第4話 とこしえに続きますように

 今朝、初夏にしては珍しく雨が降った。イディグナ河の水かさが増すのは氾濫の心配があって少しだけ気にかかったが、残虐な太陽がなりを潜め穏やかな日を過ごせるのは実にありがたいことだ。城下町の子供ははしゃいで通りを転げ回った。


 すでに乾燥したワルダ城の柱廊、列柱と列柱の間に座り込んで、ギョクハンとファルザードは並んで巻き物シュワルマを食べていた。羊肉の挽き肉と野菜を薄焼き麺麩パンで巻いたものだ。おやつである。


「いやー、なんか、平和になったね」


 飲み込んでから、ファルザードが言う。


「そうだな。俺、今、平和ボケしてる」


 言ってから、ギョクハンは巻き物シュワルマをかじった。


「ずーっとばたばたしてたから、何をしたらいいのかわからなくて、二、三日ずっと寝てたよ」

「俺は用もなくカラと砂漠を走り回ってた。何も考えず、行き先も決めず、適当に」

「よかったね、やっと野に解き放たれたんだ」

「お前俺のこと何だと思ってるんだ?」


 二人で空を見上げる。高いところは風が強いのか雲がどんどん流れていく。夕方には快晴に戻るだろう。


 あれから一週間が過ぎた。


 ワルダ城はナハル軍に破壊されてしまったが、跡形もなく砕け散ったわけでもなかった。ザイナブと城に住まう使用人たちは城の中で一時的な引っ越しをして生活を続けていた。

 再建工事もすでに昨日始まったところだ。ギョクハンとファルザードが皇帝スルタンから賜った百万金貨ディナールずつ合計二百万金貨ディナールが役に立った。これで人夫を掻き集めて急がせている。見積もりだと冬には間に合うらしい。

 夏の酷暑をどうやってしのぐかが目下の問題だが、アズィーズがザイナブにはヒザーナの郊外の離宮を提供してくれると言っている。ちなみにギョクハンとファルザードは「行ったら何をされるかわかりません」と大反対しているが、アズィーズが聞くわけがない。


 ナハル軍は皇帝スルタン軍によって壊滅した。叩き潰されたナハル軍は、しばらくは復活しなさそうである。


 アズィーズはあのあとナハルの都にも向かったようだ。しかし、ナハルの住民はほぼ丸ごと保護され、皇帝スルタンの名において生活がもとに戻るまでの施しを受けることになった。全部アズィーズの采配だ。


 アズィーズといえば、皇帝スルタン軍が一万騎の大軍に膨れ上がったのも、彼が周辺諸国を漫遊して国主アミールたちを口説き落としていたかららしい。本当はただ砂漠を放浪していたわけではなかったのだ。有能であることに腹が立つ。


 だが、彼が皇帝スルタンになれば世は確実に変わるだろう。


 昨日、ザイナブあてに初めての手紙が届いた。鬱金香チューリップの押し花が入っていたそうだ。ギョクハンとファルザードはあまりの気障きざさが恥ずかしくてのたうち回った。


 ギョクハンもファルザードも、顔を合わせることはあったが、なんとなく時間が取れず、今になるまで二人きりになることはなかった。ギョクハンは傭役軍人マムルークとしての日常に戻ろうとしている。ファルザードはザイナブが彼のための新しい職場を探して城内を連れ回しているらしい。やっと今日、こうして二人で午後を過ごせることになった。


「ナハルのことだけどさ」


 麺麩パンでできた皮から葉を引っ張り出し、食べてから、ファルザードが言う。


「ムハッラム、聞いた?」


 ギョクハンは頷いた。


「ああ。死んだんだってな」

「一応、戦の中での負傷がもとで、っていう、戦死みたいな扱いになってるらしいけど――僕、心当たりがあるんだよね」

「俺も、なんとなく、わかる」


 声を揃えて「ジーライルだ」と言う。


「アズィーズ様にとって邪魔だったから、あいつが始末したんだ」

「やっぱりギョクもそう思う?」

「それがアズィーズ様の命令なのかジーライルの独断なのかはわからないけどな。あいつ、なんとなく、それくらい、やりそう。ナハル軍の陣中に忍び込むなんて簡単だと思う」

「僕もそんな気がしてる。もういいけどね。ナハルは皇帝スルタン直轄領になるってさ。ワルダの――帝国の脅威じゃなくなった。結果としてそういうことになったんだから、深追いする必要ないかな、って」


 ワルダに帰ってきたのだ。ワルダの外のことはそんなに興味がない。


 勉強しなければならない、とは、思う。今回の旅で自分は知らないことがたくさんあるのを学んだ。もっと学んでいかなければならない。もっと外に目を向けねばならない。


 しかし、今は、帰ってきたばかりなのだ。


 世界は広い。まだまだ多くの正義と悪が眠っている。


 知らなければならない。


 ただ、今は、ファルザードとのんびり巻き物シュワルマを食べていたい。


「ギョクはこれからどうするの?」

「今までと変わらない」


 ギョクハンは答えた。

「俺は傭役軍人マムルークを続けたい。傭役軍人マムルークはただ金で売り買いされるだけじゃない、誇り高い戦士の仕事だからな。体を鍛えて、腕を磨いて、有事に備える。それから交代で城壁を見張る。ザイナブ様がお出かけの時は護衛をする。そういう毎日に戻る」

「そっか」

「でも今回の件の褒美としてちょっと昇進するらしい。部下ができて給金が増える。まあ、その部下もみんな俺より年上だから、部下というよりお目付け役みたいな感じでちょっともやもやするけど」

「よかったね。やっぱり強い傭役軍人マムルークって出世するんだなあ、十年後には高級武官になってそう」

「どうだか。ザイナブ様がヒザーナの宮殿に行くことになったら護衛としてついていくかもしれないし。俺はワルダというよりザイナブ様をお守りしたいからな」

「それだけど」


 一度口の中のものを飲み込む。


「ザイナブ様、ずっとワルダ城にいらっしゃるかもしれないよ」

「どういうことだ?」

「アズィーズ様はハサン様の死後も本領を安堵すると手紙に書いていたらしい。ワルダ城城主はザイナブ様になる。女国主アミールの誕生だ」

「って言ったって、じゃあ、結婚の話はどうなるんだよ」

「それも並行して進めるらしいから、どうなるんだろうね。アズィーズ様の通い婚? 夫婦関係ってよくわからないなあ。いずれにしてもワルダ城城主と皇妃を兼任なさるお考えみたいだ」


 ギョクハンは「へー」と言いながら巻き物シュワルマをかじった。とてつもなく安心してしまったが、口には出さなかった。戦士の男はそういうことは言わないのである。


「お前は?」


 ファルザードが振り向く。


「お前は、これから先、何をやるんだ?」


 ハサンは、死んだのだ。ファルザードは重い務めから解放された。しかしそれは同時に仕事がなくなったということでもある。最悪城の外に出されるかもしれない――そう思っていたのだ。


 ファルザードが、微笑んだ。


「当面はザイナブ様の小姓をするよ。一、二年くらいかな? とりあえず十五まではザイナブ様がお手元で保護してくださるとのことだよ」


 ギョクハンはファルザードに悟られないよう息を吐いた。


「それで……、それから」


 目を細める。


「ザイナブ様は、僕を書記カーティブにするとおっしゃった」


 ギョクハンも心が沸き立った。


「解放奴隷になって、ザイナブ様のおそばで文官として働けるんだ。勉強して、試験に通らなきゃ、だけどね。いずれにせよ僕はもう奴隷ではなくなる。僕は僕の意思でザイナブ様にお仕えするんだ」

「お前なら余裕だろ」

「そうだといいんだけどなあ」


 しかし異教徒の身で書記カーティブになるなら改宗か人頭税ジズヤの支払いが求められるだろう。それはファルザードにとって過酷なことかもしれない。


 だが、彼なら乗り切る気がした。彼は強い。加えて、ザイナブが導いてくれるはずだ。ギョクハンはもう心配しない。


 この城で、ずっと、ザイナブとファルザードと、生きていくことができる。ギョクハンにとっては、それは何よりもの褒美だった。


 今、幸せだ。


「シャジャラの五万金貨ディナール、いつ取りに行く?」

「どうしようかな。ジーライルに預けて増やしてもらうっていう手もあるよね」

「あいつに渡すのかよ……俺ちょっと不安だな」

「まあ、いいさ。何にも急いじゃいないんだし、ゆっくり考えようよ」

「そうだな。急いでない。これからゆっくり考えるか」


 雲の隙間から日の光が下りてきた。その神々しさと言ったら、ギョクハンの語彙力では言い尽くせない。美しいワルダの午後、平和なひと時だ。

 何よりも尊い。


 この平和が、とこしえに続きますように。




<完>



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狼の子と猫の子のアルフライラ 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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