10.2 絞められた痣

 それでも時間が経つにつれて昼寝の後の眠気から覚めるみたいに自分の気分の悪さがだんだん重たくリアルに自覚されてきた。結局機体の回収を漆原に頼んで、撤収のあと着替えて軽く顔を洗い、自分のベッドで三十分だけ眠った。それで気分はだいぶマシになった。

 普段なら泳ぎに行く状況だけど、塩素の匂いを嗅ぎたくなかったし、水の中の浮力も感じたくなかった。私が欲しいのは冷たい乾いた空気と確かな重力だった。だからランニングにした。課業のトレーニングの時より短く、その分ペースを上げて走った。中隊のフィールドを取り巻くように舗装路のコースがあって、肢機絡みの軍人はだいたいそこを走る。現に私の他にも私物のスポーツウェアで走っている人間をちらほら見かけた。どちらかというとジョギング人口の方が多く、追い越すことはあっても追い越されることはなかった。常に左手に開けた空間があり、遠くに建物の群れが見えていた。右手は荒れ地や林だ。ハトの団体が落ち葉溜まりの上をわしわしと踏み鳴らしながら隠れた木の実や昆虫を探していた。

 空はまだ明るい。青いスクリーンの手前に木々や鉄塔の影が薄く旗のように延びている。時間を確認できるものを何も身につけていなかったので正確には分からないけど、二十分ほどだろう。だんだん息が上がり頭蓋の内側まで冷えてきた。頭にドアストッパーが突き刺さったみたいな気分だったけれど、それも次第に薄れていった。


 ……


 寮に戻ってシャワーを浴びる。台所から揚げ物の匂いがした。換気扇も回っている。焜炉の上に鍋もあるが火は消えているし、石黒は流しの上でじゃがいもの皮を剥いていた。ひと段落ついているようだ。網に上げたアラレがテーブルに出ていて、檜佐が端の席でそれをつまんでいた。他にも何人かソファや床に座ってクロスカントリーの試合の生放送を見ている。

「元気?」檜佐がこちらに手を振って訊いた。

「疲れたけどだいぶ良くなったよ」答えながら私もアラレを何粒か摘んで口に入れ、それから部屋に入って服を脱いだ。

 浴室の姿見の前に立ってみてぞっとした。太腿の上の方に輪っか状のくっきりした痣ができていた。紫というより赤と青の絵の具を八割方混ぜ合わせたような微妙な色合いだった。触ったり押したりしても痛みはない。ショーツを脱いで体を横にしたり後ろを向いたりして色々ポーズをとった。紫色の輪はとてもはっきりしている。幅は十センチ弱といったところだろうか。遠目にはそういう模様のストッキングを穿いているみたいだ。でも私は裸だった。そしてその傷はちょっと擦ったりしてみても取れない。確かに私の肉体の一部だった。原因は考えなくてもわかる。コクピットシートの止血帯だ。荷重で脳味噌に血液が行かなくなって気絶するのを防ぐために圧迫するのだ。私が自分で制御していればこんな局所的に圧迫しない。脚全体をもっと緩く締め上げる。それで十分だし、カーベラのシートにはそれだけの柔軟性がある。柔軟性といっても物理的なクッション性のことではなくて、私が言いたいのは自由自在に形を変えることができるという機能上の柔軟性のことだ。機体コンピュータにはそれを活用する能がない。だいたい乗っている人間が気絶したところで自律制御には何の不都合もない。

 右の握り拳を内から外に振って横の壁を殴る。インパクトの直前に少し弱めて、弱めた分の力でもう一度同じように殴った。衝撃が伝播して浴室の筺体全体が怪獣に踏まれたみたいにどんと震えた。殴った小指の下がじんじんしてくる。でも一回に力を込めていたらもっと痛かっただろうし、その痛みのせいでもっとむしゃくしゃしただろう。

 確かに腹が立っていた。これからどれほどの時間私はこの痣と付き合っていけばいいのだろう。だいたいきちんと消えてなくなるものだろうか。胼胝たこみたいに薄黒い痕が残ったら最悪じゃないか。

 心配した檜佐が脱衣所の扉を引いて「大丈夫?」と訊いてきた。浴室の扉の窓越しにその影が見えた。

「なんでもない」と私ははっきり答えて彼女を追い払う。

 息を落ち着ける。

 檜佐は出ていく。扉の閉まる音がした。

 私はベッドから携帯電話を持ってきて石鹸の棚に置いた。

 自分で殴った壁に手を当てて気持ちを整える。深呼吸を二回、三回。奥歯を噛みしめていることに気づいて間に舌を差し込む。

「タリス、AIのプログラムを変えたね」と訊く。

「ええ、はい」タリスは電話のスピーカーで答える。

 わざわざ訊くまでもないでしょう? タリスは聖堂のテーブル腰かけて脚を組み、後ろに手を突いて上体を倒し、持ち上がったその肩に顎を乗せて口に微笑を浮かべる。そんなカットを私はふと想像した。それから私が自分のカーベラの正面に立って「タリス」と呼びかけるところを想像した。機体に向かって呼ぶのだ。それはちょっと反吐が出そうだった。たぶん自分の身体になりうるものが他の意識を持ち合わせている、というのが受け入れられないのだろう。それはあくまで私だけのものでなければならないのだ。単独の出来の悪いプログラムならいくらでも捩じ伏せようがあるけど、タリスが相手だとそう簡単ではない。自分の体を奪われるということがありうるのだ。現にこの内出血だ。

「どこをどう変えた」私は訊く。

「正確なコードの話をしますか?」

「いや、いや、まさかそんなナンセンスなことをするとは思えないんだけど、もしかしたらタリスが直接動かしてたんじゃないかと思って。無線でさ。こっちのコンピュータもそれなりに動いていたけど、それって指示を受け取るためのプログラムを走らせていたからじゃない? あんな制御を全部やるだけの容量はあの機体のコンピュータにはないと思う」

「なぜそんなナンセンスなことをする必要があるのですか?」とタリスの何食わぬ答え。

「まあ、だよね」私は努めて穏便に言った。納得したわけじゃない。でも今は少し感情的になりすぎている。何も考えがない。根拠か仮説がなければタリスは問い詰められない。無駄だ。

 とりあえずお湯を浴びて体を洗う。痣の周りも念入りに、でもあまり押しつけないようにして洗う。ドライヤーで髪を乾かしながらその痣を他人に見られる時のことを考えた。隠し通すのは無理だし、隠しているように見られるのも気に食わなかった。ドアの隙間から檜佐を呼んでズボンを履かずに脱衣所を出た。檜佐はリビングから部屋に入ってきて扉を閉めた。

「見てよこれ」私はTシャツの裾を捲って痣を見せた。

「あっ……」と檜佐は呟いてその場で真剣な目をして痣を見た後、私の前にしゃがんでもう一度しっかりと痣を観察した。

「別に痛かないんだけど」

「これ結構酷いんじゃないの?」檜佐は私の左脚の付け根を両手で包みこむ。

「うん」私は短く答える。そんなことより檜佐の手がかなりくすぐったい。鳥肌の余震のようなものが背筋を上ってくる。

「シートの止血帯?」

「うん。締め方はいいとして、それだけ垂直方向の加速度がかかる機動を多用してたってことだと思うんだ」

「ジャンプが多いからその分着地の衝撃が機体の足にも来てるんじゃないかって?」

「いや、それもあるんだけどさ、AIは機体の構造にとって最適な機動を模索しているわけじゃんか。どうしてそんなに跳びたがるかな」

 檜佐が離れたのでズボンを穿いてバスタオルをラジエータに放る。檜佐はそれを広げて掛け直す。

「慣性機動しか利かない空中じゃロクに動けないんだからさ、そんだけ狙い撃ちのチャンスを敵にやってるってことだよ」

「近くに何かあればそうでもないんじゃない?」

「え?」

「さっきみたいに取っ組み合いをしてれば、相手の機体を押して反動で動けるよ」

「ああ、確かに。まあ、相手が近くにいればね」

 ベッドに座る。檜佐が窓際の物干しから乾いた洗濯物を外して私に投げる。

「そういえば」と彼女。

「何?」私は訊き返す。ベッドの上に膝立ちしてTシャツを畳む。

「エウドキアが移るって」

「移る?」

「義体に移ってもいいって言ったみたい」

 松浦から聞いたのだろう。あのあと工場に残ってドルフィンと話していたのだ。

「ずっと渋ってたのにね」と檜佐。

「タリスに負けたのがショックだったんだ」

「タリス?」

「ほら、あのAI、書いたのはタリスだ」

「ああ、そういうことか」檜佐の中で何かが噛み合ったみたいだ。「私、さっきその中身、コード見てみたんだけど、読めなかったよ」

「読めないって、目で見て理解できないって意味?」

「両方。どのソフトでも読めないし、だからテキストで開いて、でも理解できないの。それっぽいんだけど、なんか違う。どういう動作をしてるのかも、どうやって読んでるのかもわからない」

「じゃあ結構本気だったんだな」

「タリスが? うん。そうだろうね。今まで書いてたのは普通だったし」

「普通というか人間仕様というか」

 檜佐はハンガーから外した大判のカーディガンを目の前に広げてちょっと手を止める。

「でもどうしてエウドキアは渋ってたのかな」彼女は言った。

「どうして? そんなの、義体に入っても感覚が来るかどうかわからないのが怖いんだよ」私は答えた。

「うん。それはそうなんだろうけど、でもそれだけだったら試合に負けたせいでじゃあ移ろうって気分にはならないはずだよ。怖いものは怖いんだから」

「ああ、それもそうだ」私も手を止めて少し考えることにした。Tシャツを置いて腰を下ろす。腿の付け根にできた痣を見下ろす。座っていると横に広がって細長く見えた。

 その間檜佐は自分の服を着々と畳んでいた。

「肉体的アイデンティティだろうか」私は呟いた。

「うん?」

「ドルフィンは人間の形をした人間サイズの体なんか知らずに生きてきたわけだよ。檜佐、はい、あんたは明日からイヌの体で生活してくださいって言われたら渋るでしょ。毎日イヌに囲まれて生活してる人間でも、ブリーダーでも獣医でもちょっとは渋ると思うけど」

「彼女にとっては人の体ってそういうものなのかな」

 私は腰を上げて作業に戻りながら檜佐機と決闘している時のドルフィンをもう一度思い出した。とても無駄のない滑らかな機体捌きだった。それは熟練の兵士や格闘家というよりも群れの中で育った一匹の獣を思わせた。イヌやネコの類は兄弟とのじゃれあいの中で運動と狩りの能力を高めていく。ドルフィンにも姉妹がいる。サナエフには彼女たちが成長していくための環境があるだろう。私はドルフィンたちが見渡す限りの草原の上をまるでオオカミの群れのように走り、組み合って地面を転がり回る様子を想像した。たぶん本当にそんなことをしているわけではないだろう。機体が持たない。でも私たちがそうするように軍隊で訓練を受け、整列し、指揮官の命令で動く、そんな状況よりもずっと自然でしっくりくるイメージだった。それくらい野性的な身のこなしをドルフィンは身につけていた。

 獣としての肢闘――それは一種の美の領域に達していたのかもしれない。でもどちらにせよそれは間もなく失われていくはずのものだった。

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