第7話 こんな時に

「あれっ」

 私が、病室に飾られた花瓶の花の水を取り換えている時だった。親父が突然目覚めた。

「あれ?」

 親父はしきりに病室をきょろきょろ見回している。

「あれ?」

「あれっ、じゃねぇよ」

 親父が少し顔を上げ、花瓶を持ち振り返る私を見た。

「俺、何やってんの?」

「それは私が聞きたいよ」

「ここどこ?」

「病院だよ」

「なんで」

「酔っぱらって階段から転げ落ちたの」

「・・・」

 親父はしばらく呆けて天上なのか中空なのかを見つめていた。

「ここどこ?」

「だから病院だよ」

「なんで」

「だから、酔っぱらって階段から転げ落ちたの」

「・・・」

 親父はまだよく分かっていないようだった。

「全く」

 私は父の傍らに行って、顔の汗を拭いてやった。

「いてててっ」

 親父は、動こうとして叫んだ。

「そりゃ痛いよ」

 父は体の複数個所を打撲、骨折していて、更に大腿骨は複雑骨折していたため、後何回かの手術が必要だった。更にリハビリなどを入れると、相当数の日数病院にお世話になりそうだった。

父はその自らの痛みで、自らの状況を薄っすらと理解したようだった。

「俺、死ぬのか」

「死なないよ」

「そうか」

 父は子供みたいに分かりやすい表情で、ほっとした。

「でも、後何回か手術したり、いろいろリハビリなんかもしなきゃいけないんだ」

 私はそう言って、やさしく父の布団を直してあげた。父はやはり子供みたいに、誰が見ても分かるように身を縮込めて、手術という言葉に怯えていた。

 そんな父の様子を見て、私はほっとしていた。想像していた最悪の事態は避けられそうだった。担当医の話でも、脳には異常はないみたいだし、命に別状はないみたいだった。それにこの様子なら、医者が言うまでもなく大丈夫そうだった。


 病院からの帰り、事務所に、もう当たり前みたいになっている前払いをお願いに行った時だった。

「おいっ」

「えっ」

 背後から、声を掛けられ振り返ると、あのよりちゃんがソープに売られようとしていた時、その向かいのソファーに座っていた事務所の男の一人が厳しい表情で仁王立ちしていた。

「借金はいつ返すんだ?」

「えっ?」

「えっ?じゃねえよ」

「でも、よりちゃんが返してるんじゃ・・」

「あいつはバックレたぞ」

「えっ!」

 私は、目の前が真っ白になった。

「一千万・・」

 私は呆然とその場に立ち尽くした。

「二千万だ」

「二千万!なんで?」

「また借りてったぞ」

「また!」

 ホスト遊びするよりちゃんの顔が浮かんだ。私は愕然として、膝の力が抜けるのを感じた。

「待ってください」

「待てないな」

「いつまでに・・?」

「今だ」

 それは断固とした容赦のない「今だ」だった。

「・・・」

 私は何も考えられず、目の前がくらくらと暗くなっていくのを感じた。

「なんで・・」

 こういう時に限ってなんで、こういうことが重なるんだろうか・・。

 

「お兄ちゃんが・・」

 ちゃぶ台の向かいに座る母が力なく呟く。母は箸を持つには持っていたが、ご飯にはほとんど手が付けられていなかった。母はこのところ毎日こんな感じだった。心身共に完全に衰弱しきり、目も虚ろで光が無かった。小さな体が更に縮んだみたいに見えた。

 父のことは母には黙っていた。今のこの母に更に心を乱すようなことは言えなかった。

「母さん・・」

 私は母を見つめた。母はもう、龍善様の供養のことしか頭になかった。母は兄のことで思いつめ日に日に衰弱していた。

「・・・」

 私は毎日そんな痩せ衰えていく、母を見るのがとても辛かった。

「でも、三百万なんて・・」

 どう考えてもそんな大金は無かった。よりちゃんの借金もある。

「・・・」

 どう考えても、無理だった。


 父の手術費用やら入院費用やらが、更に日々の支払いに重なった。しかも、昼間は父の看護も加わり忙しさも倍増した。

 私は仕事帰り、もう深夜を回り朝になりかけている夜空を見上げた。

「・・・」

 日々の生活に追われ、同じ夜空を見上げていたあの、インドを旅していた時がもうはるか昔のように感じられた。

 あの時私は自由だった。広大な世界を私はどこまでも行けた。

「・・・」

 見上げる夜空に輝く星々は、インドやヒマラヤで見た圧倒的な光の連なりとは違い、どこか寂しく儚い瞬きに見えた。


「ちょっと、お話があります」

 もう日課となっている父の看護で病室に入ろうとしていた時、私は医者に別室に呼ばれた。

「お父様のことなんですが・・」

 診察室で椅子に座り向き合うと、医者は深刻な顔で言った。私は何か良くないことを予感した。

「想像以上に大腿骨の方の損傷が激しくてですね。このままだと、治ったとしても歩けるかどうか分からないのです」

「はあ」

 私は、まだうまく医者の言っていることが分からなかった。とてもよくないことを言われているはずなのに、それに対して感覚がどこか麻痺したみたいに鈍感になっていた。

「はっきり申しますと、かなり難しい」

 医者はレントゲンを見せながら、深刻な表情で私に説明した。

「治らないんですか」

「いえ、方法はあります。ただ特殊な手術が必要になってきます」

「それはしていただけないんですか」

「いえ、できます。ただ、それには、保険が利かないのです。まだ、認可されたばかりの特殊な素材で骨を固定しますので、自費診療ということになります・・、ですので・・、その、費用の方が・・」

「いくらですか」

「百二十万は最低掛かってきます」

「百二十万!」

「その他の治療費や入院費用なども入れると二百万はいくかと・・」

「・・・」

 私の膝の上に乗せた手に力がこもった。

「二百万円ですか・・」

「はい・・、あくまで最低・・、ということで、それくらいは掛かってきます」

「最低・・、ということは更にということもありうると」

「はい・・」

 私は、担当医の話を聞きながら、やはり、どこか感覚が麻痺したまま、呆然としていた。いろんなことが重なり、私にはもう思考力が鈍磨していた。今、今目の前で起こっていることが、現実感のない、どこか別の世界のことのような気がしていた。


 改めて父の病室に入り、私は父の傍らに置いてある丸椅子に座った。父はこっちの気も知らず、すやすやと子供みたいに病院のベッドで眠っていた。

「・・・」

 そんな父の寝顔を私は見つめた。

(「そんなちまちま稼がなくても、体売れば、一発だぞ」)あの男の言葉が、ふわふわと流れるように鈍磨した私の頭の中に浮かんでいた。

「・・・」

 こんな父でもやはり父だった。私の握った拳に力が入った。私は痺れる頭の中で、もう決心している自分を感じた。


 私はタコ社長の前に立っていた。

 私のいつにない真剣な表情を見たタコ社長は、訳も聞かず、すぐにどこかしらに電話をすると、すぐにいろいろと手続きを取ってくれた。

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