6.拍手が聞こえたわ

 水音がしている。ちょろちょろと。公園の中央に設けられた噴水のたてる音だった。二人掛けのベンチに腰かけ、シンディは待っていた。隣の空白が埋まるのを。水音に代わる声がかかるのを。


「来るかどうかもわからないのにね」


 彼との関係が終わったのは十五年も前だ。あれから一度だって連絡を取り合ったことはないし、街で見かけたことだってない。加えて、殺し屋は殺し屋。探偵ではないのだ。彼が来る保証など、どこにもなかった。


「……さむい」


 シンディは肩をすぼめ、太ももをさする。暑くてうんざりする季節も、じきに終わりがやって来る。あと幾つの季節を体験できるだろう。ふと、そんなことを考える。これまでは季節なんて気にも留めなかった。服が変わって、男が変わる。その程度のものとしか思えなかった。なのに今は、胸のおくにまで風が吹き込んでくるような気がする。


「会いたい」


 シンディは呟いた。

 独りぼっちのまま逝くなんて、やっぱり淋しいから。

 柄にもなく神に祈ってみた。

 あの時、彼が去って行くのを黙って見送った神にではない。

 彼女の知る死神に。


 するとその時、噴水の水が高く噴きあがった。

 拡がった水の傘に月明かりが撥ね、目の前を明るく照らした。水溜めに落ちる水音がシャラシャラと鳴り響き――声がした。


「見つけた」


 けれどシンディはふり返らず、跳ねた肩を強張らせて俯いた。

 この期に及んで、まだ覚悟の決まっていない自分が嫌になる。


「シンディ、だよね?」


 時は待ってくれない。

 俯いた視界に、男の両足が映りこむ。

 その時、なぜか胸を張る少女のすがたが思い出された。

 恐るおそる、シンディは顔をあげた。


「久しぶりね」

「よかった。別人じゃなかった」


 ほっと胸を撫でおろす彼を見て、シンディも肩の力を抜いた。

 十五年前そのままだったから。

 目尻のシワが深くなっていても、頬がすこし弛んでいても、髭の剃り跡が濃くなっていても。眉尻の下がった、この困ったような顔つきは、可笑しいくらいシンディの知るアレックスと同じだった。


「隣、いいかな?」

「もちろん」


 シンディはうなずいて、膝のうえに手をのせた。あの頃の気持ちが嘘のように、心はすっかり凪いでいた。ベンチが軋んで、懐かしい顔が真横に来ても。彼女はしみじみと吐きだした。


「時間が経ったのねぇ」 

「ほんとうに。まさか、こんな日が来るなんて思ってもみなかったよ」


 そこで一旦言葉を切って、アレックスはふうと吐息を漏らした。


「正直、来るかどうか迷った。突然、見知らぬ女の子に手紙を押しつけられて、目を通してみたら、あんな内容で」

「しかも送り主は、元恋人」

「そう。ぼく、妻も子どももいるんだ」

「奥さんには言ったの?」

「どうせイタズラでしょって笑われたよ。でも、もし行くなら海外旅行だって」

「良い奥さんなのね」

「とても。だけど、来てしまった」


 まっすぐな眼差しを、シンディは静かに見つめ返す。あの頃なら胸中の熱に呻きもしただろうが、今は違う。彼の目もおなじで。炙られた鉄のような情念は、時が冷ましていったあとだった。


「死の引力にひっぱられた部分は勿論ある。あの頃のことを謝りたいと思う身勝手な自分もいた。だけどそれ以上に、伝えなくちゃいけないことがあると思って来たんだ」

「わたしも。あなたに伝えたいことがあって呼んだの」


 じゃあレディーファーストだ、と彼は言った。

 シンディは感謝の笑みを返して、けれどすぐには話しださず噴水を見つめた。弾けては消える飛沫に、もう戻らない過去を想うと、すこしだけ胸が疼いた。やがて、彼女は言った。


「わたし、あなたがすべてだったわ」


 アレックスは同意するように頷いてから足許を見つめた。

 責めるつもりはなかった。ただ事実だけを話すつもりでいた。だからシンディはあくまで淡々と語った。


「あなたがわたしのステージだった。あなたがいなくなったら、もう立っていられる場所がなくなってしまったような気がした。夢を捨てて、自分も捨てて。夜の仕事で日銭を稼いで、今日まで生きてきた。そして、余命を告げられた」


 鳩尾を押さえると、痺れに似た痛みがあった。


「早く下りてきて欲しいと思ってた幕が、本当に下りてきた。観客なんて誰もいない、喝采のない舞台に、幕だけが。突きつけられたわ。わたしの人生、何もないんだって」


 アレックスが顔を上げた。

 シンディはゆっくりと首をふって、でも、と。言葉を紡ぐ。


「苦しみに喘いでいるとき、ふと、あなたを思い出した。あなた以外、ほとんどなにも浮かんでこなかった。なにもないと思ってた舞台のうえに、あなたがいた足跡がちゃんと残ってた。それに気付いたの」


 言って、シンディは立ちあがる。正面から彼を見下ろすと、薄くなった頭頂部が見えた。十五年の証だった。恋心も、夢も、その中に消えた。けれど、風に吹かれて削れに削れて、これまで見えなかったものが、ようやく見えてきた。


「わたし、あなたと出会えてよかった」


 ふたりの間を風が吹き抜けた。

 アレックスは暫し呆然と、彼女を見つめた。ぱちくりぱちくり瞬くと、突然、破顔した。


「驚いた。ぼくも同じこと考えてたから」


 今度はシンディのほうが呆然とする番だった。


「……どうしてよ。あなたには奥さんも子どもだっているじゃない」

「もちろん、ふたりはぼくの舞台を賑やかにしてくれる最高の仲間さ。だけど色んな人たちがいて、それでようやく舞台は成り立つ。そうだろう?」


 シンディは答える代わりに、ゆっくりと瞬きをした。噴水を振り仰ぐと、歌を口ずさみはじめた。そこに別の歌声が重なった。隣に、アレックスがやって来た。ふたりは束の間、見つめ合い、微笑み合い。絶えず流れる噴水に向きなおると、十五年の想いを歌にのせた。



 Lean on me,when you're not strong

 ぼくを頼ってよ、くじけそうなときは


 I'll be your friend I'll help you carry on

 きみが前へ進む手助けをしたいんだ


 For it won't be long til I'm gonna need somebody to lean on

 きっとぼくも誰かに頼りたくなるときがくるから



 あの時は歌えなかった。

 ビル・ウィザースの『Lean on Me』だった。


 Call me.

 Call me.

 Call me...


 そう繰り返して曲は終わる。

 シンディはその声に応えるように、隣の彼に呼びかける。


「アレックス」


 すると、嬉しそうに彼が笑って。

 痛みが目を覚ました。

 もうここまで。そう言われた気がした。潮時だろうと彼女も思った。交わす言葉が増えるほど、別れは惜しくなる一方だから。


「……今日は来てくれてありがとう」


 絞りだすように、シンディは言った。

 そして、曖昧に笑うアレックスに右手を差し出した。


「最後に、握手をしましょう」


 右手はすぐに握られた。温もりに包まれた。

 アレックスの表情がくしゃりと歪んだ。頬に光る粒が流れた。震えた声で、彼は言った。


「あの頃ぼくは、確かに幸せだった」


 わたしもよ、と答えた声も震えていた。見る見るうちに、前が見えなくなっていった。すこしでも長い間、彼のすがたを見ていたかった。シンディは何度も瞬いて、溜まる雫を払い落とした。


「ぼくはそれを生涯誇りに思う」


 ぶんと大きく手を振られた。

 負けじと大きく振り返した。

 そして、握ったままの手を真上に掲げ、ゆっくりと下ろして頭を下げた。カーテンコールのように、感謝を告げた。


「ありがとう、アレックス。わたしの舞台にも、ようやく拍手が聞こえたわ」



               ◆◆◆◆◆



 いつの間にか、アレックスはいなくなっていた。

 ベンチに座り直すと、微かにまだ熱が残っていた。

 鳩尾を押さえながら、シンディは額の脂汗をぬぐった。

 俯いた視界に、灰色のロングコートが映りこんだ。


「待ちくたびれたぜ」


 死神の声がした。

 シンディは荒い息を吐きながら、彼の手に握られたものを見上げた。大口径のリボルバー。いまさら震えがこみ上げてきた。


「命が惜しくなったなんて言わねぇよな?」


 ウエスタンハットのツバの下、双眸が冷たい光を帯びた。

 シンディは震えを押し殺し、訥々と答えた。


「わたしが、言うのもなんだけど、きっと、惜しくない命なんてないわ」

「じゃあ、逃げてみるか」


 死神は残忍に唇を歪ませた。

 シンディはゆっくりとかぶりを振った。


「あの人が、恋しくならないうちにお願い」


 そして、目を閉じ腕を拡げた。


「最高のフィナーレにしてちょうだい」


 死神は肩をすくめ、撃鉄を起こした。


「なら、こいつが俺からの拍手だ」


 銃声が轟いた。

 女の胸に穴があき、血と呻きが零れた。表情は苦痛に歪んだ。しかし胸の赤が拡がっていくにつれ、安らかな微笑へと変わっていった。


「エヘヘ」


 女の首がかくんと落ちると、殺し屋の背後から少女がすがたを現した。彼女は欠けた前歯を舐め、報酬はどうするのと訊ねた。

 殺し屋は返答代わりに、女のバッグを手にとった。中には、年季の入ったポータブルCDプレイヤーとビル・ウィザースのベスト盤だけが入っていた。それらを少女に押しつけると、殺し屋はさっさと踵をかえしてしまった。


 少女はピンクのリュックに報酬をしまい、殺し屋のあとを追った。公園をでる前に一度だけ、噴水をふり返った。その時、水の柱が高く噴きあがり、シャラシャラと音をたてた。拍手のような音色だ、と彼女は思った。

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