第3話

 立方体の小さな水槽。地上から陽光が差し込んでいて明るい。ガラスの向こう側には沢山の人々。みんなラフな格好をしている。


 お仕事の時間だ。


「もうすぐダイバーの方が来ます」


 水槽の近くに立つアナウンスの女性が言った。若くても水族館の制服をしっかり着こなしていて、とても綺麗な人だった。


「拍手でお出迎えしましょう」


 響き渡る拍手。すると地上の方からダイバーが潜水してきて、こちらに寄ってきた。


 ダイバーが手のひらをこちらに向けた。私は口先をその手のひらにくっつけてその場で停滞する。きっと客には犬でいうところの『お手』のように見えていることだろう。


「それでは、ダイバーさんと握手でご挨拶です」


 ダイバーがまっすぐ手を伸ばした。これは握手のサインだ。私は身体を反らして横にあるヒレを差し出す。


「はい、よろしくー」


 アナウンスの声に合わせて、ダイバーがそれを優しく握った。客は満足そうに笑う。


 次にダイバーは顔をこちらに近づけた。これもサインだ。


「おや、ダイバーさんがシロイルカに耳打ちをしていますね」


 私はそれに合わせて顔を上下に振ったり、左右に振ったりした。客には内緒の相談をしているように見えているのだろうか。


「シロイルカは他のイルカと違って首がとても柔らかいので、このように大きく首を振ることが出来ます」


 ダイバーからご褒美の餌を受け取る。小魚をちゅるりと飲み込んだ。


「さて、お仕事の交渉が済んだようです」


 ダイバーが指でくるりと円を描いた。私はダイバーから離れて、小さな円を描くをようにくるくると泳ぐ。


「このようにシロイルカはとても器用に泳ぐことが出来ます」


 私は地上に待機していたトレーナーに餌をもらう。疲れたからたくさんちょうだい。


 私は餌をもらうと再びダイバーのもとに寄った。


 今度はダイバーの合図で口をぱくぱく開閉する。


「よく見ると口を閉じているときに口が大変小さくなっています。シロイルカの口はとても柔らかく、さらに筋肉も発達している為、口をすぼめるということが出来るんですね」


 アナウンスの説明でもある通り、シロイルカの口は思いのほか自由が利く。母音程度だったら人の唇の動きを再現できるかもしれない。


「その唇で形を作り空気を吹くことによって、バブルリングを作ることが出来るんです。それではやってもらいましょう」


 ダイバーからのサイン。水槽のガラスに向けて両手で指を指す。私は正面を向く。ダイバーがそれを確認すると再度サイン。両手のひらを押し出す。私は空気を口に送って、唇をすぼめる。


――ちゅうの形はね。愛しているの意味なのよ


 一瞬、子供の頃に聞いた母の言葉を思い出す。バブルリングの準備で唇をすぼめている私は、まさに『ちゅう』の形だった。


 私は勢いよく吹く。私の口から綺麗な細いドーナツ型の泡が噴出された。それは徐々に大きくなり、やがて形を崩壊して消えていった。


 拍手喝采と感嘆の声があちこちで挙がる。


 私はダイバーから餌をもらう。今日のお仕事は終わった。


 アナウンスで終了の告知。すると客は去っていき、先ほどの賑わいが嘘のように静かになった。


 ただ一人、例の男性客がいた。


「やあ、お疲れ様」


 その声に私の心は跳ねた。すぐにその男性客のもとに行く。


「君は芸達者だね」


 その言葉に私はときめく。ああ、やっぱり。私は彼に惚れてしまったようだ。


 好き。好き。もっと褒めて。私はこの気持ちを彼に伝えたくて堪らなかった。


「君を見ていると笑い方を思い出せるんだ」


 そう言った彼はとても自然に笑う。


「ありがとう」





「……さん、……ますか」


 微かな女性の声。声を聞いたのは久しぶりだった。


 私は目を開けた。強烈な光。あまりにも眩しくて手で目を覆った。


「……咲さん、……ますか」


 私は先天的な難聴を患っていて、もともとこれ程の聴力しかない。それでも回復したから良かった。


 光に慣れなければ。唇の動きを見ないと完全に言葉を理解することは難しい。


 私は薄目にして覆っていた手を少しずつずらしていく。


 じんわりと光が目に入る。眩しくて痛い。


 ふと涙が零れた。ようやくいつもの生活に戻れる。


「ああ、ああ」


 言葉にならない声を上げて、私は号泣した。

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