11th NUMBER『もう何も奪わないで』


「夏南汰……!」



 遠い過去から目覚めてなお、そこには君の名の響きが残った。高い天井、細く射し込む朝日の眩しさ。日焼けした本の匂い。目尻へと逃げた雫。視界を始めとしたありとあらゆる感覚が戻っていく。


 色こそ昔とあまり変わっていないけれど、ベッドに広がる自身の髪は腰あたりでも容易に掴める長さ。ここに居る自分が現世いまの“雪那”だと理解するまでに時間がかかった。



 なんとなく覚えている。天使となった夏南汰の幻想に導かれるようにして微睡みの中へと溶けていった。毛布一枚を手繰り寄せ部屋の片隅で丸まっていたはずだ。一体誰がこの寝床に移してくれたのだろう。ワダツミ様……一人では無理だよね、こんな無駄に大きな身体。



「やぁ、目が覚めたかい?」


「わぁっ!!」



 聞き慣れない声にベッドの上の僕はその場で大きく飛び上がった。昨日僕が寝落ちしたちょうどその辺りに座り、本をパタリと閉じたその人……いや、人?


 確かに人の形はしているけれど人間のたぐいではない。魔族だろうか。


 顔は陰になっていてよく見えない。そして若草色の髪からは湾曲した大きな二本の角がにょっきりと出ている。鋭い爪が生えた大きな手も髪と同じ芝生みたいな毛で覆われている。足も大きい。よく見れば尻尾まで。


 割と大きめな体格にしても、程よい爽やかさを持つ低めの声にしても、男性だということはわかった。そして本来なら真っ先に気付くであろうことに僕は一番最後に気が付いた。


「親衛隊の……制服?」


「はは、そうだよ。僕の面倒を見てくれてた親衛隊長……あ、今のアストラル王太子ね。あの人は凄く自由だったから全然この制服を着なかったけれど、僕はずっとこの格好に憧れていてね」


「親衛隊長なんですか? 何故、僕なんかのところに……」



 問いかけたところでその人がやっと顔を上げた。ガーネットみたいな赤い瞳は案外円らでなんだかあどけない。


 僕よりもずっと年上であることは明らかだ。多分、二十代半ばくらいなんだろうけれど、彼は色鮮やかで、凄く……綺麗だ。



「落ち着いて聞いてね? イヴェール……いや、雪那くん」


 うっとり見惚れていたのも束の間、真剣な眼差しをしたその人が切り出した。



「僕は君の護衛を頼まれてここに来たんだよ」


「護衛?」



「脅迫状が届いたんだ。この星幽神殿アストラル・テンプルに」


「…………!」



 身体の中心を駆け抜けるひやりとした感覚を得たと同時に嫌な汗が頰を伝った。脅迫状というとやはりあれか。



――雪那。いや、春日雪之丞――



 僕の過去を知っている誰か。僕の両親を震撼させた誰かが、ついにイヴェールの正体を見抜いたというのか?



「脅迫状の内容を見る限りだと犯人の狙いは君だね。隠れても無駄だ、正体を現しその命をもって罪を償うところを世に晒せ。さもなくば死よりも遥かに恐ろしい地獄を味わわせてやる……そんなことが書かれているんだけど、さてどうしたものか。狙われるとわかりきっている君をあまり人目に晒す訳にもいかないだろう。かと言って不自然に隠しておくのも犯人の復讐心を却って煽る可能性がある。親衛隊が動いているのだって実は極秘だ。犯人に知れたらまずいだろうね……」



 死よりも遥かに恐ろしい、地獄。



 それが何かと示された訳でもないのに、僕はすでに知っているようだった。不穏な動悸が迫り来る足音のように距離を詰めてきて、親衛隊長さんの話さえろくに理解できない。


「ああ、そうそう。親衛隊がここに来ていること自体はそれほど不自然に見えないと思うよ。僕一人だしね。親衛隊長になって間もないからあまり顔も割れてないんだ。階級章を外してしまえばいつものパトロールにしか見えないはずさ」


 僕の不安を少しでも祓おうと気遣ってくれているのだろう。だけどその優しい笑みさえ今の僕には響かないよ。自身の中で鳴り響く警鐘があまりにもうるさくって。


「しばらくは素性を隠した我々の部隊を潜入させてもらうよ。大丈夫、我々が必ず……」


 違う。違うんだ。きっとそういうことじゃない。守るべくは僕なんかではなく……!



「僕の両親はこのことを知っているんですか! 無事なんですか!?」


 ついに耐えきれなくなった僕は立ち上がった。ガクガクと震える足で必死に己を支えながら弾丸の如く問いを連射する。


「母は身体が丈夫じゃないし、父はもう高齢だ。子役だった頃だってみんなが思うほど稼いでないよ。そんなに裕福な家じゃないんだ。万全のセキュリティなんて整えられない」


「もちろんご実家にも我々の部隊を向かわせたよ。安心しなさい」


「公演も全部中止しないと……観客が巻き込まれたら大変だ!」


「雪那くん」



「僕なんかに関わったらみんな死んでしまう……!!」



 僕はベッドから転がり落ちるようにして親衛隊長さんの元へ縋り付いた。彼の制服の硬い生地の上で、僕の両手が絶えず震える。


「嫌だ……嫌だ……僕のせいで誰かが犠牲になるなんて……そんなの、もう二度と……ねぇ、僕が大人しく犯人に殺されればいいんでしょう? だったらそれでいい。それでいいよ! 僕なんかの為に周りが傷付くくらいなら」


「落ち着いて、雪那くん」


「でも!」


「その為に我々親衛隊が居るんだ。必ず阻止してみせるからそんな悲しいことを言わないで。君のこともちゃんと守る」



 硬そうな爪を持つ大きな手は、僕の背中を引っ掻くことなくひらの部分で優しく撫でた。荒々しかった僕の息遣いが次第に落ち着いていく。


「……こんなに震えて。君だって怖くないはずはないだろう。いいんだよ、生きたいと思っていいんだ」


 目頭熱く、ポロポロと溢れてくる。こんな大きなものに包まれる感覚なんてどれくらいぶりだろう。いつだって自分の方が大きい側だったから……きっと、この先も、滅多に味わえるものではないんだろうな。



「彼女のことを想っていたんだね」


「え……」



「ごめん、見るつもりはなかったんだ。だけど君が眠っている間に床に落ちていたこれが目に入ってしまってね」



 その人はナツメが遺したあの手紙を持っていた。封を開け、じかに落ちていたものならつい見てしまう人のさがもまたわかる。しょんぼりした様子で本当にごめん、ともう一度繰り返す。正直な人だな。


 彼は続けた。こんなことを。



「更に勝手なことを言うと、これを見てつい自分の過去と重ね合わせてしまったよ。いや、正確に言うと僕と妻の過去かな。彼女には忘れられない人が居るんだ。前世から繋がっている運命の男性ひと。僕はそれを間近で見てきたんたけど、それでも今世は誰よりも彼女の支えになりたい、彼女を笑顔にしたいと思って一緒になったんだ」


 硬そうな質感をした若草色の髪が揺れる。悲しげな微笑みを浮かべたその人が語るそれは


「妻が愛したその人も、妻を守る為に命を落としたんだよ。僕も大切な人を亡くした。僕よりずっと年上の女性だったんだけど、来世また巡り逢えたらって、今はそう思う」


 確かに僕と似ているのかも知れない。



 僕の震えがやっと治った頃に親衛隊長らしい凛とした眼差しが戻った。世の中にはこんなに強い人たちが沢山いるんだと思い知らされる。



「僕はクー・シー。クー・シー・D・アリエス。いかつく見られる竜魔族だけど、そんなに怖がることはないからね」


「宜しくお願いします、アリエス親衛隊長。みんなを……守って」



「クー・シーで構わないよ。それから……」



 ニッと花咲く悪戯いたずらっぽい笑顔。親衛隊長なのにやけにフランクで、兄さんって呼びたくなるよ。


 ……いや、ごめんなさい。僕のような陰気な弟なんてさすがに気持ち悪いですよねって、すぐに喉の奥に引っ込めたんだけど。正直親しみやすくて安心するんだ。



「雪那くん、君にはもっと自分を大切にすることを覚えてほしいな。君の今世が可哀想だよ。傷付いたその心を救うところまでが任務だと僕は思っているんだから」



 それでもやっぱり強い。この人は……強いな。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 もう少し

 もう少しだけこのままで


 身体ばかり大きくなったけど

 心は小さいままだった

 頼りない僕をまるごと包んでくれる


 ガーネットの輝き

 太陽の眼差しよ

 草原の香り

 大地のぬくもりよ


 広大なる人よ


 もう少し

 もう少しだけこのままで


 もう少し

 もう少しだけ……



☆✴︎☆✴︎☆



 この作品に於いて初登場となる人物が出て参りました。この人物は同シリーズ作品『ASTRAL LEGEND』(小説家になろうで公開中)にも通じている為、ネタバレしすぎないよう気を付けつつ少し解説をさせて頂きますね。


 ✴︎クー・シー・D・アリエス


 アストラル王室における現在の親衛隊長。雪那は二十代半ばと予想したが実際は三十五歳。若々しく見える顔立ちをしている。ガーネットのような朱色の瞳に若草色の髪、二本の角に大きな手足、そして尻尾という特徴的な容姿である。一つ歳下の妻は幼い頃から同じ王室で働いていた女性。彼女もまた年齢不詳の愛らしい雰囲気を持っているらしい。十歳の息子と七歳の娘を持つ父親でもある。


 クー・シーは八歳の少年時代『ASTRAL LEGEND』に登場しています。ちなみに現在のアストラル王太子・王太子妃は、とある事情により王・王妃とほぼ同年代。あと五年後に王位継承が行われる予定となっています。


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