12.1 自分のもの、かつ客体的身体(上)

 夜明けが近づく。大気のスクリーンが太陽光をうっすらと反射して地球の影を少しずつ西へ追いやっていく。地上では闇の中に弱々しい明暗が生まれ、次第に色彩が息を吹き返す。太陽が稜線を越え、森の上層が海原のように輝く。一本一本の木の輪郭が漣の波頭になる。そして最後に全ての事物の間にはっきりとした境界が現れ、領域が定まる。塒から飛び立った若いカラスの群れが夜と昼の境目を越えて太陽光線の中へ入っていく。羽ばたくそのシルエットがくっきりと浮かび上がる。

「ようやく体を伸ばして眠れたわね」舞子は言った。ソファの上に置き上がって瞼をゆっくりと開けたり閉じたりしている。

「どうでしょう。ちょっと落ち着かない気分だった」エウドキアもベッドの上に足を上げて座っている。義体の関節の強度や遊びがまだわからないからやや落ち着かない妙な座り方になっていた。

「正座の方がいい? まあ、ネコみたいに体を丸めて眠る動物も多いものね」

 松浦も目を覚まして寮まで着替えと朝食を取りに戻る。その間に舞子は軽く身だしなみを整え、義体の胸骨の下に沿った半円形の防水ファスナーを開いてポケットに差し込んである点滴のパックを確かめる。エウドキアは体の中に他人の手が入るのなんか全然平気のようだった。そもそも裸を見られるのも気にしていない。今まで服を着る習慣がなかったからなのだろうけど、でも人間が服を着るのは知っているはずだ。まさかサナエフの人々が全員全裸で仕事をしていたとも思えない。彼女に羞恥心が欠如しているか、あるいは生身と義体は全く別物という意識があるのか、どちらかだった。とにかく名うてのヌードモデルみたいに平然としていた。

 しかしそのままでは見ている方がちょっとやりづらい。舞子はとりあえず緑色の浴衣を渡した。外科医が手術室に入る時に着るようなやつだ。ただしズボンはない。エウドキアはそれを受け取って一つ一つ体の動きを確かめながら腕を通し、立ち上がって前を合わせ、そしてもっと注意深く留め紐を結んだ。

「これ、抜いても大丈夫ですよ」エウドキアはパソコンに繋がっている黒いUSBケーブルを掴む。「今は全く使ってない」

「どうぞ」

 エウドキアはケーブルの根元を掴んで引き抜き、乳房の下にある端子の蓋を閉める。投影器の窩と同じような造りだ。義体の中にもノートパソコンくらいの処理能力があるコンピュータを入れているので脳とコンピュータの処理分担は機体の頃の感覚はそれなりに維持できるはずだ。

「平気?」

「はい」

「歩ける?」舞子はデスクの前まで下がって訊いた。

 エウドキアは爪先を踏み出す。安定している。足には触覚受容器がないので床の冷たさは感じない。舞子のところまで歩いて、差し出された両手に手を乗せる。少し感触を確かめ、相手の手を上にする。その掌を見つめる。

「あなたの手が作った機械の中に命が吹き込まれた」とエウドキア。

 舞子はちょっと驚いたあと「確かに。でも私が吹き込んだわけじゃない」と答える。手を離して少しの間唇の上に指を当て「改めて、義体はどう?」と訊いた。

「ちょっと重い」

「服を着たからじゃない?」

「着ていなくても」

 彼女が言ったのは、義体の関節サーボのパワーと四肢の重さの比率が同じスケールに直したF12よりも小さいということだろう。それだけF12が軽くパワフルに作られているということでもある。まあ、軽くかつパワフルにしようと思ったらこの義体だってまだいくらでも改善の余地があるだろうけど。

 松浦が戻ってきてテーブルに朝食を並べる。ホットドッグと菓子パンのアップルパイ。ポタージュの素。一緒に持ってきたスープカップに研究室で沸かしたお湯を注ぐ。エウドキアは間に座って二人の食事をまじまじと観察する。子供がドールハウスの断面に顔を近づけて中の様子を覗くのと同じような気分なのかもしれない。身体感覚の縮尺がたかだか半日で新しい体にぴったり収まるとも思えない。

 観察に飽きるとエウドキアはシードルの瓶を自分の前に引き寄せてラベルの文字を一通り見たあと、コルクに鼻を近づけて匂いを嗅いだ。飲めないが匂いはわかる。うっすらとリンゴの香りがする。そうして二,三度吸ったあと、ふんっと一回で吹き出した。あまり好きな匂いではなかったのかもしれない。

 先に食べ終わった松浦がポットのお湯を沸かし直してコーヒーを淹れる。インスタントの粉くらい研究室にもある。

「あれを見せようかしら」マグカップを受け取ったところで舞子は言った。

「あれ?」とエウドキア。

「きっと驚くと思うわ」

 舞子はコーヒーを半分ほど残してゴム手袋を履いて研究室の奥にある冷凍庫の扉を開けた。棚から金属製のうすい箱を取り出して扉を閉め、箱を作業台の上で広げた。

 結氷で曇ったガラスの中、碁盤状に区切られたところに瓶入りの標本が並んでいた。

「あなたの肉体の組織片。卵子、各臓器、皮膚。再生医療が進んだらこれを使ってってことなのかしら」

「どこから?」とエウドキア。

「え?」舞子は訊き返す。

「君の機体に仕舞ってあった」と松浦。「生体ユニットのパネルを開けた下のところに、仕掛け扉みたいにして」

「知ってた?」舞子。

「いいえ」エウドキア。

「冷凍にはそれなりに電気を食ってたんじゃないかな。巧く隠してあったんだ」松浦は続けて説明した。

「私たちが肉体に要らぬ期待をかけないようにですか」

「だろうね」

「一度仕舞うわね」舞子はそう言って再び冷凍庫の扉を開け、標本の入った金属の箱を仕舞った。

「九木崎にはそういう技術があるのですか」

「自信を持って言えるようなものじゃないわ」舞子はゴム手袋を脱いで冷凍庫の上にかける。「可能だとしても時間がかかるでしょうし」

「どちらにせよ私はそれを望まないです」

「そう?」

「私が人間の肉体を持つ必然性がない。義体で十分」

 まるで自分は人間じゃないというような言い方だった。でも舞子はそれについては何も言わない。慎重だ。時計を見てデスクに取りつき、受話器を耳に当てて所長室をダイアル、メッセージを入れておく。「あの、青藍さん、煮雪です。エーヴァが目を覚ましたのでこれに気づいたら呼んでください」

 舞子は受話器を置いてテーブルの方へ体を向け、尻の横でデスクの縁に寄り掛かる。

「いきなりで悪いんだけど、義体と脳の調子を見るために色々と検査させてもらえないかしら」

「私は構いませんけど、煮雪さんは休まなくていいのですか」

「移ってすぐのデータが大事なの。長くはかからないから」

 舞子はデスクの椅子にエウドキアを座らせてその窩に有線式の脳波測定器を取りつける。本体は首巻き枕のような形だ。サナエフのBMI用に脳のあちこちに入れ込んだ電極があるからわざわざ額やこめかみに吸盤みたいなのを貼り付ける必要はない。

「つけている感覚は?」舞子が訊いた。

「ありますよ」

 舞子はちょっと困った。質問の仕方が悪かったか。「ごめんね、重さはあると思う。そうじゃなくて、首筋の端子を介して何かを感じる?」

「それならない」

「その機械にアクセスできない?」

「できない」

「よかった。それができると値がデタラメになっちゃうから」

「ああ、そういうことか」エウドキアも納得したらしい。

 話したり、ボールを持たせたり、映像を見せたり、ヘッドホンを被せたり、まずはそういった静的なところから検査が始まって、それからだんだんアクティブになり、腿上げなど激しく体を動かした場合、逆立ちした場合、と色々な条件で義体や生体部分の機能が正常かどうか確かめた。終始舞子がパソコンの前に座り、松浦は測定器のケーブルがエウドキアの体に絡まないように束ねて持ち上げていた。検査の進捗とともに太陽が徐々に南へ回って、終わった時には十時半を回っていた。最後にしばらく休息して測定器を外す。

「これでお終い。疲れた?」舞子は測定器のケーブルを巻きながら訊いた。

「少し」とエウドキア。

 舞子はデスクの脚に立てかけておいた大きな紙袋をテーブルに置いて中身を広げた。ゆったりしたジョガーパンツとオレンジのセーター。下着と靴もある。義体のサイズに合わせて買ってきたものだ。エウドキアは手術着を脱いで着替え、靴下を履いてスニーカーの紐を締める。

 動きこそぎこちないがそれなりの歩幅で歩けるようになっていた。部屋の中をぐるぐる回って靴の感触を確かめ、それからレースのカーテンの隙間に顔を近づける。

「外へ出てもいいの?」エウドキアは訊いた。相変わらず唇は動かない。

 舞子は肯く。九木崎女史からの返事もまだかかってこない。「この近辺なら」

「機体を見に行きたい」

「そうね、それはいいかもしれない」舞子は壁のハンガーにかかっていた上着を下ろす。「ああ、いけない、コートは買わなかった」

「必要ないですよ」

「感じないかもしれないけど、冷えると循環器系には毒だよ。ひとまず作業着ならいいか」舞子は自分のロッカーを開けてオリーブ色の厚いジャケットを取り出してエウドキアに着せる。

「舞子さんが行くなら俺はここで電話を待っていた方がいいかな」

「どうかしら」

 舞子に訊かれてエウドキアは肯く。

 松浦は舞子の椅子に座って短く微笑を返す。

 舞子は部屋を出てエウドキアの手をとる。歩調を合わせ、手摺代わりに腕を持たせる。

「この義体は煮雪さんより背が高いですね」とエウドキア。

「私も日本人としてはそこそこある方だと思うけど」

「この身長も正確ですか」

「だいたいよ。食生活や運動によっても少なからず左右、というか上下するもの」

「煮雪さんは機体は触らないのですか。肢闘は」

「機械的なところは全然。もっと腕のいいメカニックがたくさんいるもの。私は投影器の回りだけね」

「義体の機械的なところは作るですよね。それはメカニックの仕事ではないの?」

「まあ。あなたの義体も金属加工なんかは機体組に入ってもらって任せたところもあるけど、工程の半分以上は私が手でやったわね。ああ、なるほど。肢機と義体でそんなに棲み分けがあるのって、確かにちょっと変よね」

「少し」

「肢機は機械が源流にあって、義体は義肢が、つまり人の体が源流にあって、まだ完全には合流していない、まるで細い中州が間にあるような状況なのかもしれない。大雨があれば増水して沈んでしまうようなものだけど」

「やはりこの体は本来肉体なのですね」エウドキアは少し手を持ち上げて自分の手首に触れた。肌の柔らかさを、モーターの発する微かな熱や振動をその指先は確かに捉えている。

 廊下の角を曲がる。日曜日だ。明かりは点いているが全く人気がない。舞子が続けて訊く。

「ねえ、写真を見ながらあなたの義体を作っていて思ったことがあるのだけど、あなたは自分の両親に会ったことがあるの? その、つまり――」

「私がサナエフのものになってから?」

「そう」

「ありますよ。たぶん。見学に来た。時々私たちの部屋に技術者とは全然毛色の違う、異質といってもいいくらい普通な若い夫妻が来るんです。教育普及担当の説明を聞きながら。私たちがじっと座って休んでいる前をゆっくり歩いていく。その二人はヨアン・シャミルヴィチとマリタ・アレクセヴナ・ロプーヒナ。ロプーヒナ。二人とも姓はロプーヒンだった。あの、ロプーヒンとロプーヒナが同じ名字だってわかります?」

「男女で尻尾が変わるのね」

「ええ。彼らは子供の墓石を見るみたいな神妙な顔で私たちを見ていた。私たちが見返していることなんて気付かないみたいだった」

「お互いに紹介されるわけではないの?」

「そんなことをしたら収集がつかなくなる。そういう考えだったんでしょう。彼らにはどれが自分の子供かわからない。私たちにも誰の親かわからない。ただお互いの置かれている環境だけを知ることができる。その方がいいんです。私の場合はあとになって今日来ていたのは君の親だと教えてもらったけど、それは特別で、私が知ろうとしなかったからだった」

 舞子は口の端に手を当てて聞いていた。

「だけどきっと私と彼らが親子であるという関係なんてカタチに過ぎない」

「なぜ」

「親は子に形質を受け継ぐのでしょう? そういった肉体の中で私に残されているのは一部の神経系だけ」

「ええ」

「そして脳の発達は肉体の形質に大きく影響を受ける。つまり、生まれたての脳にどれほどの個体差があるというのでしょう。授かった肉体の中で生きていくことが、彼らの子供になるということなんじゃないですか」

「義体を似せない方がよかった?」

「いいえ。それは他に選択肢がないです」エウドキアは首を振る。「私にはこうなりたいという人間の理想像がないのだから」

 鍵と身分証のICでセキュリティロックを通過して渡り廊下から工場の二階に入り、キャットウォークの階段を下りる。日曜の朝の工場は実にしんとしている。演習場側のシャッターもぴたりと閉め切ってあるし、照明も一切点いていない。天井に近い細長い窓から入る朝日が唯一の光源だった。当然機械類も化石のように固まっている。

 ドルフィン9は依然として工場の一画にでんと正座していた。エウドキアはその目の前に立ってかつての自分の身体を見上げた。それは賀西が尋問をした時の距離感と同じだった。

「以前よりずっと大きく見える」エウドキアは言った。工場が静かなせいで異様に声が響いた。

 舞子はずっと腕にかけていたエウドキアの手をとってそっと下ろした。「私は邪魔しないわ」そう言って一人で壁際の階段へ歩いていく。一段上って腰を下ろす。膝の上で腕を組んでエウドキアに目を向ける。どうぞ、好きにして。そういったふうに少し首を傾げる。

 エウドキアはそのあともう一度じっくりと自分の機体を見上げた。手を翳して親指と人差し指の間に機体の胴体や頭部の高さを合わせてみる。それからもっと近づいて膝の外板に触れる。一度触れてさっと手を引く。改めて慎重に指先から触れる。そして掌を当てる。大腿の横に垂れた機体の手に目を向ける。指先同士を触れ、掌を重ねる。エウドキアは表情を変えない。ただじっと射るように自分の手を見つめている。その目元にも感情は宿らない。口が薄く開いているだけだった。

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