3.こんなものか
少女に導かれるまま、たどり着いたのはボロボロの部屋で。中央のローテーブルに置かれた蝋燭が唯一の明かりだった。
これまでろくな生活をしてこなかったという自覚がシンディにはある。それでも窓にはカーテンくらい引いたし、椅子の脚が折れようものなら新しいものに買い替えてはきた。
ところが、この部屋の主ときたら割れた窓を隠すつもりも、折れたスツールをしまうつもりもないようで。
「ストック起きて! お客さんだよ!」
ソファに横たわって寝息をたてていた。
その上、むっと熱のこもった室内で、なぜかロングコートだ。傍らの蝋燭が眩しいのか、顔にはウエスタンハットを載せている。
「ねぇってば!」
「ああ……?」
少女に身体を揺すられて、ようやくその大きな身体が起き上がる。わざわざウエスタンハットを頭にかぶり直してから、その男は理不尽に少女を睨みつけた。
「うるせぇぞ、マグ」
「うるさいじゃないよ! お客さんだってば!」
ぷりぷりする少女をシッシと追っ払う仕種をすると、偉丈夫はシンディに向きなおり口端を歪めた。どうやら笑ったようだった。
「すまねぇな。そこ座ってくれ。紅茶のひとつも出せねぇが」
向かいのソファを顎で指され、シンディは大人しくそこに腰を下ろす。そして、まじまじと偉丈夫を見る。まるで、映画から出てきた典型的な殺し屋といった風情で、なんとなく胡散臭い感じだ。
「……っ」
しかし、ウエスタンハットの下をのぞき見て考えを改める。
黒々とした双眸に光る、表の人間にはない剣呑さ。
シンディがこれまでとっかえひっかえしてきた男どもとはわけが違った。街灯の明かりから半身をだしたグレーな存在ではない。路地裏にわだかまる闇そのものとでも言ったほうが近かった。
彼は本物だ。正真正銘の殺し屋だ。
目当ての人物に会えた確信を得て、シンディはやや前のめりになる。
「ここがどういう場所かは知ってるよな?」
即座にうなずくと、殺し屋は感心したように目を細めた。
「なら話が早い。あんたが殺したい相手ってのはどこのどいつだ?」
「わたし自身よ」
ところがその返答は不服だったようで。
殺し屋はつまらなそうにソファに背を預けた。
「殺したい奴も、死にたい奴も、ここにはごまんといるわけか」
そして、器用にスツールに腰かけた少女を見る。少女はスプーン片手に俯いていて、どうやらそこに映る自分の顔を見つめているようだった。シンディの視線は、殺し屋と少女の間を忙しなく行き来した。やがて殺し屋は観念したように肩をすくめた。
「すまねぇ。余計なことを言った。ちょっと前にも、自分を殺して欲しいなんて言ってきた奴がいたんでよ。ついな」
「つまり、依頼は受けてくれると?」
「まあ、あんたがそのつもりならな」
「本当ですか!」
思わず前のめりになったシンディを、殺し屋は疎ましそうに睨みつけた。
「だが、ウチにはウチのルールがある。報酬が金とは限らん。あんたの一番大事なもの、それをいただく」
「一番、大事なもの……?」
「それ以外は受けとらん」
殺し屋はぴしゃりと言った。
すると、シンディは打ちのめされたように、へなへなとソファに沈んだ。
殺し屋に抗議したのは、だから依頼人ではなくお付きの少女だった。
「お金も受け取ろうよー! そしたら匂いつきのキャンドルも買えるんだから!」
「うるせぇ、やりくりしてんだろ」
「やりくりじゃダメ! 根本から変えないと! 革命だよ!」
「余計なことうだうだ言ってんじゃねぇ! それよりお前、銃の手入れは済ませたんだろうな」
「完全! 万全! もう安全!」
殺し屋と少女の小競り合いは、しかしシンディの耳には入らない。とうとう嘆息をこぼして顔を覆ってしまう。
「……じゃあ、わたしは死ねないのね」
「あ? なんか言ったか?」
「大事なものがなければ、依頼は受けられないってことでしょう?」
殺し屋は腕を組む。値踏みするようにシンディを見て、やがて言った。
「あんたが何も持たない人間なら、どうしてこんな所まで来たんだ?」
解り切ったことを訊かれて、シンディはうんざりと殺し屋を見返した。
「それが答えよ。大事なものなんてないから、もう、いいのよ」
「なら、勝手に死ねばよかっただろ。自分の力で」
「それができないから、ここに来たんじゃない!」
シンディは、目の前のローテーブルを叩きつけた。蝋燭と少女が一緒に震えた。ややあって、エヘヘと煩わしい笑い声。殺し屋だけは眉ひとつ動かさなかった。
「さっきの言葉、あんたに返すぜ。それが答えだ。引っかかるものがあるから、ひとりじゃ死ねなかったんだよ」
「そんなこと、ないわよ。わたしには何もない。夢も、希望も、家族だってないのよ……」
シンディは肩を震わせた。
もって半年。それが医師から告げられた言葉だった。
なのにあの時、心はひどく静かで。
こんなものか。人生なんて、こんなものか。
そうとしか思えなかった。
「夜の仕事で口に糊して、つまんない男どもと付き合って、それだけよ。ただ、それだけ。思い返して、恋しくなるようなものなんて、何も」
ない。
はずなのに、最後まで言葉がでてこなかった。
ふと懐かしい名を思い出してしまったから。
「……アレックス」
シンディはそれを舌のうえに転がすと、慌てて口許を押さえた。零れでた名前を、とっさに呑みこもうとしたのではない。鳩尾で痛みが弾け、それと同時に込み上げてきたものを堰き止めようとしたのだ。
「う、っあ……!」
指の隙間から血が零れでた。
シンディは耐え難い痛みに呻いた。真っ赤に焼けたプレス機で、はらわたを押し潰されるような痛みが脈を打っていた。突然、視界が暗転し、音が遠のいた。やがて、それらも途絶えた。静謐な闇が彼女を呑みこんでいった。
◆◆◆◆◆
ソファに寝かしつけてはみたものの、シンディの呻きは止まない。血を吐いたのは一度きりだったが、額に浮いた脂汗は拭いても拭いても浮かび上がってくる。あたふたしながら救急車、救急車と喚く少女に、殺し屋ストックは命じた。
「マグ、救急車は呼ぶな。代わりに酒場の人間を呼んでこい」
仮にも殺し屋のアジトだ。騒ぎになってもらっては困る。
マグもそれを理解したのか、黒電話に伸ばしかけた手を引っこめ、足音をバタバタ鳴らし、玄関のドアを叩き開けた。ところが、外に飛びだす寸前でストックを振り仰ぐ。
「バ、バレルでいいの!?」
「ポリ公か酔っ払い以外なら誰でもいい。早くしろ」
「りょ、りょーかい!」
今度こそ、転がるようにマグが出て行く。
依頼人とふたりきりになって、ストックはまた額の汗を拭ってやった。
この女は、自らの死を望んでいる。そして、死にかけている。ならば、道端にでも放り出しておけば、その願いを叶えるのは容易いだろう。
だが、ストックはシンディを見捨てない。依頼を請け負った以上、その決着は彼自身でつけなければならないのだ。
「まったく、こんな所で死なれちゃ迷惑だぜ」
顔をしかめると、シンディの瞼がわずかに開いた。震える唇がなにかを呟く。殺し屋は耳をよせ、かろうじて「バッグ」、「薬」という二つの単語を聞き取った。
「失礼するぜ」
殺し屋は、香水の匂いが染みついた小さなバッグをたぐり寄せる。ポーチと言っても差し支えないその中には、化粧道具や手鏡、古臭いポータブルCDプレイヤーなどがぎゅうぎゅうに詰まっていて、一見、薬らしいものは見当たらなかった。が、底のほうをまさぐってみると、プラスチックの感触。ピルケースだ。
「どれだ」
呻くシンディの前にケースを持っていくと、彼女はふいにカッと目を見開いて、ケースをひったくった。そして、中のものを一気に飲みこんでしまった。
いきおい零れた錠剤を拾ってやっていると、外の階段を駆けあがる慌しい足音が近づいてきた。間もなくドアが開け放たれ、ダークグリーンのスーツの男がまろびこんできた。ストックのかつての相棒、バレルだった。
「バーテンに車を持ってこさせましたよ! ぼく、免許持ってないので!」
「くだらねぇこと言ってんじゃねぇ。それより水もってこい!」
いきなり怒鳴られたバレルは心外そうに眉をつり上げたが、ソファの女性を見るとつべこべ言わず奥の部屋に駆けこんだ。きゅっと栓をひねる音がして、すぐに水が運ばれてくる。ストックはくすんだコップを掴み、それをシンディの口にあてがった。すると彼女はゆっくり、くり返し、喉を鳴らした。やがて、唇からコップが離れると、シンディはぎこちなく首を振った。
「……病院へは、行かない」
「あん?」
「長く苦しみたくない。ゆっくり、死の恐怖に蝕まれるのはごめんよ」
「なるほど。それがウチに来た理由か」
シンディはこっくりと頷いた。
「どうせ病院なんか行っても、汚いソファがきれいなベッドに変わるだけよ」
「殺し屋にケンカ売るとは、いい度胸してやがる」
「怒った? でも、待って。その前に昔話を聞いてくれないかしら」
「図々しい女だな」
ストックはこれ見よがしに嘆息し、背後のバレルを見やった。元相棒は目を眇めたが、すぐに芝居がかった様子で肩をすくめた。スーツの裾をはたき咳ばらいをすると、場違いに優雅な足取りで部屋をでていった。ストックは空になったコップをふたたび水で満たし、病人の側に置いた。
「まあウチは見てのとおりだ。あんたが長話を始めたところで、待ちぼうけを食らう客はいねぇ」
シンディはかすかに表情を和らげた。ふぅふぅと荒い息を吐き捨て、胸に手をのせると瞼を閉じた。眠ってしまったように見えたが、彼女の唇は、訥々と言葉を紡ぎ始めた。
「思い出したの。ひと時、ほんのひと時だけ幸せな時期があったこと。あの頃はまだ夢があった。夢を追いかける情熱があったわ。そしてただ一人、心から愛する人がいたの――」
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