9 流氷姫について、壁のない心臓

 部屋の明かりを点ける。檜佐はよそへ遊びに行っているようだ。ベッドに仰向けになって自分が眠くなるかどうか確かめる。目を瞑って息を整える。心臓の音を数える。全身の力を抜く。

 でも私の意識はそこにあり続ける。どこにも落ちていかない。どこにも吸いこまれていかない。しっかりとした分厚い器の上に留まっている。

 私は眠くない。無理に眠るよりできることをしよう。

 起き上がって携帯電話を開く。履歴から選んで矢守に電話をかける。長いコールのあとに彼は出た。

「ねえ、今日仕事は?」私は訊いた。

「ないよ。だから、水曜は休みなんだってば」彼は半笑いだった。

「ああ、今日、水曜だったんだ」私はカレンダーを探した。結局ベッドの上の壁にあったが、先月分から捲っていないので右上についている小さな今月分に目を凝らさなければならなかった。

「おいでよ。怒らないからさ」と彼。

 1700時、工場の照明が落ちるのが窓から見えた。扉が閉まり、鍵がかかり、人影が散っていく。駐車場の車が減り、灯りがなくなり、やがて全てが写真の中の景色のように静止する。石黒のおやじに夕食はいらないと言いに行って、揚げたてのハムカツをひとかけ貰ってから出かける。外は冷凍庫のように寒くて、日没だというのに白くて綿密な雲がぎっしりと空を覆っているせいで変に明るかった。駐車場に出て自分のフォレスターに乗り込む。積雪で視界の悪い居住区のくねくねした道をゆっくり抜け、ゲートでIDをチェックして道を左へ。

 フェンスに沿って走っていると妙に点々と長尺のコンテナを積んだトレーラーが停まっていてその度対向車線へ出て避けなければならなかった。路肩に雪があるのでトレーラーが半分くらい車線の方へ出ているのだ。たぶん監視ついでに見通しのよさそうなところに置いて視線を塞いでいるのだろう。それでもコンテナや木々の隙間から九木崎の母屋に明るい窓が一つちらちらと見えた。

 義肢研究室。舞子がまだ作業しているのだ。もちろん彼女だけではないかもしれないが。肉眼ではその中に人の動きまでは確認できない程度だが、双眼鏡でもあればシルエットくらいは見えるだろう。なぜカーテンを閉めないのか。車に乗る前に確認してやればよかった。

 それから私は死んだ三人のスパイのことを考えた。あるいは自分のカーベラの爪先についた血の色を。私がそれを自分の目で確認したのはドルフィンの尋問が始まる少し前だ。爪先といってもその先端ではなかった。いわば指の背や足の甲の部分で、きっと衝撃に押し出されて口から血が飛び散ったのだ。顔も見た。少なくともAI機に蹴られた方は顔はほとんど無傷で、日本人と全然見分けのつかない顔立ちだった。あるいは実際日本人だったのかもしれない。だがこの際人種や出身はどうでもいい。彼らは人間だった。そして彼らを殺したのは人間ではなかった。少なくとも人間の肉体や人間の道具によって殺されたのではなかった。ドルフィンの場合は機体そのものがその身体だった。AI機の場合は完全なる機械であり、九木崎女史によって攻撃の指示は下されたにしても、蹴飛ばすという動作まで指定できたわけではなかったし、なにより死傷の是非を決定したのはAIに他ならなかった。その点、彼らは人間に殺されたとは言い難いのかもしれない。

 交差点を右に曲がって北へ向かって走り、二十分ほどで矢守の家に着く。南向きの坂にある低層マンションの上の階だ。一階のエントランスにガラス戸とインターホンがあってなかなかセキュリティが固い。

 私が上がっていくと彼はすぐに玄関ドアを開いた。中からブイヨンとローズマリーの匂いがした。「やあ」と挨拶を交わして私は後ろでドアを閉める。夕食のメインは鶏モモ肉の香草焼きだった。おいしい料理だった。矢守の料理は石黒のおやじほど安定しているわけじゃない、つまり肉がちょっと硬くなっていたり、逆にキャベツやニンジンの芯が多少残っていたりすることはあるんだけど、あとはレシピに忠実な品のいいものを作ってくれる。彼の本棚には結構料理本が多いのだ。あるいは仕事でお客に振舞うこともあるからって勉強させられているのかもしれない。家でだって自分で手をつける前に私の反応を窺っている。それは確かにちょっと堅苦しくもある。

 矢守は学生だ。仕事といったけど本職は学生。小柄で、細くて、肌は青いくらいに白く、滑らかで、顎にも頬にも髭はない。綺麗に剃ってあるというのではなくて、始めからそんなものはなかったみたいに、全然毛穴というものが見当たらない。肌荒れも面皰もない。腕や脚も同じだった。彼は生身だけど、質感でいったらアンドロイドよりも人間臭さが薄いかもしれない。私はその何とも言えない肌の感触が好きだった。男っぽくもないし、かといって女ほど滑らかでもない。

 私はその膝の上に被さって窩の手入れを任せる。矢守は右手で私の髪と窩の蓋を押さえて、一方の端を濡らした綿棒で端子の溝を丹念に拭った。

 投影器の窩は首筋の皮膚をピアス穴のように開けたところに嵌め込んで縫合されている。電極、というか端子は雪の結晶のような形をして、プラグに噛み合う。防水用にゴムのシールがついた蓋がついている。基部と蓋はガラス製なので錆びも浮かないし皮膚を傷めることもない。それでも開けたり閉めたりプラグを差したりしているうちにだんだん汚れが溜まってくるから手入れが必要だ。私たちの間ではルームメイトと互いに綿棒で掃除をやってやるのが常だったけれど、私の場合は檜佐と矢守が半々くらいだった。

「基地の方が騒がしかったね」矢守は端子の溝の中で綿棒をくるくる回しながら言った。

「騒がしいって?」と私。

「ヘリコプタが飛んだりしてさ。いつもは一機か二機くらいだけど」

「大学から見える?」

「札幌の方に飛んでくるやつなら」

「へえ」

「帰りに右翼の学生が号外配ってたよ」

「内容は」

「うーん、まあ……」

「はいはい。へえ、でも、貰ったわけだ」

「内容はともかくさ、ニュースとしては有用だよ」

 右翼や左翼といった集団形成はもうここ数年の間にほとんど完全な形骸化を遂げていた。お互いに軍拡は右、反戦は左という漠然としたレッテル貼りをして敵視しているに過ぎず、その根底に政治体制への理想などといったものはもはや微塵も残っていない。そもそも軍拡と反戦は相反する志向ですらない。天皇が最も強く平和外交を唱え、社会主義政権が派兵を推進する今日、左右の概念そのものが既に逆転しているといってもいいはずだった。要するに矢守の大学にいる右翼の連中というのは素朴な強国思想の持ち主であって天皇制も自由主義も主張しちゃいない。

「僕の場合、誰にも勧誘されないだけマシかな。ロシアの軍人が潜水艦に乗って亡命してきたんだってテレビで言ってたけど、それ?」

「潜水艦ね」と私。可笑しかった。メディアはたぶん潜水艦と潜水艇の違いがわからないのだ。そういう情報しか出てこないということは、やはり幕僚部と防衛省はドルフィンの正体を隠しているわけだし、一度確保に失敗してどこかに潜伏していたことも明かしていないのだ。賀西が捜索の網を勝手に広げなかったのは良い判断だったわけだ。「だいたいあってるかな。亡命だよ。亡命」

「潜水艦で?」

「違う」

「船じゃないの?」

「うん。船じゃないな。船にもなるかもしれないけど。あとは飛行機でもない」

 矢守は少しの間手を止めた。考えているようだった。

「じゃあ、流氷に乗って」と彼は言って窩の掃除を再開する。

 そう聞いて、真っ白な氷原の上に八歳の双子の少女がぽつんと座っているところを想像した。二人とも裏地にトナカイの分厚い毛皮を張った防寒着を着ているのだ。空は真っ青に澄んで、地平線の上に銀色の蜃気楼が浮かんでいた。

「寝てない?」矢守は私の頭の方へ体を傾けて横顔を覗き込もうとした。

 私は涎を啜った。下を向いていたのでダダ漏れだった。

「うわっ」矢守はびっくりして端子から綿棒を離した。

 ソファが革張りなのですぐには浸み込まない。ズボンも無事だった。急いでティッシュを取る。矢守は台所からアルコールのスプレーを持ってきて仕上げ拭きをする。私はその間にベッドの縁に液体のように倒れ込んでいた。

「ハンバーグの夢でも見たわけ?」矢守は私の隣に座って仕方なさそうに訊いた。

「流氷姫の夢だった」私は言った。

「ヒメ?」

「童話の中で冒険するのは、だいたい姫様だ。どんなに幼くても」

 矢守は検死官みたいに私の髪をよけて窩の掃除の残りを済ませ蓋を閉じる。綿棒のケースを洗面所に仕舞いに行く。戻ってきて私が踏んでいるのと逆の端から掛け布団を引っ張って抜き取り、私がベッドによじ登ったところで漁師が網を被せるみたいにすっぽりと毛布で覆った。隣に腰を下ろしてリモコンでテレビのチャンネルを回す。

 毛布の縁から顔を出した時にほんの一瞬インファン・アニマルのCMが目に入った。何日か前に松浦が買ってきて舞子に見せていたインファン・ゲッコーのシリーズだ。CMは今までにも何度か見たことがあるやつで、何種類かあるのだけど、それぞれに別の俳優を起用して、ふと目を向けた時にコップを倒しそうになっていて危うく両手で受け止め、「まったく、世話が焼けるんだから」と言うとか、そんなふうな手間がかかって愛おしい、というアプローチ。あまり派手なものではない。どちらかというと上品な感じでメーカーのイメージとは結構ずれがあるのだけど、あんまり売れて本物のペットみたいに捨てる人間が増えると問題になるかもしれないから控えめにしているのだろう。

 結局、それを売る人間も、捨てる人間も、売ったことを咎める人間も、きっとロクなものではない。誰も責任を受け止める準備をしていないのだ。確かに娯楽は人間の生活を育てる。でもそれは同時に罪を生み出す。あるいは人間の生活そのものがもっと根本的な罪を孕んでいるのか。

 人間。他の生き物にとって時に有益、時に有害な存在、種族。でももっと本質的に、他の生き物から見て人間は愚かで度し難い種族に見えないだろうか。

 人間が人間を至高の生き物と信じているのは人間が人間だからだ。自信だ。

 でもそれはたぶん自明のことじゃない。人間になるにも条件はあるだろうけど、それが他の生き物になる条件より厳しいものとは限らない。他の生き物の条件を満たせなかった落第者が人間になるのかもしれない。全てが生まれる前の世界で全ての生命が長い適性試験を受ける。結果発表と同時に種名を書きつけた出荷カゴに向かって神様が受験者をぽんぽん放り投げる。

 いくつかの生命はカゴの縁に当たったり隙間に入ったりしてそのまま地上へ墜落して死んでしまう。そういう時神様はやれやれという顔をして肩を竦める。それだけだ。特別悲しんだりはしない。ただサナエフのナゴフ博士だけは墜落してくる命をやわらかくキャッチする方法を知っていた。方々へ走って受け止め、受け止めたものを育て、そして最後にその中の二人を流氷に乗せて流したのだ。

「人間の条件か……」私は毛布越しに矢守の手首に首筋を押し当てながら呟いていた。ドルフィンのことだ。

「何?」矢守は訊き返す。

「あれはまるで自分が人間である自覚を持っているみたいだった。いわば、逆説的に。人間を拒絶するには人間を意識しなくちゃいけない。拒絶するから意識するのか、意識するから拒絶するのか、それはわからないけど」

「あ、また軍事機密かあ」

「ねえ、人間と全く関係のない生き物でも、自分が人間だという刷り込みを持つことによって、その生き方はちょっと違ってくるんだろうか。その生き物の本来の生き方とは」

「アンドロイド?」

「話はもっと複雑」

 それから矢守は私が事情を話すのを待っていたみたいだった。でも私は話さなかった。私はいつも断片しか明かさない。彼は口は固いし、知らない振りも巧い。機密を漏らして得をする立場でもない。でも私はいつも核心は話さなかった。彼はまるでピザの耳ばかり食べさせられているみたいだ。可哀想だけど、でも彼がそれを食べて何のピザだったか想像する話が私は結構好きだった。

 矢守は枕に背中を預けて脚を伸ばす。足首を交差させる。首は背板に支えられて起きている。長い前髪の先が唇にまとわりついていた。

「僕は哺乳類じゃないかもしれないよ」彼は言った。

「哺乳類?」私は訊き返した。毛布の縁布についた毛玉が気になって手当たり次第に毟っていた。

「心臓が弱いって前に教えたよね」

「うん」

「心室中隔欠損症って聞いたことあるかな」

「心臓に壁がないの」

「そうそう。実際はちっちゃな穴があいてるってくらいのものなんだけど、動脈血と静脈血が混じって、酸欠になりやすいとか、黴菌が濾過できないとかね。ちょっとした虚弱が出てきてしまう。でね、それって爬虫類の心臓と同じなんだって。魚の心臓はただのポンプで、進化の過程でね、両生類から哺乳類にかけてだんだん心室の壁が出来上がっていくんだよね。その中で爬虫類の心臓は真ん中くらいなの。心臓の左右は分かれてるけど、間の壁がきちんと閉じてない」

「ふうん」

「実は爬虫類なのかもしれないよ。ほら、こういう顔だし」彼はニカッと口を横に開いた。

 確かに三角顔で、鼻が小さくて、すきっ歯だ。

 私は毟った毛玉を固めて大きな毛玉をつくり、腕を外に出して横になった体勢のままごみ箱めがけてできるだけ強く放った。毛玉は三十センチくらい空中を直進したあと、ほとんど直角に落ちてふわふわと床に落ちた。何度か息を吹きかけてみたが届かない。

「治さなかったの?」私は訊いた。

「成長につれて症状が軽くなっていくケースが多いみたいなんだ。完全に穴が塞がる患者もいるくらいね。つまり、一個の個体として生まれてから進化するわけだよ。僕も小さい頃よりはマシになったけど、でもまだ穴はある。指でも突っ込んで確かめたわけじゃないけどさ、あるみたいなんだ。そんなに不便していないから、どうしても治さなきゃいけないってようなものではなかったんだよ。とはいえ、まあ、僕がもし女だったら手術してもらってただろうけどね」

「何、その条件」

「僕は三男じゃない? 上二人が男で、下に妹が一人。兄弟の中で女は妹だけなんだ。僕の名前はスエだろ。字は違うけど末っ子のスエなんだよ。もうこれ以上男はいらないって意味のさ。別に死んでしまってもいいから治さないというわけじゃないけど、どうしても欲しかったものより大事にされないのは仕方がないんじゃないかな」

「手術代をケチったんだ」

「だと思う」

「九木崎の子供になれば会社の金で治してもらえるのにね」

「やだよ。僕はこの心臓に誇りを持ってるんだから」

 私は寝返りを打って彼の胸に手を伸ばした。心臓はもう少し上だけど思ったより自分の腕が短かった。

 彼のしっとりとした肌の下に微かな鼓動を感じた。かなり指先に意識を集中しないとわからないくらいだった。

「ああ」と矢守は思い出したように口を開いた。「不便じゃないけど、体育のマラソンなんかは合法的に見学していたからさ、嫌味の一つや二つは言われたね。いいよなって」そこで彼はちょっと目を瞑る。「……いいや、よくなんかない。僕だって時には思い切り走ってみたくなる。月を追いかけるみたいに、喉が焼けるまで走り続けてみたくなる」

 矢守の胸に手を当てていると彼が声を出す時の振動が指先まで伝わってきた。

 彼は続ける。

「僕はこの心臓に誇りを持っている。でもそれをわかってくれない人間もいる。むしろそういう人間がいるからこそ僕はそれを誇りに思いたくなったのかもしれない」

「それで嫌な思いをするくらいなら、人間でなくたっていい」私は呟いた。

 矢守は慎重に頷く。

「人間だからって人間の条件を満たしているとは限らない」

 私は彼のその言葉を口に出して繰り返した。その逆もあるのだろうか。人間の条件を満たしているからといって人間とは限らない。それは獣かもしれない。

 人間に育てられた人間、人間に育てられた獣。

 親と飼い主は違うのだろうか。もしその関係が血のつながりや生物としての異種といった条件から解放されてしまったら、人間と獣の間に何らかの差異は残るのだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る