第4話

 こうして伊勢と阪原は互いに惹かれ合うようになった。が、その性質は両者で異なる。伊勢の場合は元より自分に気を配っていた阪原に恩を感じており、千葉の私室での一件以来それがより強固なものとなったのに対し、阪原は伊勢が門弟達相手に見せた体捌きに強者の素質を確信し、畏怖に近い、千葉に抱く憧れめいた感情が発芽したのであった。

 互いに別々の想いを抱きながらも二人は切磋琢磨していった。特に伊勢の練磨は凄まじく、天性の肉体はより強靭となり、業は残心までの一連を魅入ってしまうほどに見事な冴えを見せていた。これに対抗できるのは門弟では阪原のみであった。


 その阪原に、伊勢は話した事がある。自分の父は駿河の城勤しろづとめであったが、無実の罪を着せられ斬首。家族は藩を追われ、やむなく尾張へ落ち延びたのだと。

 それを聞いた阪原は「そうか」と小さく呟き伊勢に同情を見せたが、心中には本人さえ気付かぬ燻りが生じた。駿河といえば駿府である。徳川所縁の城に勤めていたとあれば、その名はかなりのもののはずであり、阪原自身の家柄よりも、位は上である事に違いない。


「あのような身形の人間が」


 そう頭にチラついた阪原はかぶりを振った。

 豪族といえど身分は農民である彼にとって士分の地位は星の煌めきのように眩く遠い憧れであった。身分の為に剣の道へ進んだのではなかったが、やはり目標の一つに武士の名はあった。戦乱の世は終わり天下泰平となりつつある時流において、武を持ってして成り上がろうとする錯誤は重々に承知していたが、父から聞かされた、千葉の首離しの武勇はあまりに強烈であり、叶う見込みが薄いと知りながらも阪原は歩みを止める事はできなかったのである。

 その憧れていた千葉に近い位にいた伊勢が、なぜ零落し生き延びているのか。あの門弟達のような堕落は分かる。許せぬが、人の性だ。門弟達を恥知らずで見苦しく思うが、名家の人間としての立ち振る舞いは流石であった。だが伊勢にそれはない。罪を着せられ腹を切腹した父を持ちながら、どうして自分だけがのうのうと生きているのか。処罰が不服であれば陳情の、真っ当であるならば連帯の意思を見せ、父と同じく腹を切るべきなのではないかという理不尽を思案してしまったからである。


「それでは、伊勢を迫害していた彼奴らと同じではないか」


 阪原はそう自らに言い聞かせるも、一度巡った考えは泥のようにこびり付き、彼を葛藤の渦へと引き込むのであった。






 月日が経った。


 伊勢と阪原は、千葉一心流の二刀構えと謳われ名実ともにその実力を尾張に馳せていた。

 そこで一つ問題が生じた。二人の師である千葉の跡目である。


 千葉には子がなかった。昔に一人女を娶ったが流行病で先立たれ、以来そのままである。武に行き礼に通じた千葉であったが女に通ずる道は知らず、多くの人が妻を当てがおうとしたが一向にそれを固辞していたのである。刀さえ振れれば万事憂なしと頑なに血を残そうとはしない千葉の思想は家督主義の時代において大いに異端であり異常であったが、彼の人徳がそれを覆い隠しこれまでやり過ごしてきたのであったがここに来て肺を患い、一挙に断絶の色が見え始めた。もはや歳も歳故子は絶望的。であれば、門弟の中から一人養子を取ることは必定であった。問題は、誰に義理を通すかだが……


「千葉の名を継ぐのであれば、千葉の名に恥じぬ業前を持つ者こそ相応しかろう」


 千葉のこの言葉は誰に家督を与えるかを暗に示していた。それ即ち、門弟の中で最も腕の立つ人間。つまりは、伊勢か阪原という事である。

 とはいえ周りは誰もが阪原が当確だろうと口を揃えた。家柄と品位の面において伊勢は不足していた。選定の基準にない要素が不文律として存在しているというのが人々の共通の認識となっていたのだ。


 だが阪原は違った。彼は、伊勢の出生を知っていた。


 如何なる名家かは知らぬが没落した身。今は物乞い同然の暮らしを余儀なくされている。しかし血は血である。もしそれが知られれば果たしてどうなるか。落ちた名士の倅が剣一つで成り上がるなど、随分とできすぎた物語ではないか。

 阪原はこの頃、伊勢に流れるは武士の血に対し明確に嫉妬を覚えていた。手が届きそうな名誉と地位を前に、その感情は、更に厚く募っていったのであった。

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