4-2
忘れたいことと、忘れたくないことがあった。時としてそれらは明確に区切られていることもあるが、一方で二つ同時に存在することもある。それがどうしようもなく厄介で、忘れたくとも忘れたくはないからどこまでも首元を掴んでいて、時折じんわりと首を絞め上げ息をすることさえ難しくなる。
今、こうして一歩一歩階段を上がるごとに、そんな記憶がまさしく僕の首を絞め上げるようであった。
そこら中に過去の僕がいた。忘れていたような気がしていたけれど、ずっと僕はこの場所を忘れることなく覚えていた。
踊り場から見える上階を、窓ガラスから射す太陽の光を、どこか寂しげな匂いや、遠くに聞こえる生徒の声、音楽室の鍵の冷たさと感触。その全てを覚えていた。
昔、僕は確かにこの鍵を手にして今と同じように階段を上り音楽室へと向かっていたのだ。
その時の僕は、果たして何を考えながら足を動かしていたのだろう。
これからピアノを弾く。今日は上手く弾けるだろうか。昨日は出来なかったけれど今日は出来るだろうか。そんな、不安でさえ輝くような思いを抱いていたのだろうか。
ただ確かなことは、今の僕の足はどうしようもなく重いということだ。音楽室の鍵が、手の中でこれ以上にないほど存在を主張しているということだ。
歩くほどに首は絞め上げられ、音楽室は近づいてくる。
何も変わらないように見えた。音楽室の扉は傷こそ増えたようだが、薄肌色に錆びたドアノブは変わらない。
目を閉じて、息を大きく吸って吐く。
目を開けて、鍵を差し込んで回す。カチャリと言う音が、僕の内側の別の何かをこじ開けるかのように耳から伝わり、懐かしい教室の扉が開いた。
ゆっくりと、僕の頭の中に残っている過去の音楽室と、今目を通して入って来る音楽室を照らし合わせながら視線を運ぶ。
多くの楽曲を残してきた作曲家達の肖像画。この学校の校歌の歌詞。短い五線譜が端に書かれた黒板に、音楽発表会なんかで使用したティンパニーだとか大太鼓と言った打楽器やアコーディオン。一部の楽器は使われていないのか、近寄って見ると少しばかり埃が目立っている。
ここは、確かに僕がよく知る音楽室だった。かつて毎日のように通っていた音楽室だ。
小学三年生から中学三年生までの約六年間。僕はここでピアノと共に放課後の時間を過ごした。
「…………」
振り返ればそこにピアノがある。音楽室に入ってすぐの左手側。海が一面に見える窓ガラスを背にピアノが静かに佇んでいることだろう。
心臓が耳元でドクドクと脈打っている。静寂を保った音楽室に、僕自身の心音が響き渡るようで足が途端に動かなくなる。
僕の後ろにあのピアノがあるのだ。最も長い時間を共に過ごしたピアノがすぐ後ろにある。
これまでピアノと過ごしてきたありとあらゆる記憶がとてつもない速さで遠のいて行くのが分かった。あの舞台上で初めてピアノを怖いと思った瞬間。仕事先でピアノに触り、嫌悪から胃の中身を全て便器にぶちまけた時のこと。高校で必死に多くの楽曲に食らいついてきたこと。中学校の卒業式でピアノを弾いたこと。写真に納まった僕とピアノ。北川先生と一緒に、この音楽室でピアノに触れ、祖母の家で初めてピアノを目にした。
耳元で鳴り出すのだ。ピアノの音、祖母の声、北川先生の声、鳴海の声、彼女の声。
すべてが遠のき、辺りは真っ白になって、遠くへ行ってしまった記憶は音となって線を引き、僕はその線を辿るように振り返ると、そこにはピアノが一つ、僕をジッと見つめるようにそこにある。
歩けと、自分でそう言い聞かせなければ足は動いてくれなかった。一歩前へ動くたびに、馬鹿らしくなるほどの苦悩を経て歩けと叫び、そうしなければとても前へと進むことが出来なかった。
黒い塊。恐怖の象徴で、それでもどうしたって捨てることが出来ない刺々しい感情の集合体。
いっその事、忘れることが出来ればどれほど救われるか。そう思ったからこそ、初めからピアノなんてものと向き合わなければ良かっただとか過去の自分に無謀な夢など見るなと言いつけてやりたくもなった。
それでも、結局どうしようもなかったのだと思う。そういう道を辿ることしか出来なかったのだ。それを愚かな選択であったと否定したくもなったけれど、結局僕はまたこうして不愛想な黒い塊の前に立っている。
いつもそうだった。僕が鍵盤に触れなければこいつは音を奏でてくれない。ピアノの音色が好きなのだ。祖母の奏でてくれたあのキラキラ星がずっと僕の中に残っている。どこまでも美しく、複雑に絡み合って遠くへと伸びて行く線。言葉なんてものを越えた何かがそこにはあるような気がしていて、こいつの声に囚われてしまった僕は、やはりどこまでも愚か者だ。
この選択をいつかまた悔いる時が来るかもしれない。こんなことはやめろと、言い付けてやるのなら今だ。
白と黒の鍵盤。
囚われ続けた音色。
ピアノに選ばれなかった自分。
僕が求めていたものは、僕を求めてなどいなかった。
その事実が右手の人差し指に収束して鍵盤の前で震えていた。
僕は、僕の好きな音色を求めていいのか。
震える人差し指に、何かとても優しい線が絡みつく。
――私は、信世君の弾くピアノ、大好きだよ――
複雑に絡み切ったものを紐解いて、最後に残ったのはそんな声だった。
人差し指の震えが止まる。
僕の人差し指は確かにピアノと繋がった。
重く、とても重く、鍵盤は沈み込む。
ポーンと、心地の良い音の線が僕とピアノしかいない真っ白な空間を駆けて行く。
どこまでも、どこまでも遠くへ。
あの海のその先へ。
「嫌いになってしまうほど、どうしようもなくこの音色が好きなんでしょ」と、まだ少年であった僕が、えくぼなんかを作って無邪気に笑っていた。
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