コブシの絵(波山と白川)

 大学時代の話である。

 道を歩いていると、視界の先に白い花をつけた樹があった。桜かと思って近付いてみると、もっと大ぶりで細長い花びらだった。山帽子かと思えば少し樹の背が高い。ハナミズキにしても、少々花の形が違う気がした。匂いもよくわからない。

 ささやかな風に吹かれながら、波山は立ち尽くした。

「おお、コブシじゃないか。そうか、もうそんな時期か」

 頷く白川の横で、波山は顔面蒼白でその花を眺めていた。波山にはその樹の名前がわからなかったのだ。なんだかそれが酷く恥ずかしい事のように思えた。ここはよく通る道なのに、その樹のことをまったく気に掛けていなかったという事実が受け入れがたかったのかもしれない。

 普段本を読み込んでいるのに、こんなことも知らないのかと思われるのが怖いのかもしれない。そんな自分のちっぽけなプライドにも、自家中毒を起こしそうになった。

「よく知っていたな白川」

 波山はやっとの思いでそう言った。

「ウン。植物観察は絵描きの嗜みだからね」

 適当なことを言って「はっはっは」と白川は大袈裟に笑った。

「まあぼくは好きだから知っていたのさ」

「そうだろうか。毎日この道を通っているのに知らなかった。知ろうとしなかったんだぞ」

 波山が肩を落としてそう言うと、白川はフーンと興味が無さそうに相槌を打った。

「今時花の名前が解らなくても悪いことじゃないと思うけどねえ。何ならぼくが一枚描いてやるから、あとで図鑑で調べるといいよ。きみはそっちの方が得意だろう」

 白川は慰めるように言うと鞄の中からスケッチブックを取り出す。そして一時間ほどその場に留まってコブシの樹を描いていた。彼は筆が早い方だがデッサンも見事なもので、波山が呆けながら見上げているコブシの樹をそっくりに紙面に写し出していた。

「喜べ、きみがコレの名前を知らなかったお陰で名画が誕生したぞ」

「うう、皮肉なことだ」

 にやりと意地悪く笑って白川が絵を差し出すと、波山は顔をしかめた。こいつは全く自由な奴だ。

 写実的ではあるのだが、どこか弾むような雰囲気がある気がする。白川が心から楽しんで描いているからだろうか。

 白川とはそういう奴なのだ。

「あ、僕が描いてある」

 コブシの樹のすぐ側に、それを眺める波山の姿があった。風を含んで膨らんだスカートの襞と髪の毛が、如何にも柔らかそうだった。

「きみはいつもヒラヒラしている服を着ているから、描くのが楽しいんだ」

 白川は何気ない様子でそう言っていた。その言葉に波山は、なんとなく血の気を取り戻した。或いは白川がマイペースに絵を描きはじめたものだから、毒気が抜かれたのかもしれない。

 それでもやはり、道端で見掛けた樹の名前が分からないのは、なんだか損をしている気がした。

「そうかい。ありがとう」

 波山はその紙面を持って家に帰ったわけだが、不思議と罪悪感は消えていた。成る程白川の絵には力がある。それなら無知も悪くはないのかもしれない、とは、やっぱり思えないのだが。

 波山は本棚に仕舞ってある図鑑を取り出すと、スケッチと見比べながらコブシの樹を調べたのだった。


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