壁(波山と白川)

 波山の部屋の壁には、一枚だけびっしりと「僕は何も知らない」と印字された面がある。明朝体で均一に、何行にも渡って羅列されるその文字列に、流石の白川もひくりと口角を震わせた。

「お前の家には来る度にゾクッとさせられるよ。椅子は一脚しかないし、テーブルの形は三角だし、まるでマグリットの絵の中みたいだ」

 白川がスケッチブック一冊を抱えてやって来たので、波山は「おいこら友人の家に押し掛けておいてその言い種はなんだ」と不機嫌に返した。

 白川はカーペットも引かれていなければ座蒲団も用意されていないフローリングの床に胡座を掻く。切れ長の瞳はそのままに、眉だけがすっと下がった。

「別に悪口なんかじゃない。ぼくはぼくのゲイジツ的感性に則って、この部屋を形容しただけだよ」

「ゲイジツ的感性って、きみがそんな言葉を使うとはね。とうとう面倒くさくなったのか」

 普段は何かと「芸術」という言葉を避け、自分の持論を展開する白川だったが、こんな簡単な言葉を使うくらいなのだから、もしかしたら彼は疲れているのかもしれない。波山はそう推察した。

「今日はいやに意地悪じゃないか波山くん……」

「先に妙なことを言ったのはおまえだよ」

 茶の入った湯呑みを二杯持ってきて、波山も床に座り込んだ。話を聴けば、白川は日課である写生をしに街をフラフラと歩き回っていたらしい。近くまで来たので、気まぐれに波山のアパートのチャイムを押したようだった。恐らく鉛筆は、ジーンズのポケットにねじ込まれているのだろう。

 画用紙には今日の日付が記されたスケッチがいくつも描かれていた。建物もあれば、近くの河川やその土手の風景もあった。人の姿もちらほらと描かれている。精密に描かれたそれらを通して、不健康にも一日中部屋に籠っていた波山は、今日の街の様子をありありと知ることができたのだった。

 茶を啜り、我が家であるかのようにだらける白川を横目に、波山は黙ってスケッチを捲っていたが、その絵図の中に特徴的な姿をした人物を見つけた。

「おい白川よ」

「なんだね波山くん」

「これはどこで見つけた子供だい」

 波山が一ページを白川の顔に突きつけると、白川は「はあ」と首をかしげた。そのページには、サーカスの一団にでも所属していそうな、胸当てをつけてゆったりしたズボンを履き、そこかしこにエキゾチックな装飾を着けた少年だけが描かれていた。風景まで書き込む白川にしては珍しく、その少年以外は余白が広がっている。

 白川は暫し顎を触りながら考えていたが、直に首を反対方向に倒した。

「わかんない。そんなもの、描いた覚えがないよ。でもぼくの絵じゃないか。不思議なこともあったもんだ」

 心底不可解そうにスケッチブックを睨む白川。

 波山はそう聞くと、思わず履いていたスカートの裾を握った。白川の背後に、ちらちらと装飾が光っている。

「白川。僕の家の壁、あれは僕が入居当初に自戒を込めて張った壁紙だけど」

「うん、知ってるよ。教えてもらったから」

「今の僕にはそれは見えない」

 波山はそう言うと、白川に差し出していたスケッチを指差した。

「代わりに、こいつがそこにいる」

 サーカスの踊り子を思わせるエキゾチックでハイカラな少年が、くすくすと笑いながら波山を視ている。

 白川は振り返った。けれども、白川は壁を見るばかりで、目の前の少年を知覚していないようだった。

「はあ、それはなんというか──」

 こちらに姿勢を戻した白川は、肩を竦めた。困ったような、しかし好奇心も含まれた複雑な表情をしている。

「大変なことだね」

 まあーったく君は面倒な奴だよ、と、少年が言った気がした。波山は席を立つと、三杯目の茶を用意すべく急須へ湯を淹れるのだった。



 トーデストリープ、──トリーはいつも唐突に顕れる。

 かつて波山を悩ませた幻覚の少年は、いつも通りに波山を責め続けるだろう。そういう風に作られたので、トリーは自分の本分に従っているだけなのだ。

 波山は常に、真実とは遠いところにいる。けれどそれは、決して悲しいことではないのだ。それがわかっているから、きっと今回も、上手く遊んであげられるだろう。


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