第19話『これが異世界』
ファルプ世界で1日を過ごし、彩兼は以下のような記録を音声で残している。
『そこは魔法があって人魚が海を泳ぐ世界だった。上陸した俺は不運な誤解からこの国を守る戦士達と刃を交えることになったが、誤解は解けて俺は彼らの国に入る事を許された。住民は穏やかで、宿には可愛い従業員、気のいい友人も出来た。美味しい食事、くつろげる寝床。ああ、桃源郷はここにあったんだな……』
***
この世界に来て2度目の朝が来た。
登り立ての太陽にうっすらと青い空。今日もいい天気になりそうだ。
「よし!」
町の様子を見ながら走りにでも行こうと思い部屋を出る。
「早起きは冒険者の嗜み……でもなかったか」
パンを焼く香りが鼻腔をくすぐる。
その香りに引き寄せられるように厨房に行ってみると、鼻歌を歌いながら朝食の支度をするエルの姿があった。
夫を早くに亡くし、女手一つで店を守りルワを育てる女主人は見た目以上にパワフルだ。
再婚の誘いも断り続けているらしい。
エルの様子を見る限り、彼女が起きたのはついさっきというわけではないだろう。
彩兼が目を覚ました頃にはこの世界の住人はとっくに起きて働き始めていたようだ。この世界で自分は寝坊助な部類に入ることに気付かされて苦笑する。
「エルさん、おはようございます」
「あらあら、おはようございますアヤカネさん。よくお休みになられましたか?」
「ええ、おかげさまで」
「いいえ、大したお構いもできず……ああそうだわ、少々お待ちくださいね」
そう言ってエルは綺麗な手ぬぐいを手に戻ってくる。
「朝食までまだ時間がありますから、井戸でお顔を洗ってきてはいかがですか?」
「ありがとうございます。ではそうさせてもらいます」
「井戸には娘たちもいるはずですから、分からなければ聞いてください」
「ええ、色々ありがとうございます」
エルに礼を言って手ぬぐいを受け取り外へ出る。井戸はすぐ目に付くところにあった。
「おはよう」
「おはようございまーーす!」
「うみゅ……おはようございます」
井戸ではルワとラッテがせっせと桶に水を汲んでいる。彩兼が顔を洗いに来たと分かると水の入った桶のひとつを貸してくれた。
彩兼が顔を洗い終えた後、ラッテは桶の水を捨てて汲み直す。
「悪かったね。せっかく汲んだのに。俺も手伝うよ」
「いいんですよ。いつもやってることですから」
「んみゅ。いつもやってるの……」
元気いっぱいのラッテとは対象的にルワは井戸の縁に腰掛けてうとうとと眠そうだ。
「すみません。ルワが落ちないように見ていてくれますか?」
「あはは、ルワちゃん。危ないよ?」
「ん……」
ルワは縁から降りると、今度は地面に座り込んでしまう。
「随分眠そうだね」
「すみません。その子朝が苦手で……」
水を汲み終えたラッテが両手に桶を持つ。桶はあとひとつ残っている。ルワの分だろう。
試しに水の入った桶を手にする。
「うわ! 結構重い! これ大変じゃないか!?」
木でできた水桶はそれ自体に重さがある上に、太い持ち手は若干丸めてあるが手にやさしい握り心地とはいえない。
「毎日やってますからね。これくらいへっちゃらです」
「……毎日やってるの。でも全然へっちゃらじゃない」
水の入った桶がみっつ。だが1日使う分の水がこれで足りるはずがない。彼女達はこれからあと何回も桶を持って往復するのだ。
ルワもラッテも可憐な見た目に反して逞しく生きている。日本の生活に比べてあまりに不自由な世界だが、それは不幸なことではなく、彼女達にとって日常なのだ。
「手伝うよ」
「え、そんなことさせられませんよ!」
自分の仕事だからと彩兼の申し出を断るラッテ。しかしルワの方はこれ幸いと彩兼に桶を預けてしまった。
「あ、こら!」
「いいからいいから」
ルワを嗜めるラッテだが、彩兼はラッテが持つ桶もひとつ受け持つことにした。
「ルワちゃん眠そうだし、見てないと危ないよ」
「ごめんなさい。お言葉に甘えますね」
ラッテは空いた手で寝ぼけ眼のルワの手を引く。
身寄りが無いラッテは2年前からフロッグハウスに住み込みで働いているのだという。
本当に仲のよい姉妹のようで、彩兼は妹の弥弥乃を思い出していた。
エルとルワは日本人と変わらない容姿をしているためラッテとはまるで似ていない。それが自分と弥弥乃の姿に重なって見えたのだ。
もっとも、彩兼が弥弥乃の手を握ったのは随分と昔のことになるのだが……
「家族なんだな」
「はい?」
「いや、なんでもないよ」
こうして3人で協力して水汲みを済ませ、それから美味しい朝食を頂く。そのときにルワはエルからしっかり怒られて……彩兼が一生忘れられない1日が始まった。
***
宿の客は彩兼ひとり。食堂はランチタイムからだそうだが、客はどうせ来ないだろうということで仕込みも少なめで済ませるらしい。
暇になったフロッグハウスの面々は彩兼の部屋に集まると、彩兼が語る日本の話に聞き入っていた。
それは世界を守る白の騎士と、信念を貫く赤の王子の物語。
堕落した人びとを粛清しようと星を落とし、世界を滅ぼそうとする赤の王子。それでも人々に希望の光を見せようとする白の騎士。
2人の戦いはやがて白の騎士が勝利し、赤の王子の魂を捉えることに成功する。
しかし星は既に落下を始めていて止めることができない。
白の騎士は伊達じゃない!
赤の王子の魂を手にしたまま、星を押し返そうと翼を羽ばたかせる白の騎士……
「やがて白の騎士から溢れ出てた光がまさに落下しようとしていた星を包み込み、星空高く押し戻しました。こうして世界は救われたのでした。おしまい」
語り終えた彩兼に3人から惜しみない拍手が送られる。
「面白かったですアヤカネさん!」
「うんうん」
「いえいえ、ご清聴ありがとうございます」
日本の話が聞きたいというリクエストに答えて、日本が誇る名作をこの世界の人に分かるようにアレンジして語ったのだが、中々に好評のようだ。
「赤の王子も素敵でしたわ。アヤカネさん。このお話、本にしたらどうかしら?」
「い、いや……流石にいろんなところから怒られるからダメだと思います」
「あら、残念です」
「ねえねえ、白の騎士と赤の王子はどうなったの?」
「うーん。力を使い果たして燃え尽きたって言われてるかな?」
「「「えーーー!」」」
ルワの無垢な質問に彩兼が答えると、揃って不満の声を上がる。彩兼が思った以上に登場する人物に入れ込んでしまっているようだ。
「あはは……では次はハッピーエンドなのにしましょうか。それはあるパン屋の娘の物語……」
次の話を始めようとした彩兼だったがラッテがそれを遮り席を立つ。
「あ、ちょっと待ってください。アヤカネさん喉渇いたでしょう。今飲み物持ってきます」
「ありがとう。助かるよ」
確かに少し喉が疲れていたため、彩兼はその申し出をありがたく受けることにする。
「あら、わたしったら気がつかなかったわ。ラッテちゃんお願いしていいかしら」
「はい、エルさん」
厨房へと向かうラッテ。それを見送ってからしばらくしてのことだ。
「きゃっ!」
小さな悲鳴と、派手に食器が割れる音が階下から聞こえた。
「あら? ラッテちゃん大丈夫かしら?」
「ラッテさんそそっかしいから」
「こらルワ。ちょっと見てくるわね」
ルワを嗜め、ラッテの様子を見にエルも1階へ向かう。
そのご間もなく……
「きゃぁぁぁぁぁぁっ!!」
悲鳴が聞こえた。エルの声だ。
「ルワ!! 逃げて!! 逃げなさいっ!!」
その叫びに、ただ事では無い様子を感じて彩兼とルワが顔を見合わせる。
「なんだ?」
「お母さん!?」
駆け出そうとするルワを彩兼が引き止める。
「俺が見てくる。君はここにいるんだ」
「で、でも」
「いいから、ね?」
「うん……」
不安そうな顔のルワを部屋に残し、彩兼はベストを羽織って階段を降りる。このベストは特別製で防弾防刃能力を有している。それに一応念の為にダイビングナイフのグリップを握ったままそっと階段を下りて1階へと向かう。
「エルさん? ラッテ? 大丈夫?」
呼びかけるが返事はない。
1階に下りたところで、奇妙な生物を目撃する。
「な、なんだこいつら」
それは蛙の体にピラニアの頭をくっつけたような見たことのない生物だった。大きさは中型犬くらいで、皮膚は光沢のある鉛色。
マリンリーパーと呼ばれる魔獣だ。海岸などに生息し、内陸に来ることは無いとされてきたその魔獣がフロッグハウスの1階に大量に侵入していたのである。
クチャクチャ、パキ、パキ、ギャッ、ギャッ……
1階にあった食料を漁っているのだろうか? 不愉快な音が食堂と厨房から聞こえてくる。彩兼は気づかれないようにそっと足音を忍ばせ、食堂へと足を踏み入れる。
リーパーは食事に夢中になっているらしく、彩兼は気づかれることなく食堂へと侵入することができた。
「……っ!?」
真っ赤になったフロアには無数のマリンリーパーがひしめきあい肉を貪っている。
エルだ。
エルが食われているのだ。
マリンリーパーが彼女の屍に群がり、その肉を食らっている。数分前までたおやかに微笑んでいたエルの姿は既にそこになかった。
首から上はは既に確認できないほどにぐちゃぐちゃで、赤黒い肉がわずかに骨にこびりついているのみ。リーパー達は更に強靭な顎で衣服ごと腹を食い破り、内臓を引きずり出す。
エルを解体し、それを奪い合うように食らうリーパーの群れ。あまりに凄惨な光景に彩兼は思考を奪われ、背後の気配に気がつかなかった。
「お……おかあさ……」
背中から聞こえてきた震える声に、彩兼は考えうる最悪の状況が起こった事を察する。
神様っ!! このクソ野郎!!
心の中で無情な存在をなじりつける。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
ルワの叫び声にリーパーの意識がこちらに向く。
既にご馳走にありついている個体はすぐに興味を失ったように食事を再開するが、そうでない大半がこちらに向かってくる。
蛙に似ているだけあって跳ねるように移動するが、それ程素早くはない。
「逃げろ!」
一匹がルワめがけて飛びかかるが、ルワは動けない。
彩兼はダイビングナイフを抜くと襲ってきたリーパーの鼻先を切りつける。鮮血が舞って怯むリーパー。その側頭部めがけてナイフを突き立てる。パリッと薄い骨が割れる感触がしてさらにナイフをめり込ませる。
白目を剥いて絶命したのを確認してナイフを引き抜く。
「こっちだ!」
ルワの手を引き、厨房へと向かう。そこから外へ出られたはずだ。しかしそこは既に多数のリーパーが侵入しそこで何かの血肉を食らっている。床に散らばった金色の髪……ラッテだろう。
「くそっ!」
踵を返し、その場を離れる。既に退路を絶たれたかと思ったが、リーパーの群れは彩兼が倒した死骸に群がっているようだ。
(なんてやつらだ)
同族の死骸を貪る様子のおぞましさに背筋が凍る思いだったが、それが助けになった。
彩兼はルワを肩に担いで、階段を駆け上がると、自分が借りてる部屋へと駆け込む。
「重っ……」
部屋の扉は薄い板1枚の引き戸だ。破られかねないと考えた彩兼は、ベッドを建てて、バリケードを作ろうとする。がっしりとした木製のベッドはかなり重いがふいに重さが和らいだ。
「ルワちゃん……」
彩兼の横で必死でベッドを持ち上げようとするルワ。家族を殺された直後にもかかわらず、その健気な姿に胸を打たれる。
「よし! せーのっ!」
「んっ……!」
2人で協力してベッドで扉を塞ぐ。子供でも伊達に労働していない。意外と体力があるルワは充分な助けとなった。
しばらくして部屋の外にリーパーが近づいてきた気配があったが、結局何もできずに離れていったようだ。
「お母さん……ラッテ……」
彩兼の語る物語をここで楽しそうに聞いていたのはつい今しがたのことだったはずだ。しかし、それからほんの僅かな時間で、ルワは家族を失った。
誰かの母親が突然奪われる。誰かの想い人が突然命を絶たれる。地球でだってある話だ。
(けれど、けれどさ……あんなのってないだろう? まったく何が平和な世界だ! 何が桃源郷だ!クソッタレな世界じゃないか!)
彩兼はルワを抱きしめ語りかける。
「ルワちゃん。聞かせてくれ。あれが魔獣なんだな?」
胸に顔をうずめたままルワが頷く。
「……マリンリーパーは海から離れないから、この町は大丈夫だって言ってたのに……みんな、嘘つき……嘘つき……」
胸の中でむせび泣いているルワの頭を撫でる彩兼。
アリスリット号へ戻ることができれば安全だが、それには海岸まで行かなければならない。クライミングサポートアームを使えば2階の窓からでもルワを抱えて脱出することは容易だが、既にリーパーが町中に溢れているかもしれない。安易に飛び出すのも危険だ。
(警邏隊はどうなったんだろう? とにかく情報がいる……)
ルワをここに残し、自分ひとりで外へ偵察にでようかと思ったとき、外から人の声が聞こえてきた。
「リーパーだ!! 川だ!! 川から上がってきているぞ!!」
「男衆は手を貸してくれ!! 女子供は早く防獣壕へ!!」
窓の外から聞こえてきたのはチョウタとシラベの声だ。
彩兼はそっとルワを引き剥がすと窓の外を見る。
そこにはやはりチョウタとシラベの姿。その後ろには棍棒や櫂、鉈を手にした町の住人とみられる男たちが集まっている。
「ちょーさん! シラベさん!」
「アヤカネ君! 無事かい!?」
「ええ、俺とルワちゃんは。でも……」
彩兼が言い淀んだことで彼らの表情が引きつる。
そんな中、チョウタが腰の剣を抜き皆の先頭に立つ。
「行くぞ!」
ドアを蹴破り中へと突入していく。そして、彼らはそれ
ちくしょぉぉぉぉっ!!
一匹たりとも逃がすなぁぁぁっ!!
悲鳴のような叫び声が轟いた。
「ひっ!?」
怯えたルワを抱き寄せる。
破壊と暴力の音。リーパーの断末魔。それがしばらく続いた。やがて複数の人間が階段を上がってくる足音。
「大丈夫。助かったんだよ。俺たちは」
ごめん……
心の中で謝ってから首筋に手を当てた。意識のツボを押さえて彼女を眠らせる。
下の光景を再びこの子に見せるのはあまりにも酷だと思ったからだ。
***
厨房には多数のリーパーの死骸。そして食い散らかされ肉と骨の欠片となったラッテの亡骸の前で吐瀉物にまみれたシラベが座り込んでいた。
明るい笑顔も、自分にだけ見せてくれてた恥じらうような顔ももう見ることはない。頭蓋は噛み砕かれ、金色の髪も、血と脳髄にまみれて床にへばりついている。
細い手首が奇跡的に原型をとどめたまま転がっていた。冷たいそれを両手で包むように握る。ついに彼は生きている彼女の手を握ることはできなかった。
「シラベ。すまない。辛いのはわかる。けれど、今は力を貸してくれ」
シラベの背中に語りかけるチョウタ。彼もまた目に涙を溜めていた。顔なじみの無残な姿に平気でいられるはずはない。彼も悲しみを押さえ込んでなんとか立っている。
「お前は本隊にこの事を伝えてくれ。俺は町の人と協力してなんとか奴らを食い止める」
町から本体のいる海岸までは約2キロ。急げば15分ほどでたどり着ける。しかし途中リーパーの襲撃も受けかねないこの状況では誰にでも任せられる任務では無い。
「シラベ……俺たちしかいないんだ」
彼はその場に握っていた手首を置くと、放り出していた剣を手にして立ち上がる。剣を鞘に収め背筋を正し、チョウタの方を向くとぐしゃぐしゃの顔で敬礼をする。
「伝令に向かいます!」
「頼む」
敬礼で応えるチョウタ。海岸へと走り出すシラベの背中に「ありがとう」と搾り出すように礼を言う。そして決意する。
この町は俺が守る!
***
そして彩兼は……
「冒険者は傍観者になるな……だったよな親父」
一人船に戻って熱いシャワーを浴びてベッドに潜り込んで忘れてしまう。魅力的な選択肢だ。けれどそれでは、この体験をいずれ帰った時に弥弥乃に自慢できなくなってしまう。
お兄ちゃん冒険してきた! と言えなくなってしまう。
見て、体験して、当事者となる。それが冒険だ!
「ヒーローたること、それは冒険者の嗜み!」
クライミングサポートアームに身を包むと彩兼は単身リーパーの群れの中へ向かっていった。
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