第四章

4-1


 目を覚まし、朝食を食べ、自室で卒業アルバムをめくった後、僕はコートを羽織って学校へと足を向けた。

 白い息は澄んだ空へ昇って行き、もうじき今年も終わりを迎える時期となった所為なのか、冬はさらに厳しさを増していくようで、空気がより一層張り詰めていた。そんな張り詰めた空気はむき出しの頬を引き締めるように風となって僕よりも先に前へと駆けて行く。

 午前十時の通学路。まるで不良か何かになったような心地で、僕は冬の通学路を歩いていた。


「…………」


 もう一度ピアノと向き合ってみる。もう一度夢を夢のまま追いかけ続けていたあの頃の少年に還る。それはきっと後退することを意味していて、これまで積み上げて来たことはすべて無意味であったと自分自身で自分を否定するかのようだ。そのことが辛くはないと言えば嘘になるけれど、この痛みは今の僕には必要なものなのだと思う。

 おそらく、僕はどこかで何かを落としたか、あるいは忘れたか、間違えたのだと思う。それを正すには、やはり来た道を引き返すほか方法はないのかもしれない。

 もう何年もピアノを弾いていない。きっと指も上手くは動いてくれないだろう。そもそも、鍵盤を触れることが出来るようにあるのかも分からない。

 それでも、僕はもう決めることにした。昨日の夜、ベッドの中で散々頭を悩ましたが、その結果やはりもう一度向き合ってみる選択をすることにしたのだ。

 仮に、やはり僕はどうしようもなくピアノのことが怖くなって弾くことが出来ないということが分かったのなら、それはそれでいいのだと思う。そうではなくて、もしもピアノをもう一度弾くことで何かを見出すことが出来たのなら、それはそれで僕の進むべき道を示してくれるかもしれない。

 卒業式と共に執り行われる閉校式は三月四日。約四か月間。これまでピアノと向き合って来た年月を考えれば、四か月間なんて時間はあっという間に過ぎ去って行くだろう。

 胃の中身をぶちまけようとも、目の前が揺らいで倒れそうになったとしても、もう一度ピアノと真剣に向き合うのは経った四か月間だ。それくらいならきっと大丈夫。

 常に海の鳴き声と共にある学校は、十年前と同じようにそこにある。僕もここに通い、教室でみんなと一緒に授業を受けていた日々があったのだと思い返すと、果たして本当にそんな日々があったのかと疑ってしまう位には時間は過ぎ去ったのだと思う。

 先日来た時と同じように校門から学校の敷地内に入り、かつて出入りしていた下駄箱のある昇降口ではなく来客用の玄関口から校舎内に入る。事務室に声をかけ入校許可をもらった後に、北川先生に会うため職員室を目指した。

 もう一度、ピアノを弾いてみようと思います。ですから、閉校式でピアノを弾かせてください。

 果たしてすんなりとそんな言葉が僕の口から出て行ってくれるかそれだけが気がかりだった。

 授業中の校舎内では、どこからか子供の声が聞こえて来て、どことなく寂しく聞こえるそれらは僕しか歩いていない廊下に反響している。

 一歩一歩進み、職員室に入る。ここにきて、北川先生はもしかしたら授業中で職員室に居ないかもしれないということに気が付いたが、どうやら杞憂だったらしく、職員室に入るとすぐに僕の存在に気が付いた北川先生が「いらっしゃい」とこちらに手を振ってくれた。

 僕は「失礼します」と職員室を進み、北川先生のいる机の前立つ。


「急に来てしまった申し訳ありません」

「いいですよ。授業もありませんからね。それで、今日はどうしましたか?」


 北川先生は、僕の顔を見て、僕の答えを待つように微笑む。職員室で、北川先生の前で、こうして立っている。何だか小学生か中学生に戻ったような心地がしてくる。


「閉校式の件、是非僕にやらせてください」


 自然と、そうあるべきかのように言葉が外へ出て行った。僕にやらせてほしい。心に抱いていた感情を、そのまま言葉にのせて口にするのは少しむず痒い。


「はい。頼んだのはこちらですから、むしろ私の方こそありがとうございます。ぜひ信世君にピアノを弾いて欲しいと前々から思っていました」


 それから北川先生は「ところで、閉校式ではどんな曲を弾くか決めていますか?」と僕に尋ねる。

 そうだ。そう言われれば、閉校式で何を弾くかはまだ決めてはいなかった。

 どんな曲を弾けばいいだろう。閉校式であるから、それに合いそうな曲が良いのだろうが、しかし今の僕がどれほどピアノを弾くことが出来なくなっているのか分からない限り、決めようがないのも事実だ。

 だから僕は「すいません。まだ決めることが出来ていないです」と、そう返す他言葉がなかった。

「そうですか。分かりました。では、決まったらまた連絡をください」と、北川先生はメモに電話番号を書いて僕に渡してくれる。


「ありがとうございます」

「いえいえ。それと練習がしたい場合は私に言ってください。授業がなければ音楽室を使わせてあげます」

「本当ですか?」

「ええ、構いませんよ」


 ちょうど、どこで練習をしようか悩んでいたところだった。祖母の家にあるピアノを使うことも考えてはいたが、しかしあのピアノは調律が出来ていない。だから、学校のピアノを使わせてくれるという北川先生の提案は、素直に嬉しい。


「えっと、じゃあ早速なんですけど……」


 やるなら早く。期間は四ヶ月しかない。


「ええ、分かりました」


 北川先生はそう言って立ち上がり、懐かしい鍵を一つ持って僕に手渡してくれる。

 それは、音楽室の鍵だった。

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