4-3

 これほど時間を長く感じたことはなかった。体の底から唐突に何かが這い上がって来て、その度体を丸めて抑え込みながら、一つ一つを取り戻すように鍵盤を押し込んだ。

 こんなにもピアノを弾くことが出来なくなってしまったのかと、かつて僕がピアノを弾いていたなんて嘘なのではないのかと疑ってしまうほどだった。

 指が動かない。ただでさえ惨めな恐怖心から度々指が震えるというのに、もう何年もピアノを弾いてこなかったブランクから、かつてのように指を動かすことが難しかった。

 鈍っていた。指先の感覚も、音に対する敏感さも、これまで自然にやって来たことを自然に行うことが難しかった。


「…………」


 覚悟はしていた。していたけれど、その覚悟を易々と越えて行くほどに僕は落ちぶれていたようだ。

 長い、とても長い時間を音楽室で過ごし、窓ガラスから射しこんだ真っ赤な光が黒いピアノを照らす頃、僕だけしかいなかった音楽室に別の人間がやって来たのが分かった。

 音楽室の出入り口。扉をほんの少し開けて中の様子を窺っている顔が二つ。

 男の子と女の子。きっと、今この学校に通っている生徒だと思う。まだまだ小さな子供で、純粋な瞳をこちらに向けている。

 小さな子供は何やらコソコソと話をしている様で、隠れているつもりなのだろうがバレバレだ。

 話しかけた方が良いのだろうか。しかし何と声をかければいいのだろう。見たところ小学二年生か三年生くらいだと思う。あれくらいの子供と触れ合った経験が全くないから、どうすればいいのか全く見当がつかない。

 女の子の方は何やら「もどろうよ」なんて怯えたような声を出していて、男の子の方は「大丈夫だって、もうちょっと」なんて何かを期待するかのような表情をしている。

 一体何を期待しているのか。少し考えて、その期待するものが何なのか思い当たった。


「…………」


 鍵盤を一つ押しこむ。夕暮れ時の音楽室に、一つの音が響く。すると、思った通り小さな男の子と女の子はヒソヒソと話をするのを止めてジッとこちらに瞳を向けて来た。

 キラキラとした目をしていた男の子の方は言うまでもなく、オドオドしていた女の子も純粋な興味を隠しきれていないような表情をしていて、それが何だかとても穏やかで平和的な、とても大切な物のように感じられた。

 多分、この小さな二人は僕の弾くピアノの音が気になってここに迷い込んだのだろう。僕が小学生で同じように音楽室からピアノの音が聞こえて来たら、きっと鳴海に連れられてあんな風に隠れて音楽室の中を伺っていたと思う。

 なんだかあの男の子と女の子がとても可愛らしく見えて来て、何か弾いてやろうかと自然と僕の指は動き出す。

 キラキラ星を一フレーズ。祖母が昔僕に聞かせてくれたようにゆったりと夜の海の上で輝くような音を。

数十秒という短い演奏だ。それでも男の子と女の子は星なんかに負けないほど瞳を輝かせて僕のピアノの音を聞いてくれていて、それがむず痒くもあり、純粋に嬉しくもあった。

鍵盤から指を離すのと、小さいけれど大きい拍手が聞こえて来るのは同時だった。

 それから少しして、そんな拍手は男の子の「あ、」というどこか抜けた声と共に途端と途絶える。


「大丈夫だよ」


 僕はそんなことを呟いて立ち上がり、音楽室の扉の方へと向かった。男の子の方は気まずそうに苦笑いを浮かべながら鼻の頭を掻いていて、女の子の方はオドオドと男の子の服の袖を掴んでいる。

 子供というのはこんなにも小さかっただろうかと、目の前にいるこの子達を見てそんなことを思った。

 見える景色も変わるはずだ。僕も昔はこんなにも小さな背で駆けまわったり、ピアノを弾いたり、色々なものを見て来たのだ。背が大きくなれば子供の頃に届くことなどなかったものにまで届くようになるし、見えなかったものにまで目が届くようになる。見えなくてよかったものまで見えるようになってしまう。


「僕は、安達信也って言います」


 屈んで、目線を子供と合わせる。すると、子供たちの警戒の色が少し薄まっていき、女の子の方も男の子の服の袖から手を離す。


「俺は、山本晴。で、こっちは琴音ちゃん」


 琴音ちゃん、という女の子は男の子に続くように「深水、琴音、です」とたどたどしく頭を下げる。


「晴君と琴音さん。二人は小学生?」

「うん。俺と琴音ちゃん、二年生」

「そっか」


 小学二年生。この学校は廃校になるらしいから、きっとこの子達は来年からどこか別の学校に転校することになるのだろう。


「二人は、この学校は好き?」


 そう尋ねると、晴君と琴音さんは一瞬の迷いもなく「好き!」と笑いながら答えてくれる。その笑顔が眩しくもあり、同時に寂しくもあった。


「お兄さん、ピアノすげぇ上手いんだな! 北川先生よりも上手かもしれない」

「そうかな?」

「そうだよ! なんか俺、こう、ぶわってなった!」


 晴君は両手を大きく広げる。なんだかその姿が可愛らしくて、純粋に嬉しい。


「ありがとう。誰かからピアノを褒められるのは久しぶりだよ」

「そうなの?」

「うん」


 僕の演奏を聞いて、こんなにも表情を明るくしてくれる人がいる。もう随分とそんな顔をしてくれる人を見てなかった。いつからかお前の演奏は全くダメだと否定されるばかりで、笑うどころか眉間に皺を寄せて怒鳴られたり、呆れられたようにため息をつかれることばかりだった。


「あ、こら! まだ帰りのホームルーム終わってないでしょ」


 ふと、そんな声が廊下の方から聞こえて来て、目の前の晴君と琴音ちゃんは慌てて僕の背中に回って隠れる。

 誰かと思えば、廊下からやって来たのは彼女だった。


「あれ? 信世君?」

「ど、どうも」


 彼女はこの学校で先生をやっているのだからこの場にいても不思議ではない。むしろ僕がここにいる方が不思議なことで、当たり前のように彼女は呆気にとられたような顔をしていた。


「ピアノの練習をしようと思って音楽室を借りていたんだ」


 そう言いながら立ち上がると、晴君と琴音さんは僕の足にしがみつき、晴君の方は

「先生、このお兄ちゃんすげぇピアノ上手いんだぜ!」とまるで自分のことのように話してくれて、それが僕の内側をそっと撫でる様でどうにもくすぐったかった。


「そっか~。でもね、先生はそんな事とっくに知っているの」


 彼女は僕の前で屈み、晴君と琴音さんにそう話す。琴音さんが「そう、なの」と尋ねると、彼女は「そう。私があなた達みたいに小学生だった時から、ずっと知っているの」と、二人の頭を撫でる。その姿を目の当たりにして、こう思うのも可笑しな話だけれど、本当に彼女はこの学校で先生なのだなと、そんなことを感じた。


「それよりも、帰りのホームルームがまだでしょう。ほら、教室に帰るわよ」


 すると、晴君と琴音さんは「ごめんなさい」と僕の足から離れる。


「ごめんね、信世君」

「ああいや、大丈夫だよ」

「そっか、ありがとう」


 すると、彼女は僕の方に近づいて「十八時くらいに仕事が終わると思うから、久しぶりに一緒に帰る?」なんて笑って、僕が「いいよ」と答えると、「じゃあ音楽室で待っていて」と手を振って音楽室を出て行った。

 晴君は「お兄さん、またピアノ聞かせてね!」と言い、琴音さんは「わ、私も聞きたいです」と彼女の後を追うように歩いて行った。


「…………」


 音楽室に静寂が戻る。晴君と琴音さん、二人や彼女の声がどこまでも耳の中で響いていて、それが僕を内側から心地よく揺すっている。

 こんな心地になるのは何年振りだろうか。

 忘れていた感情が、一つ返って来たような気がした。

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