第5話

 渦中の二人が千葉に呼び出されたのは彼が跡目について語った程なくの事であった。


「話は聞いているとは思うが、私も歳には勝てなんだ。よって、貴様らいずれかを跡取りとしたいと考えておる」


 両者とも他者から十分に聞き及んでいたが、いざ師の口から語られるとその言葉の重みは想像以上であった。

 伊勢も阪原も互いに息を呑み不動であった。どちらも「是非自分が」とは口にはできなかったのである。


「いずれかはまだ決まっておらぬが、まずはどちらかは師範代となってもらう。日々精進し、技を磨くように」


 それだけ行って二人は解放された。どちらも無言のまま淡々と歩いていたがその心中は穏やかではなく、我欲と親愛と、そして、禍々しいと形容してもいい妬心が渦巻いていた。

 こと阪原に至っては焦燥感から、憎悪といっても差し支えない程の強力な情念が湧き上がっていた。幼い頃から聞かされていた千葉の、その跡を継げるかもしれない。千葉一心流を背負うとは、いってみれば、自身の生における唯一にして最大の夢なのである。

 そこへ立ち塞がる巨大な壁が伊勢だった。阪原は伊勢の肉を、技の冴えを知っていた。今はまだ互角。だが、将来決して敵わぬ相手となる事もまた、彼は知っていたのだった。


 やるならば今しか……


 阪原の頭にそんな邪が過ぎり、次第に影が射していった。元より表情の変化は乏しかったが決して暗いというわけではなく顔には常に覇気が漲っていたのだが、もはや暗鬱へと変貌し、死相とも思えるような不吉さが見えるようになっていった。


 とはいえ泰平の世において刀一つで登りつめられる一つの到達点に手が伸びようとしているのは確かな事実であり、自らが評価されているという素直な喜びも二人は持っていた。僅かだが浮ついた素振りを見せる事もあり、それに気付いた者は、歳相応に嬉々とした感情があるのだなと好意的な笑みを浮かべたのだが、一部、そうでないと人間もいた。あの日、伊勢を呼び出し傷めつけ、返り討ちにあった門弟達である。



 彼らはあの日からずっと闇を抱えて生きてきた。


 阪原はいい。出自は農民だが礼儀はできており、そもそもあぁいう人間であると自分達も認めていたのだからそれを責める気にはなれない。師の千葉も、あの日、判断を誤ったとは思うが結局咎めはなかった。まだ許せる。しかし、奴は、伊勢だけは、卑しい身の分際で自分達に恥をかかせ、あまつさえ、武士の身分を手にしようとしているのだ。それだけは我慢できん。それだけは承服しかねる。何としても、奴が千葉の跡目を継ぐ事は阻止しなければならぬ。


 門弟達は伊勢を深く憎んでいた。安いながらも持って生まれた誇りを傷付けられた彼らの心には復讐の二文字か刻まれ、虎視眈々とその機会を伺ってきたのだ。

 この憤怒が愚かな事であるとは当人達にも分かっていた。千葉と阪原を標的としない姑息も重々承知していたが、誰もそれを口にしなかった。


 身分とは即ちそういうものである。弱者に対して絶対的な理不尽が通り許容されるのが彼らの正義であり真理なのだ。その道理を外れるのは自己の消失と変わらない。自らの血と位こそが人格の中核として生きてきた人間が今更人としての徳など持ちようがない。身分社会とは、そうした悲劇によって成り立っているのである。


「殺そう。伊勢を」


 門弟達の誰かが言った。


 その会合に参加していた三名。伊勢の殺害に関し言葉なき承認を持ってして一致。


 凶刃が、鞘から抜かれたのであった。

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