第2話

 深閑としているはずの水中では、思いのほか豊かに音が響く。


 じゃぷじゃぷ。


 数え切れないほどの気泡が浮上していく。気泡の音は私にとって夏風に揺れる風鈴の音色。私はその音を聞きながら気持ち良く遊泳。


 友達が私の隣を横切った。うららかな地上の光が水面によって複雑に屈折し、友達の背中に波模様を映し出していた。


「キュイキュイ!」


 友達が気持ち良いねと言った。


「キュイキュイ!」


 うん、気持ち良い。


 この世界は単純で良い。嘘も見栄も無い。ただ単純な表現のみ。ただ身を任せるのみ。


 ゆったりと泳いでいると、ダイバーが水槽を掃除しにやってきた。


「わーい。遊んでー!」


 私達はダイバーに群がる。全長4メートルの巨体の群れに気にせず、ダイバーは清掃をし始めた。


「遊んでよー」


 私達はダイバーの周りをぐるぐると泳ぐ。私達の構って欲しいアピール。これはまだ序の口。


「遊んでってばー」


 私は堪らずダイバーの足に着けた水かきをぱくり。口に咥えた。


 その様子を見ていた客達が笑った。それでも遊んでくれないダイバー。私達は賢いから、決してやり過ぎるなんてことはしないことをダイバーは理解している。


「もう、遊んでよ!」


 私は駄々をこねるように、水かきを引っ張った。ずるずる引きずられるダイバー。客たちはさらに笑う。


 水槽の向こう側を見た。ああ、彼はまたいるのか。私は彼のもとに寄る。


「君は本当にお調子者だね」


 そう言った彼はとても自然な笑みを浮かべていた。


「私を笑わせてくれてありがとう」


 その言葉を聞いた私は、なんだか嬉しくて円を描くように泳ぐ。その様子を満足そうに見る彼。


 ぱしゃ!


 強烈な光。強烈な音。誰かがカメラで撮影をしたのだ。それもフラッシュを焚いて。


 眩しいな、全くもう。


 少々の不快感。この世界でストレスを感じたのは初めてのことだった。


 しかし現実でこの数百倍のストレスを感じて生きてきた私にとって、こんなことは取るに足らないことだ。


「こら!」


 彼は激怒した。


「ここ撮影禁止だぞ。それもフラッシュを焚くなんて。何を考えている!」


 フラッシュを焚いた若い男性はその迫力に臆して謝りもせずにどこかへ行ってしまう。


 あ、かっこういい。私は素直にそう思った。どうもこの世界では心が単純になり過ぎてしまう。


「まったく」


 彼は腰に手を当て、溜息をついた。


「君、大丈夫だったかい」


 うん、ありがとう。


 彼の言葉がなんだか無性に嬉しくて、心がどきどきしてしまう。私が人間だったら、頰を紅潮させていたことだろう。代わりに私は素早く泳ぎ回って喜びを発散する。


 嬉しい、嬉しいと私は悶えるように鳴く。出来ることなら他のイルカのように空高くジャンプしたい。





 今日は暗闇では無かった。薄っすらと桃色の視界。どうやら瞼が開いているようだ。


 なんだかノイズのような小さな音も聞こえた。


 触覚と嗅覚以外からの刺激で始まる一日は、いつ以来だろうか。


 誰かが私の手を握る。ようやく私はその温もりを信頼出来た。


 そうか、私の視力と聴力は回復するのか。


 良かった。

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