第2話

「なぜ私が千葉だと分かる」


 平服する伊勢に千葉は更に尋ね、伊勢は頭を下げながら言葉を続けた。


「恐れながら、足腰の運びが違いまする」


 その一言に奥にいた門弟達は騒めいた。

 千葉一心流の極意、万里一眺の間合いは、尋常ならざる鍛錬により為す鋼のような足腰の筋力と猫科動物のような柔軟性がその骨子である。千葉の位に至れば踏み出す一歩一歩に剛柔の混成が見られるのだが、しかしそれは、同じく千葉の技を習う人間こそが分かりうる微細なものであり、初見の人間が看破できるものではなかった。それを……


「……よろしい」


 千葉の一言は這いずる男の首を上げさせた。その刹那、一閃の後に抜刀された刀身が、持ち上がった伊勢の喉元に吸い付き鮮血が滴ったのである。思わず「ひぃ」と悲鳴を零す伊勢であったが、あまりの恐怖故微動だもできず、震えながら突き付けられた刀の切っ先を眺める事しかできなかった。


「並みの覚悟であらばその首、即座に落ちると思え」


 小刻みに何度も頷く伊勢は小便を漏らし、門弟達の何人かははそれを見て笑い、何人かは顔を伏せた。この一連の流れは一心流の洗礼であり、千葉に師事を請う人間は等しくその首に雷光のような抜き打ちをくらうのである。かつて失禁した人間は伊勢ばかりではなく、粗相をした者は例外なく笑われた。顔を背けるのはそういった者達であった。

 だが一人だけ、笑う事も俯く事もせず伊勢を見る男がいた。阪原である。

 阪原は伊勢をじっと見ていた。発達した脚を、隆起した腕を、これからまだ育つであろう体躯を、そして、千葉の所作を一目で見抜いた隻眼を観たのだった。この時阪原は元服を済ませていたが女などまるで興味なく色より剣に精を出していた。そんな阪原の逸物が逆立ったのは、伊勢と同じように自らの首筋へ刀身を当てられた時と、その伊勢の逞しい肉を見た時ばかりであった。


 かくして伊勢は千葉に認められその名を背に剣の道を歩む事を許されたが門弟の中には彼を快く思わぬ者もいた。

 きっての実践剣術である一心流であったがやはり金の苦心は付いて回る。合戦で得た恩賞ばかりを充てるわけもいかず、千葉は阪原のように名のある家柄の人間を多く迎え入れていた。名家の出なれば下士以下の階級を蔑するも無理からぬ事、乞食と間違えられるような伊勢に嫌悪感を抱くのもまた必然であった。彼らは伊勢を「野良犬」と呼び、出稽古と称してはよく外に連れ出して複数人で一方的に打ちのめしていた。それは徐々に道場全体に広がり、誰もが伊勢を犬と呼び始め惨めな扱いをしたのだが、阪原だけは参加せず怪我をした伊勢の手当などをしていた。


「お前は俺を何とも思わないのか」


 伊勢がそう聞くと、阪原は「つまらぬ事」と言うだけであった。


 さて。道場内の不和について千葉は当然それを知っていた。

 だが、あえて黙っていたのだった。それは一見、金払いのいい門弟達の家へ配慮しているように思われるがそうではない。むしろ、その傍観は伊勢への期待の表れだったのである。


 ある日、いつものように伊勢は連れ出され制裁を受けていた。木剣で滅多やたらに殴打される中、黙ってそれに耐えていた。だが、一つ異な事が起きた。腰を痛めていた菊に代わって買い出しをしていた阪原が、偶然その場に通りかかったのだ。阪原は篭を置き門弟達に向かった。その目には静かな怒気と殺意が宿っていた。

 道場内での理不尽は修行の一環。是非なき事。だが、道場外においての仕打ちは捨て置けぬ。阪原はそういう男であった。そして伊勢もそれを分かっていた。


「来るな!」


 伊勢がそう叫ぶと痛め付けていた門弟達は阪原の方を向いた。瞬間、瞬く間の内に門弟達は打倒され白目を向いた。伊勢の打撃が彼らを襲ったのである。形だけでいえば不意打ちである。だが伊勢はいつでも門弟を返り討ちにできたのだ。そうしなかったのは、高名な家の出の者相手に問題を起こせば千葉に迷惑をかけると思い忍んでいたからに他ならない。偏に、師への為を想えばの忍耐であった。

 しかし阪原はそんな思案を巡らせぬだろう。なぜなら、自身の血筋もまた名家のものなのだから。なれば自分がやるしかない。阪原の、恩人の手を汚させるわけにはいかない。

 この時伊勢は、そう考え覚悟を決めた。


 阪原は全てを見届けると、一瞬笑みを見せて背を向け、伊勢も逃げるようにしてその場を立ち去った。

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