浦は義体の手首に触れ、瞼に触れる。しばらく指を置いて慎重に反応を確かめた。

「湯冷めしてない?」

「え?」

「髪が濡れてる」

「いや、車で来たから」

 舞子は首を振る。そんなことはわかっている、という意味。「窓からランプが見えた」

「まあ、暖房が効くほど長く乗ったわけじゃないけど」

「何でもいいけど風邪引かないでね。コンセントは壁のを使って」舞子はデスクの上に出したドライヤーに手を置く。「私もお風呂に入ってくるわ。ここの数値を見ておいて」

「どこ?」

「こことここ」舞子は松浦がディスプレイを覗き込んだところで横に顔を寄せてリアルタイムのグラフのいくつかを指差す。「それからここ」

 舞子は鞄を持って部屋を出ていく。九木崎の母屋にも一応の宿直室やシャワー室は揃っている。

 一人になった松浦は舞子の椅子に座って軸の滑らかさを確かめるように何度か左右に振り、半身にしてデスクの縁に右肘を置いて画面を確かめる。16:9のディスプレイを縦長に置いたものが横に二つ並んでいる。X線写真などを見るには縦長の方が都合がいいようだ。

 しばらくグラフに動きがないので席を立って義体の様子を見に行く。目の上に手をかざし、また腕をとって麻痺患者の按摩ように動かす。時々呼びかけ、ランプを確かめる。点滅はない。表には見えないだけでエウドキアは今も無感覚の深海を抜け出そうともがきながら少しずつ浮上しつつある。本人にだけはその手応えがわかる。

 四十分ほどして舞子が戻ってくる。トレーナー地の紺のワンピース、下に厚手のレギンス。頭も洗ったようだ。義体とパソコン二台を一通り確認してから髪を乾かす。ドライヤーをロッカーに仕舞って、冷蔵庫からコックレルのシードル・ドゥ、キャビネットからグラスを二脚を取り出す。繭形で脚の付け根に段差がないロナのフルートグラス。

 松浦はそれを見て目を瞑って首を横に倒した。眠くなるから嫌だという仕草だ。ベッドの横に丸椅子を置いて座っている。

「私が一人で飲むの?」

 松浦は溜息。仕方ない。

 舞子はベッドの隣の作業台にグラスを置いてシードルを注ぐ。台の上は細かな工具や部品の箱で雑然としているが昼にケーキを食べるために開けたスペースはそのまま残っていた。二人は台の角を挟んで座る。

 部屋の中だけは煌々と明かりが点いている。二人や義体の肌を青白く照らしている。カーテンを引いていないので真っ暗な窓がバレエ教室の鏡のように内側の景色をくっきりと映し出していた。廊下にも窓の外にも人の気配はない。壁の中の水道管すら寝静まっている。まるでその部屋だけが遠い宇宙の縁に放り出されてしまったみたいに感じられる。部屋の壁は辛うじて気圧を保っている。でも壁に触れると外側にある底なしの静けさが伝わってくる。

「あなたは彼女のことが好きなのね」舞子はグラスを渡しながら訊いた。その手の影がテーブルの上にくっきりと落ちる。

「惹かれている。そういう表現の方がたぶん正しい」松浦は言った。

「違う?」

「人間の愛情表現は彼女にはきっと通用しない。俺を惹きつける、それがまさにエウドキアなのか、それともドルフィンなのか、自分でもまだわからない」

 舞子は自分のグラスを差し出して少しだけ松浦の顔を覗き込む。

「エウドキアの目覚めを祈って」と松浦は短く乾杯の音頭を取る。ちんとグラスがぶつかる。

「舞子さんは帰らなくていいの?」

「今日は遅くなるかもしれないと思って言ってあるのよ。もちろん早く上がれればその方がよかったけど」

「実家」

「うん」

 舞子の声のトーンが少しだけ低くなったのを松浦は見逃さない。これ以上踏み込まない方がいい。

「別に話したくないわけじゃないの。ただ少し九木崎という職場に気が引けるだけ。だって私の両親って九木崎の事業にあんまり肯定的じゃないんだもの」

「どこが嫌いなんだろう」

「私が九木崎の子供たちとあまり密に親しむのが嫌みたいね」

「ああ」松浦は一瞬だけ片笑いした。「生まれが違うと思うわけだ。煮雪さんちはなかなかのお金持ちだって、確かに聞いたことある」

「九木崎の教育はそこらの公立よりずっとまともだって私も何度も言ってるんだけどね」

「問題のある親の血を引いていることがそもそも受け付けないんだ。そういう集団に含まれる人間と深く付き合うことは何らかの形で娘を、なんというか……いわば穢してしまうおそれがある。そこで娘の人生が高められることはない。そう思っている。例えば言動の粗暴さによって傷つけられるかもしれない。無教養な趣味嗜好によって孤立、あるいは毒されてしまうかもしれない。そんなことになるよりハイクラスな人間たちの中へ上っていってほしい」

「私はあなたたちが粗暴で無教養だなんて思わない。でも蛙の子は蛙みたいな考えをお父さんが持っているのは、そうみたい」

「それも事実だ。蛙の子は蛙」

「そうかしら……」

「例えば、ネグレクトは少なからず子供の御しにくさに起因する。それは子供の方の資質であって親の育て方の問題じゃない。でもその資質は親からの遺伝かもしれない」

 舞子はゆっくりと頷く。肯定せざるを得ないが納得はしたくない、といったふう。

「主に嫌がってるのはお父さんの方?」

「うん。お母さんはわからないでもないみたいなんだけど、合わせるタイプの人だから」

「舞子さんはこの仕事に誇りを持っている。自分でやりたくて続けている」

「うん」舞子は頷いて微笑む。

「俺がご両親のことを悪く言うのは舞子さんを傷つけるかな」

「いいえ」

「悪いところはある。でも人として全てを嫌っているなんてことはない。好きなところもある。尊敬しているところもある」

 松浦は相手の目を見てその返事が本心かどうか確かめた。

「全ての親には問題があるよ。多かれ少なかれ。子供に悪いものもあるし、悪くないものもある。社会的人間としてはおかしいけど、子供に正しいことを教えられる親もいる。その逆もいる。だけど、全然別のバロメーターもある。舞子さんが我々と同じ境遇にならなかったのは単に親に破局を回避するだけの経済力があったからか、あるいは陥った破局を乗り切るだけの経済力があったからかもしれない。お金があるからまともな親に見える、お金がないからまともな親に見えない。それだけのこともある。蛙の子は蛙理論はその点が非常にまずい。蛙の子でも潤沢な資金を投下した環境で育てば鷹にもなる。……この場合、鷹でいいのかな。とにかく立派な人間、上品で教養高い人間ということだけど」

 松浦と舞子は顔を見合わせてゆっくり首を捻る。

 松浦は話を続ける。

「その点でお父さんが立派な親だと思えないな。世間的によくできた人間かどうかは別にしてだよ。もっと本質的に、子供にとって、親として。これはほんの直感だけど、そんなに間違っていないと思う。親の良し悪しなんて本当に微妙なものだと思う。だけど、舞子さんがそんなふうに後ろめたくなる親はやっぱり駄目なんだよ。親は子の人生を矯正することはできないし、どんな道を選ぼうと受け皿を用意してやらなきゃいけない。だいたい子供が自分の期待と違う方へ向かっている時点で血の理論をもっと広く否定しなきゃいけなかっただろう。彼が忌むべき血は自分自身の中にもまた流れているのだと思う」松浦は優しく、しかし毅然とした口調で言った。

 舞子は最後までその言葉に向き合ったあと目だけをしばらくの間俯けて「私、弱いわね」と呟いた。その白い指先はグラスの台をテーブルに押し付けている。

「すまない、きつい言い方をしたかもしれない」

「いいの」

「舞子さんは弱くない。引き離されなかった分、長く戦ってきたことになるんじゃないかな」

 松浦がそう言うと舞子は浅く俯いたまま溜息をついて肩を丸めた。それから席を立ってキャビネットの引き出しを開ける。

「要くん、ソケットの掃除してないでしょう?」

「まあ。いや、いいよ。昨日自分で拭ったばかりだ」松浦は舞子が何を持ってこようとしているのか背筋を伸ばして窺いながら言った。

 舞子は何も言わずに薬箱から綿棒を一本出して引き出しを閉め、作業台の上からキムワイプを一枚取って松浦の背中に回った。

「前を向いて」

 松浦は少しの間じっとしていたが、諦めて言われた通りにする。シードルを一口流し込む。「お任せします」

 舞子は松浦の窩の蓋を開けてシール部分をキムワイプで拭い、端子の間に綿棒の先を優しく差し入れた。

 松浦は顎を引いて目を瞑る。

「私たちがやっていることは人間や生命に対する冒涜なのかしら」舞子はふと訊いた。

 生命に対する冒涜。

それもまた彼女の父が言ったことなのかもしれない。

「そうかな。少なくとも俺は気持ちがいいけど」松浦は答える。

 舞子はくすっと笑った。

「あなたも冗談を言うのね」

「私たちがやっていることって、義体をつくるだとか?」と松浦。

「そう。機能補完以上の義肢をつくること、外部身体に適応させること、人間を機体に埋め込むこと、組織片から人体を培養すること」

「サナエフもの中に含めるわけだ」

「だって、彼らも同類でしょう。やっていることは彼らの方が大胆に見えるけど、それらはほとんど同じ直線の上にあるのよ。九木崎の研究も方針によってはそこへ行きつく」

 松浦は少し時間をかけてその可能性を吟味した。

「確かに、生まれ持った肉体を大事にしなければならないと考える人々にとっては冒涜かもしれない」と彼は言った。

「あなたもそう思う?」

「思う。でもそれもまた一つのイデオロギー、一つの価値観だ。人類の進歩は常に古い価値観に対する冒涜だったよ。森林保全はかつて飢えと闘いながら必死で耕地を確保してきた人々に対する冒涜だろうし、言語や文字と引き換えに人間は繊細な感情表現に対する意識を希薄にしてしまったのかもしれない。でも、それでも新しい時代が結果として正しくなかったなんて誰にも言えない。人間は過去の自分を冒涜しながら進んでいくしかないんだろうと思うよ。さもなければそこにあるのは停滞と死だ」松浦は首筋を舞子の手に委ねたまま言った。

「冒涜」舞子は呟いた。

「あるいは衝突」と松浦。

「そうね」

 舞子はそれからしばらく静かに掃除を続けていたが、あるところで手を止めた。松浦の肩を手で押さえたまま動かなくなる。

「舞子さん?」松浦は呼んだ。綿棒が刺さっているので下手に振り向けない。

 それで舞子がさっと手を引いた。半分眠っていたのだ。慌てて窩の中を一拭いして蓋を閉じ、自分の席に戻って目の間をぐりぐりと摘む。瞼を閉じ、そしてゆっくりと持ち上げる。松浦は窩の蓋を確かめながらその様子を見守っていた。

「眠そうだ」と松浦。

「まだ平気」

「どうして。眠ればいい。義体を作るためにずっと頑張ってた。疲れてるんだ」

 舞子はちょっと手を擡げて溜息をつく。「そうね。要くんの言うとおり。でもなかなかこんな風にゆっくり話せないから、もったいなくて」

「いいよ、今度にしよう。できるだけ早く」

 舞子は目を細めて松浦を見る。せめてもの抵抗だった。

「今は心配なんだ」

「……わかった。ありがとう」

 二十二時を回る。松浦がシードルの瓶にコルクをしてグラスを洗う。その間に舞子は彼のためにもう一床のベッドを整えて、それからソファの上に布団を広げてこんもりした羽根布団を被った。建物の暖房が切れているのでパネルヒーターをすぐ横に立てておく。間もなく寝息を立て始める。松浦は分厚いジャンパーを着たまま義体の横で寝落ちしている。


 真夜中を過ぎてついに駐車場の灯りが落ちる。周囲の暗さに耐えかねたように最初の一灯が消え、それを追って残りの二十余灯も自分が最後にはなるまいというようにぱたぱたと消えていった。

 そして宇宙の広がりのように圧倒的な闇が訪れる。新月の夜空に地上の輪郭を照らしうるものなど何もない。星々の淡い瞬きは大気の上層に薄く押し留められている。森とアスファルトの境界が溶け、部屋と外界の境界が溶ける。時の流れとともに星々が透明なドームの上にゆっくりと光の尾を描き、やがて西の稜線に雨の筋となって降る。

 うみへびの頭がその天の縁に噛みつこうとする頃、おとめ座のスピカが南の空に昇る。その影は静かに大気のスクリーンを破り、窓ガラスをまっすぐに透過して義体の額の上にふっと止まる。星の影はシリコンの肉を覆う鹿革のすべすべとした肌の上を撫でながら眼窩の間をすり抜けて鼻梁を上り、鼻先から唇にかかる曲線を滑り、薄い唇の谷を越え、顎の突端から喉へ落ちる。そして首元の丸い窪みの中で止まる。

 それはある種の誕生のようだった。開いたままになっていた瞼が日蝕のようにゆっくりと閉じ、それからまたはっきりと開く。水色の虹彩が収縮を繰り返す。

 研究室の中はもはや完全なる闇ではなくなっていた。パソコンのディスプレイが青白い光を湛えていた。舞子のパソコンがアラームを鳴らす。それは必ずしもけたたましい音量ではない。隣の部屋で鳴っている目覚まし時計のような遠い音だった。

 エウドキアは横になったまま音源に目を向ける。一度元に戻し、それから眼球の動作を確認するようにして再び向ける。接続しているパソコンの無線機能をアンロック、近場のアクセスポイントから作動しているコンピュータを探索し、舞子のパソコンを見つけ出して制御をリンク、スピーカをミュートに。

 そのハッキングか、あるいは目を動かすことに疲れたのかもしれない。真上を向いて瞼を閉じる。肩から下にかかったシーツの下で両手を動かす。掌を上にして指先でシーツに触れ、憑かれたように指を動かす。シーツの上からはもぞもぞとした十本の指の動きがわかる。義体の手と指には温覚や滑り覚がついた触覚センサーが埋め込まれている。触覚というものを確かめているのだ。今の感覚、これが触覚。これまで半日近く新しい身体の内側に籠って少しずつ感覚の網を広げたのと同じように、また時間をかけて義体の運動機能に適応していく。今の彼女は星の運行よりもっと長い時間の流れの中に生きている。

 そして素人が初めて操縦するクレーンみたいなぎこちない動きで手をシーツの外に出し、顔の前に持ってくる。ディスプレイのバックライトの冷たい光が手の輪郭を縁取る。新しい目が捉える情報の受け取り方もまだ完全ではないはずだった。

 エウドキアはそれからさらに一時間ほどかけて体を起こした。腕を前に伸ばして上体を立たせる。膝の横に松浦が伏せって眠っている。彼女にはそれが松浦であることがすぐにわかる。じっくりと見つめ、寝息の長さを測り、眠りの深さを測る。そして慎重に距離を測りながら手を伸ばし頭に置く。ネコを撫でるように後ろへ撫でる。何度も何度も。髪の間に指を差し込んで毛並みを整える。手の甲で頬に触れる。撫でながら目は部屋の中を見回す。自分の体のスケールを確かめるように。

「可愛い人」とそして呟く。明瞭な発音の割にとても小さな声量だった。

 声は口腔の奥にあるスピーカーから発している。義体の舌や唇は音の響きを変化させるだけで発音には関与していない。顎と口は半分ほど開いたまま、まるで大昔からそこにある洞窟のように動かなかった。生身の人間がそんな風に口を開けるのは何か頭を使うことに集中している時、あるいは眠っている時、とにかく顎の筋肉に意識が行かなくなって弛緩している時だろう。舞子は義体の顔面の筋肉も生身を模して造ったはずで、ある意味では自然な状態なのかもしれない。

 彼女は松浦が伏せているのと反対側のベッドの縁から足を下ろす。シーツがはだけて床に折り重なって落ちる。関節に無理をさせないように気を使いながら腕を伸ばして拾い上げ、立ち上がって胸から下に巻きつける。

 シーツが松浦の手の下からずるずると引きずり出される。その僅かな感触が彼の意識を小鳥の嘴のようにつつく。松浦は顔を横にして薄く目を開け、口を閉じて唾を飲み込む。ベッドの上が平たい。そこにエウドキアの義体はない。視線を上げ、義体の横顔を見る。白く冷えた頬の内側に朝焼けのようなうっすらとした赤みが差している。肌には鹿革のままの肌理があり、でもそこには生き物が長年の間に蓄積していく無数の微細な傷跡のようなものが欠落している。瞼が下がり、半分より少し下で止まり、また持ち上がる。瞬きではない、意識的でどこかはっきりとした動き。筋繊維の振動による震えや揺らぎも現れない。それはまさに精巧な人形だった。生き物に宿るべき生命の熱がそこにはなかった。あるいは生身の人間が持たざるを得ないある種のグロテスクさを完全に洗い落した姿なのかもしれない。要素を限定したゆえの複雑さの欠如と完全さとがそこには同居していた。

「綺麗だ」松浦は起き上がって自分の手の甲に顎を乗せる。まだ頭が重い。

「あ?」とエウドキア。喉のスピーカーから。自然な声だが、ただF12の時とは声色も高さも違っている。

「わからない?」

「ぬう」エウドキアはとりあえず声で返事をしてからちょっとした会釈のように頷いた。「とても怖かった」

「ずっと待ってたよ」

「そうね、これが人間の世界なんだ。――これ、ロシア語?」

「ロシア語」

「これは日本語?」エウドキアは言語を切り替える。

「うん」

「よし」声色、声の高さも安定してくる。

「舞子さん、エウドキアが起きたよ」

「体はどう? 差し迫って支障は」舞子は訊き返す。寝起きの声ではなかった。気配を殺してエウドキアの観察をしていたのかもしれない。

「いいえ。でも私もいささか疲れました。朝まで眠ります」エウドキアは答える。

「そう。じゃあおやすみなさい。要くんはベッド使って」

「代わるよ。ソファ、背中痛いでしょ」と松浦。

「ううん。いいの、そこまで行けない」この声は少し眠気を孕んでいた。

 松浦は舞子の方を見て、でもそれ以上反論せずに立ち上がってジャンパーを脱ぐ。エウドキアと舞子の間にある小さなベッドの布団を上げて潜り込み、落ちないように柵を立てる。

「おやすみなさい」

 舞子は返事をしない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る