4.ぼくを頼ってよ
男の突っ伏したテーブルには余白がない。本の塔がそびえ立ち、街の景観を収めた写真集が開かれたまま放置され、丸められた紙くずが転がっている。頬の下には開きっ放しのノート。人名、台詞、簡潔な状況説明や演出を記した、いわゆるト書きがあった。
それが十五年前のありふれた景色だった。舞台稽古を終えたシンディがアパートに戻ると、アレックスは大抵そんな風に眠っていた。時計の秒針が動くのよりも、緩やかに上下をくり返す肩のほうが見慣れたものだった。
そこに毛布をかけてやるのがシンディの日課だった。
けれどその日は、閉じた瞼がぴくりと動いて。
腕に額をこすりつけながら、アレックスが半身を起こした。んん、と伸びをすれば寝ぼけた微笑。
「……帰ってたんだね、シンディ」
「今日もお疲れみたいね、アレックス」
「寝るつもりはなかったんだけど。またやっちゃったかぁ」
テーブルを見下ろして苦笑するその横顔を見て、シンディは堪えきれず口許を手で隠す。
「え、なに?」
きょとんとするアレックスに手鏡を渡してやると、彼は眉をはね上げ、またぞろ苦い笑みを浮かべた。
「こりゃすごいね。はっきり文字が写ってる」
「これからはほっぺに書いてみたら?」
「紙代が浮くね。洗面所が仕事場に最適かな」
「資料にカビが生えても知らないわよ?」
「それはまずい」
この案はなしだね、と肩をすくめる。
その頬を拭ってやりながら、シンディは訊ねた。
「ところで、今度の脚本はどう?」
「劇団の仲間は悪くないって言ってくれてる。今日は裏方のみんなで色々詰めてきた」
「じゃあ、いま書いてるやつは?」
「ストック。次のネタがなくなるのは怖いし、今日いろいろ話してたら構想が湧いてきてね」
「傑作になりそうね」
「どうだか。見ての通りだよ」
アレックスは書きかけのノートをぷらぷら振って一転、それより、と両手を打ち鳴らした。
「嬉しいことがあったんだよ!」
「珍しいわね、あなたがそんなにはしゃぐなんて」
「前の舞台、よかったって言ってくれた人がいたんだよ。それがすごい人でさ」
「ふぅん、誰なの?」
「ミスター・タルバーレ」
シンディは言葉を失う。頬に手をあて白目を剥き、倒れこむフリをして、いきおい飛びついた。
「なによ、巨匠じゃない! あなたとも何度も観たわよね、彼の映画!」
「一番褒められてたのは主役だったんだけどね。脚本も好きだって言ってくれた」
「十分じゃない! 観に来てくれただけでもすごい! わたしも、あなたに置いてかれないよう頑張らなくちゃ」
「今回は運がよかっただけさ。頑張らなくちゃいけないのは、ぼくだって一緒だ」
そう言うとアレックスは、シンディを抱き返して耳もとで囁いた。
「いつかスターになったきみを、ぼくのシナリオが支えるんだから」
それが、ふたりの間で何度も交わされてきた夢だった。
シンディは恋人を抱く腕にぐっと力をこめ、頷く拍子にうつむいた。彼の肩に額を押しつけて、そっと吐息を漏らした。そんな恋人の異変を、アレックスは見逃さなかった。
「どうかした?」
シンディは彼を見返して唇を湿した。もごもごと口を動かして、ようやく何か言いかけたところで、テーブルの混沌に目が留まった。出かかったものを慌てて呑みこみ、シンディは相手の頬に口づけた。
「ううん。今日はご馳走にしましょ。久しぶりに早く帰ってこられたから、晩ごはん、わたしが作るわ。テーブルの上、少し片づけてくれる?」
◆◆◆◆◆
その夜。アレックスが寝息をたて始めたころ。
シンディはそっと彼の腕の中から抜けだし、ベランダにでていた。ペンキを塗りたくったような黒々とした空。月明かりだけがどんよりと光っていた。
「次よ、つぎ……」
湿った夜風に吹かれながら、シンディは呟いた。
そう言い聞かせながら、ずっと舞台に立ってきたのだ。
誰よりも早く稽古場に立ち、誰よりも遅くまで稽古場に残って。足のマメが潰れても、喉が嗄れて血の味がしても、爪の先の先まで神経を尖らせてひたすら役になり切ってきた。いつかアレックスの書いた台本以上の演技で、大勢の人々を笑顔にできるように。
そして、またひとつ舞台が終わり、次の舞台の配役を告げられたのが今朝だ。次こそは、今度こそは。自分が主役だ、とシンディは確信していた。ところが主役に挙げられた名前は、去年入団してきた女の子のものだった。
「どうして、よ……」
シンディは声を殺して泣いた。アレックスと抱き合ったとき、この苦しみを、悔しさを吐き出さなかったのを後悔しながら。一方で、期待してもいた。こうして夜の真ん中に立ち尽くしていたら、いつかこの背中を抱きしめてもらえるのではないかと。しかし窓一枚隔てた向こう側、彼は安らかに寝息をたて続けていた。
◆◆◆◆◆
後輩に先を越され、焦りが募るほどに、シンディの演技は精彩を欠いていった。夢への情熱も、絶え間ない努力も、空回りするばかりだった。舞台は迫力だと豪語する演出家にさえ、シンディは「目立ちすぎ」だと批判されることが多くなっていた。
「ただいま」
アパートに戻ると、アレックスはベッドの上で死んだように眠っていた。テーブルで居眠りをする姿は、もう随分と目にしたことがない。多忙だからだ。燻るシンディとは対照的に。目抜き通りのネオンの明かりに、彼だけが確実に近づいていた。
シンディは寝息を背中に聞きながら、すっかり馴染んだベランダの地面を踏んだ。ほんとうはベッドに潜り込んで、彼の腕に抱かれたかった。夢うつつの彼の耳もとで、この苦しみを、悔しさを打ち明けたかった。けれど。
「できないよ……」
アレックスの重荷になりたくない。彼にとっては、今が大事な時期なのだ。
それに。
あの温かな胸に縋ってしまったら、きっと抜け出せなくなってしまう。叶うかどうかもわからない夢の昂りより、今そこにある温もりのほうがずっと愛おしいことに気付いてしまう。
「見つけた」
だから、震える背中に。
ようやく待ち望んだ声をかけられたとき、シンディはそれを喜ぶより拒絶してしまった。肩越しに彼を顧みて、女優らしく嘘っぱちの笑みを浮かべたのだ。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。それより大丈夫?」
「えっ? 大丈夫だよ。ちょっと部屋暑かったから。夜風にあたってただけ」
次こそは、今度こそは。
アレックスの胸に溺れて打ち明けよう。
何度も、そう言い聞かせてきたはずのに。
また言えなかった。
「……そっか」
眠気眼をこすって踵をかえす彼の背中に、そっと手を伸ばした。ちょっと踏みだせば届くはずの指先は、けれど空を掻いた。
アレックスは欠伸をしながら、ベッドに戻っていった。シンディは独り、ベランダから部屋の中を眺めた。片されたテーブルの上には、本の塔も、紙切れの山もなかった。
明くる日もテーブルの空白が埋まることはなかった。
何故ならその朝、アレックスは忽然と姿をくらましてしまったからだ。
ぎっしりと詰まった本棚が、ほとんど空になっているのを見て、シンディは気付いた。部屋を見回してみると、脱いだままそこらに放置されているはずの衣服が、どこにも見当たらなかった。
シンディは転がるように洗面所へ走った。当然、誰の姿もなかった。そんなところが彼の仕事場であるはずなどなかった。交差していた歯ブラシの、一方が消えていた。
くずおれそうになるのを堪えて、シンディはアレックスの痕跡を探した。そして、いつも彼が座っていた椅子の下に、コンパクトのような物が落ちているのに気付いた。シンディは崩れるように屈みこみ、それを手にとった。先月、アレックスが買ってきたばかりのポータブルCDプレイヤーだ。中にはCDがセットされたままだった。
シンディは恐るおそるイヤホンを耳に挿した。再生ボタンを押すと、ピアノの旋律が聞こえてきた。間もなく、そこに歌声が流れた。やさしく、深く、切実な男性の声。やがて彼は、シンディにこう訴えかけてきた。
Lean on me,when you're not strong
ぼくを頼ってよ くじけそうなときは
ビル・ウィザースの『Lean on Me』。
初めて聴いた曲ではない。時々、アレックスが口ずさんでいたのを覚えている。
けれどシンディは。
ただの一度も、この歌に耳を傾けたことがないのに気付いた。
夢という美しい言葉に縋って、彼の想いから目を背けてきたのに気付いた。
だが、もう何もかもが遅かった。ビルは歌い続けていた。
For it won't be long til I'm gonna need somebody to lean on
きっとぼくも誰かに頼りたくなるときがくるから
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